『アジア英雄伝』前書き

一 アジアの黎明の時代

列強の植民地支配に対する民族的反抗
 本書で取り上げた二五人のアジア人(金玉均、康有為、ボニファシオ、ダルマパーラ、リカルテ、孫文、李容九、ガンジー、オーロビンド・ゴーシュ、イクバール、ウ・オッタマ、クォン・デ、宋教仁、ビハリ・ボース、プラタップ、クルバンガリー、ベニグノ・ラモス、チャンドラ・ボース、ピブーンソンクラーム、スカルノ、ハッタ、アウン・サン、スハルト、マハティール、ノンチック)は、民族の独立と興亜に人生を捧げた志士たちである。その多くが命がけで民族独立闘争に挺身し、志半ばで倒れている。かつて栄華を誇ったアジアは、ヨーロッパ列強による植民地となり、その輝きを失っていた。アジア諸民族は、支配から脱して独立を勝ち取り、主体的な国づくりに向かわねばならなかった。
 だが、列強の力は強大であり、幾度にもわたる反抗は空しくも抑えつけられていた。例えば、インドでは一八五七年から一八五九年に、セポイの乱と呼ばれる民族的反抗運動が試みられたが、結局鎮圧されている。また、一八八八年には、ジャワ島西端のバンテン地方で反オランダ農民反乱が起こったが、三〇日で鎮圧されている。
 アジアが欧米の支配下に置かれ始めたのは、およそ五〇〇年前のことである。アジアへの進出で先んじたのは、スペインとポルトガルである。両国は、イベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動(レコンキスタ)を達成するや、大航海時代の先頭を切って、海外への進出を開始した。一四九四年には、ローマ教皇アレクサンドル六世がトルデシリャス条約を定め、大西洋上に西経四六度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。一四九八年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットを訪れたのを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部に拠点を築いていく。ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、一五一一年にマラッカを征服、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点を築く。マレーシアのマハティール前首相は、この五〇〇年前の歴史を忘れてはいない。一方、スペイン艦隊は太平洋を横断し、東方からアジアに進出した。マゼランは、一五二一年にフィリピンに到達、徐々に勢力を広げ、一五七一年にはマニラ市を含む諸島の大部分を征服した。この間、スペインとポルトガルによる勢力は日本にも及んできたが、信長、秀吉らの努力によってそれを阻止している。
 スペイン、ポルトガルに次いでアジアへ進出してきたのが、オランダである。オランダは、一六〇二年には東インド会社を設立、一六一九年にはバタビア(現ジャカルタ)に要塞を築き、首府とした。やがて一七世紀中ごろには、ポルトガルとイギリスの勢力を駆逐し、インドネシア全体を植民地とした。
 では、イギリスの進出はどうだったのか。同国は、一八世紀半ばに南部インドの支配権をめぐってフランスと三次にわたって戦争し、最終的に勝利する。さらにインド土着軍を制圧し、インドにおける支配権を固める。一八二四年には、マレー半島を勢力下に収め、イギリス領海峡植民地が成立する。一八八六年には、ビルマがイギリス領インドに併合されている。さらに、イギリスは一八九八年に香港を獲得、清への勢力を拡大していった。この間、イギリスが清に持ち込んだ大量のアヘンによって、多くの中毒者が生み出された。
 フランスは、一九世紀になって仏領インドシナなどの植民地化に成功した。
 アメリカは、一八九八年の米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったフィリピンを植民地化する。
