令和四年九月二十九日、日中国交正常化五十周年を迎えた。しかし今、対中強硬派の間では日中国交正常化の評判は決して良くない。国交正常化は、日本が政府開発援助などを通じて中国の経済発展を後押しし、中国を大国化させた元凶だと捉えられているからだ。
しかし、本書の主人公、木村武雄に光を当てるとき、日中国交正常化の評価は一変するかもしれない。木村は、石原莞爾の王道アジア主義体現の一歩として、日中国交正常化を位置づけていたのだ。
王道アジア主義の目的は、覇道の原理でアジアに迫る欧米の勢力を排除し、王道の原理に基づいたアジアを建設することにある。王道とは道徳、仁徳による統治であり、覇道とは武力、権力による統治だ。王道アジア主義の基本原則は、「互恵対等の国家間関係を結ぶ」、「アジア人同士戦わず」である。
戦前、木村は石原の思想に共鳴して支那事変拡大に反対、昭和十四(一九三九)年に東亜連盟協会を自ら旗揚げし、東条英機の覇道アジア主義に抗った。木村は戦後も石原の魂を守り続け、日中国交正常化に執念を燃やす。まず木村は佐藤栄作総理を動かそうとした。しかし、「笛吹けど踊らず」、佐藤は動かなかった。しかし、それでも木村は決して諦めなかった。そこで目をつけたのが、党人派の田中角栄であった。木村は、「自分の後継には福田赳夫を」という佐藤の意向に反して、田中派結成を主導、田中政権を見事に誕生させたのである。その過程で、木村と田中の間には、田中政権誕生の暁には日中国交正常化に動くという固い約束が交わされていたのである。
正常化に邁進した木村武雄の原動力は、王道アジア主義だった。それは、石原の理想の体現であり、西郷南洲を源流とする思想の継承でもある。王道アジア主義は、南洲を源流とし、宮島誠一郎、宮島大八、南部次郎、荒尾精、根津一、頭山満、葦津耕次郎といった人物に継承されていた。
では、なぜこれまで「日中国交正常化における木村武雄の役割」に光が当てられなかったのか。一つの理由は、木村自身が「政界の影武者として生きる」と決めていたことにある。しかし、さらに大きな理由は、彼がアメリカにとって不都合な人物と認定されたからだろう。田中政権の日中国交正常化はアメリカの警戒感を掻き立てた。しかもアメリカは、田中の背後で動く木村武雄に石原莞爾の影を見ていたのではないか。占領期の言論統制によって壊滅したかに見えた石原の王道アジア主義は、生き残っていたのである。本書では、これまで黙殺されてきた「木村武雄の日中国交正常化」の封印を解き、王道アジア主義の真髄を明らかにしていきたい。