皇道政治の理想を追求大井一哲は、明治維新後のわが国の政治形態をどのように見ていたのであろうか。
彼は、慶応4年 (明治元年) 3月14日(1868年4月6日)に明治天皇がお下しになった五箇条の御誓文を高く評価した。

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其ノ志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破り、天地ノ公道二基クヘシ
一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

大井は御誓文について「実に国是の大本を確定せられた大文字であつて、憲法の制定も、議会の開設も、みなこの中に含蓄されてゐることは云ふ迄もない。斯の如くにして君民一如、一君万民の政治は茲に恢復せられたのである」ととらえた(120―121頁)。
ところが、その後の展開は大井の期待を大きく裏切るものだった。彼は概要以下のように述べている。
藩閥内閣、官僚内閣は、いずれも官権万能を守持して、天皇政治の目標とする下層多数国民に圧迫を加えたことにおいて同じだった。富豪と結託し、政商の請託を容れ、彼らに特別の保護を与えることも同じだった。このような事態に直面し、自由民権論者は藩閥政府、官僚政府の打倒に向かい、官権と民権とは随所で衝突し、藩閥と政党は互いに反目するに至った。やがて、大正七年に純然たる政党内閣として原敬内閣が成立したが、事態はさらに悪化していった(118―123頁)。
そして大井は、次のように激しく政党政治の実態を批判した。
「その富豪と結託し、政商を保護する点において、藩閥よりも、官僚よりも、その弊一層甚だしきを加へ、権勢を利用して限りなく利権を漁り、私曲を逞うして縦ままに自個を肥やすといふ醜状が暴露された。選挙の際にこそ『選挙第一主義』から、如何にも尤らしく一生懸命に、政見や政策をならべ立てて、あつぱれ国士の体面を装ふが、運よく当選して議会に入るや、忽ち仮面をかなぐり棄て、野獣のやうな本性を現はして、啀み合ひ、噛み合ひ、擲り合ひを演じて、神聖な議場を修羅の街と化して了ふ醜状は毎年議会の常例となつた」(126、127頁)
さらに大井は、政党政治は天皇御親政の反逆であり、皇道政治の賊だと断じ、君国のために一身を捧げる覚悟のある誠忠の人でなければ、天皇政治の下において内閣を組織して、輔弼の責任を全うすることはできないと強調する。

坪内隆彦