 また、シベリア制圧を終えたロシアは、進路は南へとり、中央アジアの多くの汗国を植民地化し、清の弱体化につけこみ満州のアムール川以北と沿海州を植民地化した。これが、欧米列強によるアジア植民地化の歴史である。アジア諸国は政治的独立を失うとともに、富を略奪されていたのである。
 本書で取り上げた志士たちは、この状況を打開するために立ち上がったのである。

西洋近代思想への抵抗

 アジア諸国は、植民地化の過程で伝統文化を無残に破壊されていた。劣等感を植え付けられたアジア諸民族は、独自の文化への誇りを失い、人間中心主義、物質至上主義といった西洋近代の価値観を受容していった。こうして、自らの伝統文化、宗教の中の普遍性は忘却させられたのである。
 植民地解放闘争の過程で再発見された伝統文化、宗教は、西洋近代文明を超克し得る文明的な意味を持っていた。やがて、第一次世界大戦が勃発すると、欧米の内側から、近代文明に対する懐疑的な見方が唱えられるようになる。シュペングラーの『西洋の没落』もその一つである。
 本書で取り上げたアジアの志士たちの多くも、伝統文化と宗教の価値を普遍的なものとして信奉し、近代西洋文明を乗り越えようという志を持っていたのである。例えば、マハトマ・ガンジーは、「近代文明に対する厳しい弾劾の書」と評される『ヒンドゥー・スワラージ』において、「私たちの祖先は、機械のつくりかたを知らなかったわけではない。ただそんなものを欲したら徳性を失うだろうということも知っていた。だから熟考したうえで、できる限りのことを、手と足で行うべきであると決めた」と書いている。パキスタンのムハンマド・イクバールは、独自のイスラーム思想に基づいて、鋭い近代批判を展開した。セイロンのアナガーリカ・ダルマパーラは、「今世紀は一転して眠れる亜細亜を覚醒せざるべからず。而して欧州一流の文明よりも更に完全なる世界的文明を作らざるべからず」と語っていた。インドのビハリ・ボースは、西洋近代の物質偏重を是正し、東洋の伝統思想の復興による文明転換を目指していた。ベトナムのクォン・デもまた、近代主義に批判的なカオダイ教との連携を模索した。
 後述するように、普遍的価値に基づいたアジア文明の復興というビジョンは、多くの場合、それぞれの民族思想とともに、宗教思想に裏付けられていたのである。
 独立の維持を果たしたという点において、明治以来の近代化に一定の評価を与えつつも、文明転換の視点を失わなかった日本の興亜陣営と、本書で取り上げたアジアの志士たちとは、文明史的課題をも共有していたのである。
 やがて、大東亜共栄圏構想が盛んに語られるに至って、西洋近代に対する批判論も、ある種の総括のときを迎える。戦時期に展開された「近代の超克」論がそれだ。昭和一七(一九四二)年七月には、小林秀雄、西谷啓治、亀井勝一郎、諸井三郎、林房雄、鈴木成高、三好達治、菊池正士、津村秀夫、下村寅太郎、中村光夫、吉満義彦、河上徹太郎らが参加して「近代の超克」の座談会が開かれた。これらの参加者は、京都学派の哲学者、日本浪漫派の文学者、『文学界』同人の三グループからなる。京都学派の高坂正顕、高山岩男、鈴木成高、西谷啓治は、ほぼ同時期の『中央公論』においても、座談会「世界史的立場と日本」を行っている。
 ただし、後述する通り、列強の勢力に抗して、独立維持のために富国強兵を急いだ明治以降において、西洋近代に背を向けることは困難であった。だからこそ、竹内好は「『近代の超克』は、いわば日本近代史のアポリア(難関)の凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、……一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった」と指摘したのである。
 近代の超克という課題は、すでに解決済なのだろうか。地球環境問題の深刻化、精神的な価値の喪失感が進む中で、いよいよ大きな課題として、人類全体に突きつけられているといっても良い。
