── ようやく、日中国交正常化を実現するための環境が生まれてきた。石原莞爾先生の悲願をいまこそ私が成就させなければならない。
 木村武雄はそう決意したに違いない。昭和四十六(一九七一)年八月十五日、木村は石原莞爾に誓いを立てるべく、米沢の御成山公園に「石原莞爾分骨記念碑」を建立した。昭和二十四(一九四九)年八月十五日に石原が亡くなると、木村は石原の遺骨を分骨し、米沢に持ち帰って埋葬していたのである。
 令和四年八月、この分骨記念碑を訪れるため、木村武雄の次男莞爾氏、三男征四郎氏、孫の忠三氏の案内で、大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに車を走らせた。中腹の御成山公園からは米沢盆地を見渡せる。そこからさらに八百メートルほど山道に沿って登ると、重厚な記念碑が姿を現した。高さは五メートルほどもある。木村はこの記念碑を石原の故郷鶴岡に向けて建てたという。木村が撰した碑文には、彼の思いが凝縮されている。
 〈石原莞爾先生は明治二十六年一月十八日、山形県鶴岡市日和町で生誕されて、昭和二十四年八月十五日山形県飽海郡遊佐町に逝去された。在世六十年七ヵ月である。
 先生の歴史は昭和六年九月十八日の満州事変と満州建国に要約し得るが、その中に包蔵された先生の思想はこの歴史よりも遥かに雄大で、岡倉天心のアジアは一なりの思想、孫文の大アジア主義と軌を一にする東亜連盟から世界最終戦争論にまで発展する。その総てが世界絶対平和を追求する石原先生の革命思想の発露である。
 
 岡倉天心が明治二十六年七月、中国に渡って欧州列強の半植民地政策による貧困と苦痛をつぶさに観察して足を印度に延ばし、詩聖タゴールと交ってヨーロッパの繁栄はアジアの恥辱なりと喝破してアジア復興をアジアの団結に求めて印度を追放されたのも、孫文が日本に亡命してアジア主義を提唱して中国の独立を日本の援助に托したのも、石原先生が満州を建国して東亜連盟に踏み出したのも、その真情は総じてアジアの解放にある。
 先生はアジアを直視して、アジアの独立と繁栄が、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まるとした。そして先の両国の中間にあたる満州に日華民族の協和する王道楽土を建国し、これを橋梁として多年抗争する両国を東亜連盟で結んで欧米勢力と対決して人類歴史の前史を最終戦争の勝利で締めくくり、かくて世界絶対平和の後史をアジア人の道徳を中心として建設せんとした。だが、その構想は爾後の戦争で歪曲蹂躙され敗戦と共に埋没したが、先生の思想と行動は昭和前史の□□と共に永く後世を照鑑する事と確信する。世に石原先生ほどアジア人を愛した人は少ない。
 そしてその解放と繁栄と世界絶対平和を、マルクスの唯物史観を超えた先生の戦争史観に□□を托されたが、史観の予言した如く、今や人類の前史は早晩終りを告げんとし、人類が世界絶対平和の後史に突入する日も間近かである。
 先生の遺骨を分骨して郷里米沢に持参して二十二年になる。昭和四十六年八月十五日埋葬した記念としてこの碑を建立する〉(□は判読不明)
 ここにある「敵視反目する中国と日本の調整に始まる」という言葉こそが、日中国交正常化を目指す木村武雄を支え続けたのである。

