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森谷正規評 アジア復権の希望マハティール 坪内隆彦著(亜紀書房・一九〇〇円)本と出会う─批評と紹介(3)『毎日新聞』1994年10月31日、11ページ

日本よ、マゴマゴしていると…
 つい、村山、河野、小沢の姿を思い浮かべてしまう。政治家として、何と違うことか。
 マレーシア首相のマハティール・ビン・モハマドは、信念を貫き通し、大国米国とも闘う政治家である。
 「アジアはアジアの意志でやっていくのだ」というのがその強固な信念であり、EAEC構想を強く提唱し続けている。これは東アジア経済圏を築くという構想で、九〇年十二月にマハティールが提案した。
 アジア・太平洋にはAPECという経済協力会議があるが、ここには米国、カナダも入っていて、非アジア先進国主導になる。そこでアジアはアジアだけでと、EAECを提唱するのだが、はずされた米国は経済ブロック化だと強く反発して潰そうとする。
 だがマハティールは一歩も引かない。米国はNAFTA(北米自由貿易協定)を作り、欧州にはEUがあり、アジアにもアジアだけの経済連合があっていいはずだと主張するのだ。
 中国、ASEAN諸国はEAEC構想を支持しているのだが、米国に逆らえない日本の政治家、官僚の態度は煮え切らない。アジアで仲間はずれにされても大いに困る。かといってアジアのビジョンを描こうともせず、リーダーシップはとらず、アジアの力強い政治家たちと比べて、じつに影が溥いのだ。
 マハティールは、経済発展のみを目指しているのではない。欧米的価値観が支配する現代はさまざま面で限界にぶつかっており、アジア的価値観を復興させて、経済、社会を再生させようというのだ。
 庶民の家に生まれたマハティールは医師となったが、農村診療を通してマレー人の貧困に直面し、政治家を志した。三十八歳で下院議員になり、マレー人優先策を強く主張して時の首相に反抗し、与党から除名されるが、マレー系と中国系の人種暴動を契機に政権が変わり復帰する。
 やがて能力が認められて、教育相、副首相を経て、八一年に首相に就任した。
 すでに十四年間も、国民の強い支持を得て確固たる政権を維持しているのだが、連合与党による連立政権なのだ。偉大な政治家がいれば、連立政権はかくも安定する。
 そのマハティールに強い思い入れを持つ著者はフリーのジャーナリストで、いま二十九歳ととても若い。若いから元気いっぱいで、マハティールを熱く支持する文を素直に綴っている。少しも恰好をつけることなく、爽やかだ。
 私もマハティールに何がしかの思い入れがある。「ジャパニーズ・テクノロジー」という私の著書の英訳本をマハティールが読んで、国の工業化発展に必読の書であるとして千冊も購入して政府幹部に配った。その縁で十年ほど前、クアラルンプールでお目にかかった。穏やかな人であった。
 当時、「ルック・イースト」を掲げて、日本や韓国に学べと工業化を導いていたマハティールは、いまも日本に強い期待をかけている。
 アジアはこれから急速に発展していく。中でも巨大な中国の工業発展は恐ろしいほどの影響をアジアに与えるのは確かで、アジア諸国の政治家たちはそれをいかに受けとめるべきか、懸命に模索している。アジアの経済と政治が激しく渦をまく時代だ。マゴマゴしていたら日本は、金と技術を出すだけの国になる。そして経済も衰退していく。
 日本にも、政治家が欲しい。