 では、植民地解放という課題はどうなのか。形の上では、アジア諸国は一応は独立を果たした。しかし、中国では、チベット、内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)などで、民族固有の文化、宗教が制約されているとの見方もある。
 その一方で、アメリカが主導するグローバリズムを新しい形の植民地主義ととらえる見方もある。一九九七年のアジア通貨危機によって、タイ、インドネシア、韓国が相次いで国際通貨基金(IMF)の金融支援を仰ぐことになった。この際、各国の主体的な経済運営が否定されたことから、マハティール首相は、新植民地主義だと激しく批判している。

封印された列強による植民地支配の歴史
 マハティール前首相が、未だに植民地主義を警戒するのは、列強によるアジア支配の歴史を、生々しく記憶しているからにほかならない。そして、かつての植民地支配の延長線上に、現在のグローバリズムがあると認識しているからであろう。そうした彼の認識を支えているのは、戦勝国の論理、つまり枢軸国だけを悪として断罪する戦後史観に拘束されない、主体的歴史観である。
 大東亜戦争終結後にアメリカが試みたことは、日本が列強支配に対して立ち上がったという歴史そのものを封印しようとすることであった。つまり、マハティールが継続しているアジアの志士たちの闘争の歴史は、戦後の歴史観の中で封印されてきたのである。
 占領期のアメリカによる日本の言論統制の目的は、戦前の日本の行為を全て悪、連合国の行為を全て善とする、一方的な考え方を日本に浸透させることにあったのではなかろうか。日本政府の行為も、在野の興亜論者の行為も、アメリカに不都合なものは、悪とされたのである。
 この占領期に行われた言論統制は、徹底したものであった。昭和二〇(一九四五)年九月一〇日、GHQは「新聞報道取締方針」を出した。さらに、GHQは同年九月一九日に「プレス・コード(新聞規約)」を発令、一〇項目の禁止事項を明示して言論統制を強化しようとした。プレス・コードは一九四六年一月二四日付で、一般の出版物だけでなく、国会を含む官庁の出版物にも準用されている。
 欧米によるアジアの植民地化という歴史自体が、封印されたのである。勝岡寛次氏が『抹殺された大東亜戦争』(明成社)で紹介している通り、占領下の一九四六年一二月、姉崎正治は『國心民報』で次のように書いていた。
 「一六世紀以来、ヨーロッパ諸国は進撃の地に立ち、又しぼりとりをして、アジヤ諸国は受身になった。ヨーロッパの支配力は十九世紀の終まで段々進んできたが、それ以来世界のうごきに変化が生じ、アジヤ諸国民の覚醒が起こり、その反抗はたかまつて来たが、同時に合衆国の勢力は極東に地歩をしめ(中略)此が東洋諸国民古来の伝来を爆破する力をも呈した」
 こうした言論すら検閲によって、削除の対象となっていたのである(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争─米軍占領下の検閲が歪めたもの』明成社、二〇〇五年、六三、六四頁)。さらに、アメリカは、西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封』で明らかにしている通り、戦勝国側に不都合な日本の出版物を没収(Confiscation)した。まさに、「焚書」が行われていたのである。
 GHQは一九四六年三月一七日に、「宣伝用刊行物の没収」と題した覚書を日本政府に突きつけ、終戦直後までに出された刊行物の中から、七七六九点を没収の対象に指定していた。本書で取り上げたビハリ・ボースと石井哲夫による『印度侵略悲史』(東京日日新聞社)をはじめ、欧米のアジア侵略、植民地支配、大東亜戦争開戦の真相、日本の興亜思想、国体思想等に関する出発物が対象となっていた(西尾幹二『GHQ焚書図書開封─米占領軍に消された戦前の日本』徳間書店、二〇〇八年)。