幻の「佐藤栄作・王国権会談」
 
 この記念碑を建立した直後、木村武雄は佐藤栄作を動かそうとした。そのために、まず王国権と佐藤栄作の会談をセットしようとしたのである。王は、戦前に日本に留学した経験を持つ外交官であり、昭和四十五(一九七〇)年に中国人民対外友好協会副会長、中日友好協会副会長に就任していた。
 昭和四十六(一九七一)年八月二十一日、日中国交正常化を見ることなく、松村謙三が死去した。その葬儀に参列した王国権は、政府関係者、各界の有力者とも次々と会談し、「王国権旋風」を巻き起こした。
 松村の葬儀は八月二十六日、東京築地の本願寺で執り行われた。王は最前列に着席していた。しばらくすると佐藤総理が会場に現れ、わざわざ王の前に来て、握手を求めながら、「遠路はるばるお越しいただき、非常に感謝しております」と言ってから、着席した。
 葬儀が終わると、佐藤総理は再び王のところに来て、「周恩来総理によろしくお伝えください」と言った。王は「ありがとうございます」とだけ答えた。
 実は、王が日本を訪れる前、木村は香港に飛び、あるお寺のお堂で王と密かに面会していたのである。王が来日する際、佐藤総理と会談させようと根回しをしていたのだ。そして、木村は官房長官の竹下登に、王を羽田で出迎えて、佐藤総理との会談をセットするように指示していた。そして、木村は、王・佐藤会談の結果を聞くため、香港で王の帰りを待っていた。戻った王に、木村が「佐藤総理と会談はできましたか」と問うと、「できなかった」との答えだった。
 この時の木村の失望と怒りは想像を絶するものだった。日本に帰国した木村は、そのまま官邸に乗り込み、竹下のいる官房長官室に怒鳴り込んだ。そして、テーブルにおいてあったコップの水を竹下にぶっかけて、「おまえは政治がわからん?野郎だ」と怒鳴りつけた。その場にいた木村莞爾氏は「あれほど激高した親父は見たことがなかった」と振り返る。それほど木村は、佐藤栄作・王国権会談に賭けていたのだろう。

「佐藤内閣をここまで追い込んだ責任は岸・賀屋グループにある」

 やがて佐藤への木村の期待は失望へと変わっていった。その引き金の一つとなったのが、国連の中国代表権問題をめぐる佐藤の姿勢だった。
 昭和二十四(一九四九)年十月の中華人民共和国政府成立以来、台湾政府は中国本土に対する実効的支配を失った。それ以来、国連での代表資格をめぐって、北京政府と台湾政府が争ってきた。
 ところが、昭和三十五(一九六〇)年になると、台湾支持に賛成の国は、反対国と棄権国の合計を下回るようになった。さらに、中国は昭和四十五(一九七〇)年以降、カナダ、イタリアなどと次々に国交を樹立した。こうして、昭和四十五年十一月の国連総会では、「中国の加盟、台湾の追放」を骨子とするアルバニア決議案が初めて過半数の支持を得たのである。
 これに対して、日本とアメリカは「逆重要事項指定案」で対抗しようとした。台湾追放の部分を総会の三分の二多数を要する事項に指定するという案だ。木村は、佐藤に「日本は逆重要事項指定の提案国にだけは絶対になってはいけない」と言い続けていた。
 ところが、昭和四十六年の国連総会で、日本はアメリカとともに「逆重要事項指定案」の提案国になったのである。こうした佐藤政権の姿勢に、北京政府も不満を抱いていた。周恩来首相は、九月に自民党若手議員とともに訪中した川崎秀二に対して、「国交正常化交渉は、次期政権とのみを行う」と述べた。
 木村は、『週刊文春』のインタビューで、次のように不満をぶちまけた。その矛先は外務省に、さらには岸信介や賀屋興宣にも及んだ。
 「総理は何も逆重要を自分で考え出したわけではないのです。総理の知らない間に、外務省の役人どもが逆重要という手をアミ出してアメリカに持っていった。アメリカがこれに飛びついたのはなぜだと思います? 今後の競争相手は日本だと彼らが考えているからですよ。そのためには、中国が日本と親しくなってほしくないわけですね。……佐藤内閣をここまで追い込んだ責任は岸・賀屋グループにあると思います。総理はいつもわたしの一つの中国論に耳を傾けて聞き入ってくれる。ところが岸さんのグループに会うと、とたんにグルリと意見が変わってしまうんだ」(「総理〝ご意見番〟木村武雄の転身」『週刊文春』昭和四十六年十月二十五日号)
 結局、日本が提案国となった「逆重要事項指定案」は、昭和四十六年十月二十五日、賛成五十五、反対五十九、棄権十五で否決されたのである。そして、「中国の加盟・台湾の追放」を骨子とするアルバニア案が賛成七十六、反対三十五、棄権十七で可決された。この結果、台湾は国連脱退を表明し、中国の加盟が正式に決まった。
(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』)

坪内隆彦