若林強斎の『神道大意』は、享保10(1725)年8月、多賀社の祠宮大岡氏の邸で強斎が行った講説を門人の野村淡斎が浄書し、強斎自ら補訂を加えたものである。
この『神道大意』の真髄を理解するために、まず近藤啓吾先生の「日本の神」(平成24年4月25日)を精読したい。この論文は近藤先生著『三續紹宇文稿』(拾穂書屋蔵版、平成25年1月)の冒頭に収められている。
〈「(神道大意)おそれある御事なれども、神道のあらましを申したてまつらば、水をひとつ汲むというても、水には水の神霊がましますゆゑ、あれあそこに水の神罔象女(みづはのめ)様が御座成られて、あだおろそかにならぬ事と思ひ、火をひとつ焼くというても、あれあそこに火の神軻遇突智(かぐつち)様が御座成らるる故、大事のことと思ひ、纔かに木一本用ふるも句句廼馳(くぐのち)様が御座成られ、草一本でも草野姫(かやのひめ)様が御座成らるるものをと、何につけかに付け、触るる所まじはる所、あれあそこに在ますと戴きたてまつり崇めたてまつりて、やれ大事とおそれつつしむが神道にて、かういふなりが即ち常住の功夫(くふう、平生のエ夫をいふ)ともなりたるものなり」
以上第一段、古伝を素直に受け、伊勢神道の説を継ぎ、この世に存在するあらゆるもの、すべて神の生み給ふところであつて、その神霊を得てその存在価値としてゐることを述べて、一木一草にも神の分霊がまします故、これを戴き奉り崇めたてまつりて、やれ大事と恐れ謹しむが神道にて、そのこころを守らんとする努力が、即ち神道を奉ずるものの平生の工夫であることを述べてゐる。〉