 このような徹底した検閲と焚書を進めた上で、GHQは露骨な洗脳工作を開始した。その際、重要な役割を担ったのが、GHQの部局の一つとして文化政策を担当していた民間情報・教育局(CIE)である。彼らは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(War Guilt Information Program=WGIP、戦争犯罪宣伝作戦)を策定し、日本人に、敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底させるよう命令した。
 高橋史朗氏は、WGIPについて、「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし戦争贖罪意識を植えつけることであり、いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と主張している(『産経新聞』二〇〇五年八月四日付朝刊)。
 WGIPの命令に沿って、「太平洋戦争史」の連載や「真相はかうだ」の放送が開始された。「太平洋戦争史」は、アメリカ国務省の編纂文書『平和と戦争』(一九四三年)などに基づいて、CIEのスミス企画課長が書いたもので、各新聞に一斉に掲載させた。連載終了後、その内容は中屋健弌訳で一九四六年に高山書院から刊行されている。
 一方、「真相はかうだ」は、真珠湾攻撃四周年にあたる一九四五年一二月八日にあわせて、九日に始まり、翌年二月一〇日まで毎週日曜午後八時のゴールデンタイムに全一〇回、NHKで放送された。CIEのラジオ課が、脚本、演出を手がけた。「太郎君」の質問に「文筆家」が「戦争犯罪人」らの罪状を暴露するという体裁をとっていた。ここで、南京事件は日本人に罪悪感を植え付ける格好の材料とされた。「大虐殺。南京では一度や二度ではない。何千回となく行われたんだ」というセリフが、四回にわたり挿入されている。
 さらにGHQは、一九四五年一二月一五日、日本政府に対し、国家神道の禁止と政教分離の徹底を指示する覚書を出し、「大東亜戦争」や「八紘一宇」の用語を禁止した。こうして、「大東亜戦争」という言葉さえもが封印されたのである。その結果、ごく一部の人物を除き、本書で取り上げた志士たちの反抗の歴史もまた、顧みられないようになっていったのではなかろうか。本書の元となった連載「アジアの英雄たち」執筆の動機の一つは、その封印を解き放つことにあった。
 こうした状況で筆者が頼りにしたのが、「焚書」の対象となった戦前の文献である。中山忠直『ボースとリカルテ』、頴田島一二郎『オッタマ僧正』など、戦時期に書かれた文献は、若干の脚色が散見されるとしても、戦後封印された志士たちの闘争の真実を記録していると思う。
 志士たちの亡命生活、潜伏生活の後は、辛うじて残されている。例えば、芝三田南寺町(現三田四丁目)の願海寺の境内には、いまもフィリピンの志士ベニグノ・ラモスの家族が住んでいた洋館風の住居が残されている。浜名湖大草山の展望台の脇には、アウン・サンの潜伏を思い起こさせる「ビルマゆかりの碑」が建っている。

二 日本の理想と志士たちのネットワーク

アジアの志士と日本の興亜陣営
 二五人の志士たちの多くは、日本に亡命するか、日本が設立した訓練機関などに所属し、興亜の理想を日本人と共有していた。
 彼らが信頼した日本人とは、頭山満に代表される、列強の植民地支配に抵抗し、アジア諸民族の独立に手を貸そうとした興亜陣営であった。以下、アジアの志士たちと興亜陣営の結びつきを列挙してみたい。
 朝鮮開化派のリーダー金玉均が来日する前年の明治一四(一八八一)年、朝鮮から派遣され視察団の一員として日本に来た魚允中は、副島種臣に招かれて興亜会の宴に列し、アジアの興隆を志す副島に刺激を受けていた。金玉均は、魚允中から副島の興亜思想を伝え聞いたに違いない。金は、訪日直後に興亜会主催の会合に参加し、日本、清、朝鮮三国間の平和、協力を目指した三和主義に基づく「興亜之意見」を発表していた。
 明治二二(一八八九)年に初来日したセイロンの志士アナガーリカ・ダルマパーラの場合は、若干異なる人脈をつかんだ。彼は、神智学に関心を強めていた僧侶、平井金三や野口復堂らと結び、その縁で日本教会(その後、道会と改称)の松村介石と交流している。