議論呼ぶマハティール構想――米欧に反発するアジアの声代弁(時の本)『日本経済新聞』1994年10月16日付朝刊、21ページ

 経済で自信をつけたアジア諸国が発するメッセージが世界を揺さぶっている。欧米の人権、環境問題に関する圧力に反駁(ばく)するマレーシアのマハティール首相が代表例である。その政治的意志の実現を目指す東アジア経済協議体(EAEC)構想は米国の強い反発も招いた。
 このマハティール構想に日本も割れている。安全保障面も含め現実的に世界を動かす米欧との友好関係を重視し、マハティール構想を退けようとする欧米派と、アジアの一員として日本はアジアの立場にもっとくみするべきだというアジア派の論争である。
 欧米派がEAECに反対する論拠は、地域貿易ブロックに結びつく危険がある、というものだ。だが、マハティール構想の主眼は、米欧諸国の力を背景にした価値観の押し付けや、小国の利益を無視しがちな昔ながらの先進大国の姿勢を戒めることで、経済ブロックの形成ではない。
 坪内隆彦著「アジア復権の希望 マハティール」(亜紀書房)はそうした経緯を一九八一年に首相に就任したマハティール氏の生い立ち、思想形成の過程、そして発展途上小国の置かれた国際環境も踏まえて、その論理をやや思い入れを込めながらもうまく説明している。
 「小国は結束しないと理不尽な米欧の圧力に対抗できない」とのマハティール首相の考えは、米国が大国である中国に対して経済関係を重視、人権問題の押し付けを断念したことで、説得力が増している。欧州連合(EU)も欧米論理の押し付けに反発する東南アジア諸国連合(ASEAN)に歩み寄り、経済関係強化を優先する姿勢に転じた。
 問題は、日本ではマハティール構想の理念が十数年前から発せられながら無視されてきたことである。マハティール首相の言動が日本で注目を浴びているのも欧米の反発がきっかけだった。
 米欧派も心情的アジア派も日本の針路を考える上で、マハティール首相に限らず、発言を始めたアジアの行動の真意、背景などをよく知る必要がある。それで初めて日本が、真のアジアの時代を語る資格が生まれる。(翠)

佐藤栄作賞に茂木さんら『朝日新聞』1991年3月24日付朝刊、30ページ

 第7回佐藤栄作賞(佐藤栄作記念国連大学協賛財団)の受賞者が、このほど次の通り決まった。授賞式は26日、東京都渋谷区の国際連合大学で行われる。(敬称略)
 【最優秀賞=賞金50万円】東大大学院生、茂木健一郎【優秀賞】聖ボナヴェントゥーラ大助教授、アパ・ラオ・コルコンダ▽米ペンブローク州立大学学部長、フランク・シュマレガー▽広島大大学院生、先崎健▽フリージャーナリスト、坪内隆彦【佳作】無職、河合圭二郎

茂木氏に最優秀「佐藤栄作賞」(消息)『日本経済新聞』1991年3月21日付朝刊、34ページ

 第七回「佐藤栄作賞」(主催=佐藤栄作記念国連大学協賛財団、後援=外務省、文部省、日本経済新聞社)論文の最優秀賞、優秀賞四編、佳作一編が決定、二十日に発表された。最優秀賞には賞状と副賞五十万円、優秀賞には賞状と副賞二十万円、佳作には賞状と副賞五万円が贈られる。今回のテーマは「最近の世界秩序の急激な変貌(ぼう)に際しての国連のあり方と国連大学の役割」。授賞式は二十六日、東京都渋谷区の国連大学で。  最優秀賞=東京大学大学院生、茂木健一郎氏(28)
 優秀賞=聖ボナベントゥーラ大学経営学部助教授、アパ・ラオ・コルコンダ氏(41)▽ペンブローク州立大学社会学・社会福祉学・刑事司法学部学部長、フランク・シュマレガー氏▽広島大学大学院生、先崎健氏(35)▽フリージャーナリスト、坪内隆彦氏(26)
 佳作=無職、河合圭二郎氏(74)

天野信景『塩尻』の中の尾張氏

天野信景『塩尻』(帝国書院、明治40年)

 尾張藩国体思想の発展を支えた天野信景は随筆『塩尻』において、尾張氏について言及していた。

 例えば、「尾張氏は天孫火明尊(ほあかりのみこと)の御子天香山命(あめのかぐやまのみこと)の後胤小豊命(おとよのみこと)の裔也。朝家に仕へて尾張の国造となれり。且代々熱田の祠を奉す。孝徳天皇御宇尾張宿禰忠命御神を今の宮所にうつし奉る」と書いている。また、尾張連については以下のように書いている。

 「尾張連は天香山命の孫小豊命の子建稲種命より出、旧事記及び姓氏録に詳也。亦甚目連公(はだめのむらじのきみ)と同じ流れにや。清和帝貞観六年六月八日尾張国海部の人治部少輔従六位の上、甚目連公宗氏尾張の医師従六位上、甚目連公冬雄等同族十六人に姓を高尾張の宿禰と賜はりしよし。三代実録九に見えたり」

 ちなみに、愛知県あま市には甚目寺がある。その東門前に漆部神社が鎮座している。同神社の祭神である三見宿祢命は漆部連の祖であり、『旧事本紀』天孫本紀によると、宇摩志麻治命の四世孫で、出雲醜大臣命の子。甚目連公もまたその一族とされる。

