以下、広沢安任氏の「永久平和の先駆」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー)を紹介します。
木村武雄という有力な代議士がいたことを知っている人は決して多くない。木村は石原莞爾の王道アジア主義の継承者である。同じ山形県の出身でもあり、木村は戦前より東亜連合の思想に惹かれ、石原の門下生となっている。木村は、歴史の方向性を変える変革者として、石原をナポレオン、レーニンと並ぶ逸材と評している。石原没後暫くした後に著作として世に問うている(木村武雄著 ナポレオン レーニン 石原莞爾 近世史上の三大革命家)。
石原莞爾ほど誤解されている人物は珍しい。満州事変の謀略を実行した張本人とされている為だが、死去する際には永久平和の実現に進むべきことを提唱している。
石原には有名な「世界最終戦論」という著作があるが、多くの評論などでは真実が正しく伝えられていない。終戦後、山形県庄内地方の鳥海山麓で石原と共に農場を創設した武田邦太朗は次のように骨子を適切に纏めている。
「世界を二分する大勢力が領土や資源を目的とせず、主義の勝敗をかけ、開戦と同時に勝敗の決まる徹底した決戦戦争を、人類の最後の戦争として戦う時期は切迫している。最終戦争なしに、永久平和が実現すれば、これに越したことはないが、世界の現実を直視すれば最終戦争不可避の公算が大きい。故に日本は最終戦争の一方を担うという発想の元に、東亜諸国と心から手を握り、国土計画を始め一切の準備を整え、戦争の悲惨さに耐えつつ公正な世界平和の実現を期すべき時である」
しかし、その目論見は外れ、日本は敗戦国となり、石原が述べた最終戦争は米国とソ連の間で行われるであろうと予測した。日本はそのどちらにも加担せず、国際世論をリードして、世界最終戦争を回避しつつ、平和へと導く役割を担うべきとした。そして、石原は戦後の日本復興を見ることなく、「身に寸鉄を帯びず」という言葉を残して昭和24(1949)年に亡くなった。其の最後を看取った一人が武田邦太朗だった。戦後は現実政治にも携わったが、晩年は石原の郷里の山形県庄内地方に戻り、石原の墓守として静かに過ごした。
世界は石原の予測の通りに米ソの冷戦時代に突入した。ところが、その一方であったソ連は、自ら崩壊した。残念ながら、その過程において石原が求めたような日本が大きな役割を果たすことはなかった。石原は21世紀の初頭には永久平和が訪れる旨を予言したが、その兆しは全くない。米ソの冷戦構造が崩壊したことによって、それまで均衡を保っていた国家間のバランスが崩れ、民族主義や原理主義、国家主義が台頭して今日を迎えている。そして現在は、ソ連に代わって中国が経済的も軍事的にも肥大化して、米国との新たな冷戦構造を作ろうとしている。
最近は中国に対しては、厳しい眼差しが向けられている。香港における民衆運動の弾圧や台湾有事の懸念、中国国内の人権弾圧などを考えれば当然と言えよう。しかし、この混迷極まる状況下であるからこそ、日中関係の歴史を俯瞰してみる必要性があるのではないか。日中国交正常化における裏方での木村武雄の尽力を知る人は少ない。坪内氏は王道アジア主義を基盤とした視点に立ち、丁寧に石原莞爾と、その思想の継承者である木村武雄を描き切っている。本著は一人でも多くの人に読まれるべきである。