 康有為は、中国問題に関心を持つ多くの興亜論者たちとの交友を結んでいた。明治三一(一八九八)年春に玄洋社系、政教社系の志士、言論人、政治家らが結集して旗揚げした興亜団体である東亜会は、発足時から康有為と深い関わりを持った。ここには、井上雅二、陸羯南、三宅雪嶺、福本日南、平岡浩太郎らが参加していた。
 孫文は、頭山満、平岡浩太郎、秋山定輔、副島種臣、宮崎滔天、萱野長知、梅屋庄吉、波多野烏峰らと交わった。孫文とインドの志士たちの交流を支援したのが、波多野である。
 明治三七(一九〇四)年末に日本に亡命した宋教仁は、宮崎滔天を介して、萱野長知、平山周ら革命評論社のメンバーとの交流を深めた。また、宋教仁は亜州和親会を通じて、インド、ベトナム、フィリピンの志士とも交流している。彼と北一輝との出会いも、革命評論社が媒介となっている。
 フィリピンの志士マリアノ・ポンセが、対米闘争のための武器調達を目指して宮崎滔天や平山周に接触してきた際、それを仲介したのは孫文であった。大倉喜八郎などを通じて武器、弾薬が用意され、布引丸でフィリピンに届けようとしたが、台風に遭って沈没、武器は届かなかった。
 李容九は、金玉均とともに日本に亡命していた宋秉畯とともに「一進会」を設立、明治三四(一九〇一)年に来日、黒龍会の内田良平と結び、日韓合邦運動を推進する。この過程で、李容九は内田に連なる権藤成卿や武田範之らとも交流していた。
 明治三九(一九〇六)年に日本に亡命したベトナムのクォン・デ侯は、頭山満、犬養毅、柏原文太郎、福島安正、根津一らと交わった。
 大正四(一九一五)年五月に日本に亡命したビハリ・ボースは、まず孫文を訪れ、宮崎滔天を紹介された。こうして、ボースは頭山満、内田良平、大川周明、葛生能久、佃信夫ら興亜陣営との交流を深めていく。その潜伏を手伝ったのが、新宿中村屋の店主、相馬愛蔵、黒光夫妻である。
 ビハリ・ボースにやや遅れて日本に亡命したフィリピンの志士アルテミオ・リカルテは、ボースを頼り、頭山満らの支援を受けた。
 クォン・デは、いったん日本を離れていたが、ボース、リカルテの日本亡命後の大正五(一九一六)年に、再び日本に戻っている。彼もまた、相馬夫妻の別荘にかくまわれた。その後、彼は猶存社メンバーの何盛三らの支援を受けている。また、湖南で知り合った中村新八郎との関係を深め、中村が満川亀太郎らと創設した興亜学塾(「満川亀太郎関係文書」国立国会図書館憲政資料室所蔵)に参画、ビハリ・ボース、クルバンガリーとともに顧問に就いている。満川が塾頭を、下中弥三郎、中山優、中谷武世らが講師を務めていた。ちなみに、李容九の遺児李碩奎は、黒龍会同人の細井肇の紹介で、興亜学塾に入った。
 ビルマの志士ウ・オッタマは、留学したオックスフォード大学で浄土真宗本願寺派門主の大谷光瑞と出会い、明治四〇(一九〇七)年に大谷を頼って日本を訪れた。彼は興亜論者の若林半と知り合い、その縁で頭山満、内田良平らと交流するようになった。彼はまた、明治四三(一九一〇)年に名古屋で知り合った松坂屋社長の伊藤次郎左衛門祐民と結んだ。
 日本がアウン・サンに接触する際、重要な役割を果たしたタキン党のティン・マウンは、オッタマの盟友、伊藤次郎左衛門祐民の子息や、大谷光瑞と交流を持っていたと推測される。ティン・マウンは、大谷の紹介で頭山満らとも接触していた。
 トルコ系ロシア人マハンマド・クルバンガリーは、大正九(一九二〇)年に日本に亡命、興亜陣営の五百木良三、満鉄の嶋野三郎、東京外語学校のロシア語専科を卒業した須田正継、二度のメッカ巡礼を果たした興亜論者の田中逸平らと交流している。
 インドの志士マヘンドラ・プラタップは、大正一一(一九二二)年一〇月に日本に来日、ビハリ・ボースのところに落ち着いた。
 昭和九(一九三四)年末に日本に亡命したフィリピンの志士ベニグノ・ラモスは、リカルテを介して頭山満らの支援を受けた。その後、ラモスは大日本生産党の八幡博堂、愛国政治同盟を率いていた代議士、小池四郎と交流している。彼はまた、維新寮(後の大東塾)を訪れ、影山正治、毛呂清輝、中村武彦らとも面会していた。