尾張氏と皇室

 『日本書紀』によると、尾張氏の祖は天照国照彦天火明(あめのほあかり)命であり、その子の天香語山(あめのかごやま)命とともに、紀伊の熊野に移り、神武東征に大功を立てたとされる。
 尾張氏は天皇家の外戚として力を振るっていた。尾張連祖瀛津世襲(おきつよそ)の妹である世襲足媛(古事記では余曾多本毘売(よそたほびめ)命)は、第五代・孝昭天皇の皇后である。その子は、第6代・孝安天皇である。また、尾張連祖の尾張大海(おわりのおおしあま)媛(古事記では意富阿麻比売(オオアマヒメ))は、第十代・崇神天皇の皇后である。
 その子孫の乎止支(かしき)命は、後に尾張大印岐(おわりおおいき)の娘・真敷刀婢(ましきのとべ)を娶り、尾張国造に任命されて、尾張連と称した。
 その子である建稲種命は、日本武尊の東征に副将軍として随行し軍功を上げている。また、その妹の宮簀媛(古事記では美夜受比売)は日本武尊の妃となっている。そのときに預かった草薙剣を奉納して建てたのが、熱田社(熱田神宮)だとされている。
 ただし、史実として信憑性が高いのはこれ以後の歴史である。まず、尾張連草香の娘・目子媛が、第26代・継体天皇の皇后だという史実である。その第一子・勾大兄皇子は第27代・安閑天皇として、檜隈高田皇子は第28代・宣化天皇として即位された。安閑天皇二年五月には、尾張に間敷と入鹿の二つの屯倉が置かれている。

 さらに、壬申の乱では、尾張氏が大海人皇子を全面的に支援し、第40代・天武天皇の誕生に大きな功績を上げている。尾張大隅が大海人皇子に私宅を提供したとされる。『続日本紀』によると、大海人皇子が吉野宮を脱して関東に行った際、大隅は私邸を掃除して行宮に提供し、軍資を出して助けた。この行宮の場所がどこであったか、それを探究したのが、江戸期の国体思想家・河村秀根である。彼は『書紀集解』(「天渟中原瀛眞人天皇上」)において、行宮の場所が美濃国の野上(現・岐阜県不破郡関ヶ原野上)だと主張した。

『書紀集解』(「天渟中原瀛眞人天皇上」

『熱田本社末社神体尊命記集説』と尾張氏

 天野信景は、元禄六(一六九三)年に『熱田本社末社神体尊命記集説』を著している。同書は、まず熱田社人の著した『熱田本社末社神体尊命記』の記事を掲げ、これに対する関係文献の記事を掲げて、その論拠を示して考証を進めた上で、自説を述べている。当時、熱田社の事蹟は諸説紛糾して定まらず、古来の社伝と相違するものが多かったことが、背景にある。
 同書の特徴の一つは、社家尾張氏の古伝を重視している点にある。同書奥書によれば、信景は親戚関係にあり、懇意にしていた祝師田島仲頼から尾張氏の古伝を聞き、それに基づいて書き記している。
 同書に示された尾張氏系図略を以下に示す。

『熱田本社末社神体尊命記集説』掲載の尾張氏系図略

神道の百科全書をまとめた真野時綱

 神道の百科全書とも呼ばれる『古今神学類編』をまとめた真野時綱は、慶安元(一六四八)年、津島神社(津島牛頭天王社)の神官家太郎太夫家に生まれた。
 時綱は寛文三(一六六三)年、わずか十五歳で白川神祇伯家の門に入り、吉田神道で説く理法の一つ「十八神道」の伝授を受けている。京都に上ったのは、その二年後の寛文五年のことである。京都では、右大臣久我広通の兄(東愚公)の門に入った。ただ、時綱は当時未だ十七歳であり、基礎的学業が不足していたので一旦尾張に帰国し、名古屋東照宮の祠官を務めていた吉見直勝(幸和の祖父)の門に入り、神道国学を受けた。
 寛文八(一六六八)年、再度上京し、久我雅通に師事した。また、吉田神道派の卜部兼魚について神道国学を学んでいる。以来、天和二(一六八二)年に帰郷するまで、十四年間京都で学問を続けたのである。
 時綱は、若い頃から伊勢神宮の外宮祠官出口延佳にも師事していた。矢﨑浩之氏が指摘するように、延佳が元禄三(一六九〇)年正月に没すると、時綱はその半年後には『神代図解』を著して、先師顕彰の意を表明した。この『神代図解』は、延佳が明暦二(一六五六)に著した『神代之図』と、天和三(一六八三)年に著した『神代図鈔』を解説したものである。
 つまり、時綱は吉田神道と伊勢神道の両方を学んだということである。また、天野信景や松下見林とも交流していた。
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吉田神道と垂加神道