 チャンドラ・ボースがインド独立運動の指導者として認知されるに際して、チャンドラ、ビハリの両ボースを前に、「君たちは二人とも姓は同じボース。自分は今日から君たちを、ただ一人の人物として交りたい」と語ったのは、頭山満であった。
 昭和八(一九三三)年三月に来日したインドネシアのハッタは、ビハリ・ボースやクォン・デと会い、アジア民族の独立と解放のために協力を約束した。ハッタをボースに紹介した留学生ガウスは、大亜細亜協会の下中弥三郎や中谷武世らと結んでいた。
 孫文やビハリ・ボースを介して頭山満に紹介され、興亜陣営との関係を広げていくというのが、一つのパターンとしてみてとれる。まさに、本書で紹介するアジアの志士たちはネットワークを組んで、興亜の理想の実現に努力していたのである。
 また、興亜陣営と直接結ぶことはなかったものの、若き日のスハルトやラジャー・ダト・ノンチックは、戦時に日本人から指導を受け、アジア解放の志を強めた。戦時に特殊要員の養成のために日本が設立したタンゲラン青年道場で指導を受けたスハルトは、土屋競元大尉らからアジア独立の志を叩き込まれていた。
 戦時に南方特別留学生として来日したノンチックは、厳しい指導を通じて、アジア解放の使命を強く意識した。また、彼は陸軍軍医中将・田中一三博士による、孫文らの中国革命やインド独立運動の話を聞き、民族自決、祖国独立の決意を新たにした。マハティールの興亜の構想にも影響を与えたと推測されるガザリ・シャフィー元外相もまた、戦時にマラヤ興亜訓練所で指導を受けていた。

興亜陣営と日本の理想
 では、本書で取り上げた志士たちが結んだ興亜陣営とは、いかなる勢力だったのか。
 近代日本における興亜団体の源流は、明治一〇(一八七七)年設立の興亜会(当初は振亜社)と一八七八年設立の玄洋社(当初は向陽社)である。そこには、「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」(敬天愛人)に凝縮される南洲の精神が脈々と引き継がれていた。
 興亜思想は、興亜会や玄洋社のほか、荒尾精の漢口楽善堂(一八八六年設立)、政教社(一八八八年設立)、東邦協會(一八九一年設立)、東亜同文会(一八九八年設立)、黒龍会(一九〇一年設立)、猶存社(一九一九年)などに連なる論者たちを中心に展開されていった。第一次世界大戦後には、ほぼ東アジアに限定されていた興亜思想は、アジア全体を視野に入れたものへと発展していく。その代表的著作が、大正一〇(一九二一)年に刊行された満川亀太郎の『奪はれたる亜細亜』やその翌年に刊行された大川周明の『復興亞細亞の諸問題』である(クリストファー・W・A・スピルマン、長谷川雄一「解説」(満川亀太郎著『奪われたるアジア : 歴史的地域研究と思想的批評』書肆心水、二〇〇七年)、三七二、三七三頁)。
 興亜とは、日本の理想の国際社会への適用にほかならない。つまり、興亜陣営の中心は、神武創業の理想を国内で体現するとともに、それをアジアに拡げるという発想を持った人々であった。
 日本の理想とは、高天原を地上につくることにほかならない。我国の皇道思想は、高天原の神々の役割を宇宙生成の原理として把握してきた。戦前、興亜陣営と結んだ皇道思想家の今泉定助によると、天御中主神の御霊は発顕と還元によって活動し、中心の霊力が発顕して、分派末梢に展開する作用が高皇産霊であり、分派末梢が中心へ還元し、収斂する作用が神皇産霊である。彼は、根本末梢帰一一体と中心分派帰一一体との二大原理によって、天皇政治が万世一系と君民一体の二大原則に基づくものであることを説明しようとした。
 そして、高天原を地上につくることという国体の本質は、「宝祚無窮の神勅」、「同床共殿の神勅」、「斎庭之稲(ゆにはのいなほ)の神勅」、「神籬磐境(ひもろぎいわさか)の神勅」、「侍殿防護の神勅」の五大神勅に示されている。今泉は、この五大神勅のうち、天壌無窮、斎鏡斎穂、神籬磐境の三神勅を特に重視し、斎鏡斎穂には一君万民の考えが、神籬磐境には宇宙万有同根一体の原理が示されていると説いた。