■吉田神道の力を強めた「諸社禰宜神主法度」
 徳川幕府においては、吉田神道の力が非常に強まった。大きな転機となったのが、幕府が寛文五(一六六五)年に発布した「諸社禰宜神主法度」である。
 この法度によって、吉田家が神職管掌の根幹と位置づけられ、官位のない社人は必ず白張のみを着用するものとし、狩衣や烏帽子などの着用には吉田家の許可が必要だと定められたのだ。
 近世において、吉田家は神職の家元(本所)として、吉田家と競合していたが、この法度によって、吉田家が地方の大小神社を組織化する上で極めて有利になった。しかし、出雲大社、阿蘇宮、熱田神社など地方大社で、この法度に対する反発が広がった。
 では、いかにして吉田神道はこうした特別の地位を得るに至ったのだろうか。吉田神道の大成者として知られるのが吉田兼倶である。彼は、永享七(一四三五)年に卜部兼名の子として誕生した。
 兼倶は卜部家の家職・家学を継承し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。応仁・文明の乱(一四六七~一四七七年)後の混乱時に、斎場所を京都吉田山に再建し、足利義政の妻日野富子や後土御門天皇(在位期間:一四六四~一五〇〇)の支持をとりつけた。
 また、兼倶は『神道大意』などが自身の家に伝えられたものだと主張したり、伊勢神宮のご神体が飛来したとするなどして、吉田神社の権威を高めたのである。堀込純一氏は以下のように指摘している。
 「神祇官伯家の白川家が衰退する戦国初期には、吉田兼倶が吉田神社に大元宮と称する独特の神殿を建て、ここにすべての天神地祇、全国三千余社の神々を勧請し、神祇管領長上などと自称して、神号・神位の授与や神官の補任裁許などを始めた」(堀込純一「藩制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑭」)
 「神号・神位の授与」は、宗源宣旨として確立された。宗源宣旨は、諸国の神社に位階、神号、神職に許状を授けるために吉田家から出された文書である。 続きを読む 吉田神道と垂加神道

垂加神道の「熱田之伝」

 垂加神道は、宝剣伝に附随して「熱田之伝」を説いた。
 尾張の国名と熱田社の土用殿とについて特殊の意義が込められているとの説である。『諸伝極秘之口授』には、以下のように書かれている。
 「尾張ハモト宝剣ノ御鎮座ニヨツテ付タ。則尾張ハ尾ノ針ト云コト。熱田ハ夏田ノ訓、此剣ノ納テアル御殿ヲ土用ノ御殿ト云。コレハナゼニナレバ、金気ヲ克スルモノハ火、ソレデ火剋金ヲ恐レタモノ。土用ノ御殿トイテモ火生土、土生金ト土カラ生ジサセル様ニト云コト。夏ハ火、田ハ土ユヘ熱田ガ夏ノ土用ト云コトニナル。則夏越祓、アレガ夏カラ秋ヘウツル処ノ火剋金ヲヽソレテ、スガヌキノ輪ヲコシラヘテ南カラ中ヘハイリテ、ソシテ西ヘヌケル。コレガ火生土、土生金ノ行ヒ。ソレデ人デモ金気ノトロケタ時、リント敬ムト気ガ立テクル。兎角金気ハ土カラデナケレバヲコラヌ」
 松本丘先生は、〈尾張の国号は大蛇の「尾ノ針」、即ち宝剣の鎮座に由来するものとし、それを奉祀する土用殿の語義も、五行説を用ゐつつ敬の根基となる金気に結び付けて解釈するものである〉と述べている。
 素戔嗚尊の帰善と宝剣の出現の解釈同様に、熱田之伝にもまた吉川神道の影響が窺えるが、松本先生が指摘するように、垂加神道においては、土用殿についても素尊の敬に引きつけて説かれており、より倫理的傾向を強めている。