 宇宙の真理を地上に体現することは、社会の構成員全員の一体性、連動性を根底において、すべての人間が平等に、抑圧のない生活を送れる社会を築くことなのではなかろうか。我国では、社会が神武創業の理想から逸脱すると、常に原点に立ち返った改革が試みられてきた。大化の改新、建武の中興、明治維新は、いずれもこの神武創業に示された日本の理想を回復しようという意志に基づいていた。
 明治以降の近代化によって、日本社会には様々な弊害が見られるようになった。そこで、興亜論者たちは、社会の不平等、利己主義、弱肉強食などを、日本の理想から外れたものだと強く感じたのである。そして、彼らはそうした弊害が西洋近代の思想、西洋列強の帝国主義によってさらに拡大しつつあると認識していた。しかも、アジアの伝統思想、宗教が西洋近代の価値観によって押しつぶされていくことに危機感を抱いたのである。

興亜思想と世界皇化
 そして、日本の理想を国際社会へ適用する上で、大きな障害となっていた植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようと試みたのである。アジアに志した荒尾精は、すでに明治二八(一八九五)年三月に、『対清弁妄』で次のように書いている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。海外列国、概ね虎呑狼食を以て唯一の計策と為し、射利貪欲を以て最大の目的と為し、其奔競争奪の状況は、恰も群犬の腐肉を争ふが如し。是時に当り、上に天授神聖の真君を戴き、下に忠勇尚武の良民を帥ひ、有罪を討して無辜を救ひ、廃邦を興して絶世を継ぎ、天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」( 『対清弁妄』(東亜文化研究所編『東亜同文会史』霞山会、一九八八年)、一六〇頁)
 また、頭山満は「日本は魂立国の国じや。君民一如、皇道楽土の国柄だ。日本の天皇道位尊く又洪大無辺なものはない。日本の天皇道は只に日本国を収め大和民族を統べ給ふのみならず、実に全世界を救ひ大宇宙を統ぶるものだ。而かも日就きの普きが如く、偏視なく所謂一視同仁じや。孔子の曰ふ祭政一致、宇宙一貫の道理も、釈迦の欣求浄土も、クリストの愛も、畢竟するに天皇道の一部ぢや」と述べていた(吉田鞆明『巨人頭山満翁は語る』感山莊、一九三九年、一二頁)。
 大東亜戦争は、興亜論者にとっては世界皇化の好機ととらえられた。今泉は、昭和一七(一九四二)年一月二日から四日間連続で「大東亜戦大詔渙発記念放送」に出演、全国民に向かって、聖戦の意義を「世界皇化」の立場から説明した。ここで、今泉は、「ウシハク」の政治(土地人民を自分のものとして支配する、権力による支配、覇道的支配)でなく、「シラス」の政治(民族、国民の一切をよく御知りになるということで、その統治は国土国民を親が子に対するように、慈愛の極をもって包容同化し、各処を得しめ給う統治、つまり天皇の御統治)を目指せと力説している。
 そして、今泉は、日本の外交はこの「シラス」の精神に基づくべきだと主張した。彼は、「天津日嗣の天皇の世界統一とは、武力や財力や政治、宗教などを以て攻略したり、征服したりする意味ではない。武力、財力、政治、宗教などの統一は、外形の統一であって、よし一度は統一しても、決して永続すべきものでない」と述べ、「彼より我が徳を慕ひ風を望み、我が威厳を仰ひで助成を乞ひ、我の擁護を求めて統一を望み、我に心服し、我に同化し来るものを統一主宰する」ことが重要だとした。今泉は、こうした精神に基づく外交が、本来の「八紘為宇」(八紘一宇)だと述べている(『今泉定助先生研究全集 第一巻』日本大学今泉研究所、一九六九年)。つまり、「ウシハク」の政治を乗り越えることは、国際政治を律する西洋近代の覇道的原理自体を変革していくことを意味していたのである。
 皇道思想に支えられていた興亜論者たち、神武創業の理想を国内で体現するとともに、それをアジアに拡げるという発想を持っていた。中島岳志氏は、「頭山満も内田良平も、時事評や戦略論、精神論は盛んに講じていても、後世に残るほどの思想を提示していない」と書き、頭山らはビハリ・ボースに対して思想的に共鳴したのではなく、心情的に共鳴していたに過ぎず、ボースがどのような思想の持ち主なのかは全く関心の対象となっていないと主張している(中島岳志『中村屋のボース』白水社、二〇〇五年、一二九、一三〇頁)。
 しかし、虐げられたアジア人を助けたいという日本の興亜論者たちの心情は、日本の理想の世界への適用という理想に向かい、まず植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようという思想と結びついていた。
 興亜論者のバックボーンが皇道思想や仏教の中の普遍性であったように、本書で取り上げた志士たちの多くもまた、普遍的な宗教思想に支えられていたことを忘れてはならない。東学による李容九、ヒンドゥー思想によるゴーシュ、土着的カトリックによるボニファシオ、カオダイ教によるクゥン・デ、仏教によるダルマパーラ、イスラームによるイクバール、愛の宗教によるプラタップなど、いずれもそうである。
 だからこそ、アジアの志士たちと日本の興亜陣営の協力は、単に自国の独立の回復にとどまらず、アジア全体の道義的統一を目指し、国際政治を律する原理を「ウシハク」から「シラス」に変えることを目標とするものだったのである。

国家経営の論理と志士たちの悲劇
 だが、志士たちにとって悲劇だったのは、日本政府の目標が、興亜陣営の崇高な目標と必ずしも一致していなかったことである。
 神武創業への復帰を目指した明治維新の精神は、国家独立とそのための近代化という、国家経営の論理が優先する中で、次第に形骸化していったように見える。
 だからこそ、西欧列強との協調を重視した日本政府は、列強に阿り、アジアの志士たちを冷たく扱っていた。例えば、日仏協商を結んだ日本政府は、フランスの意向に沿ってクォン・デらベトナムの志士を国外追放した。このとき、クゥン・デらの失望はどれほど大きかったろうか。チャン・ドンフー(陳東風)は日本政府の姿勢に抗議して自決している。
 こうした態度をとる日本政府に抗い、志士たちを助けたのが、頭山満をはじめとする興亜論者であった。もちろん、政治指導者の中でも、アジアの志士たちに対する立場は一様ではなかった。日本政府の外交方針も、微妙な部分を含んでいた。山室信一氏は、次のように指摘している。
 「日本人アジア主義者にとっては、財政的問題とともに日本政府の措置に反対してどこまで合法的援助活動を行うのかといった決断に迫られることとなり、日本政府にとっては他国政府の要請を拒否できないまでも盲従していたのではアジア地域内の親日的感情や国内世論の支持を損なうことになる。また、日本がアジア各地に政治的にしろ経済的にしろ進出していくことを想定すれば、反欧米派の勢力を扶植する必要こそあれ、抑圧することは得策ではない。しかし、公然と政府が独立・革命運動に援助を与えることもできない」、「こうしたアジア主義者の側と政府の側との双方のディレンマを解消するひとつの方策は、政府が在野のアジア主義者やその団体に財政的援助を与えるとともに、ある程度の違法活動を黙認することであった」(山室信一「日本外交とアジア主義の交錯」『日本外交におけるアジア主義』平成一〇年、岩波書店、二六頁)
 やがて、国際連盟脱退後、日本政府は列強に対する外交姿勢を改め、興亜外交に舵を切ったが、そこでも国家経営の論理が優先されていた。対米開戦後には、言葉の上では「アジア解放」というスローガンが前面に出てきたが、そこでもやはり、占領地域の統治、資源の確保など戦争遂行の論理が最優先されていた。
 興亜論者の理想を信じていたアジアの志士たちは、それに戸惑いを隠すことができなかった。興亜論者と交流を続けたプラタップは、参謀本部から邪魔者扱いされ、東京から離れて小平への隠遁を強いられている。クルバンガリーもまた、最終的には日本政府・軍と微妙な関係に陥った。
 ラモスも同様である。参謀副長の西村敏雄少将や松延幹夫参謀少佐、犬塚惟重海軍大佐など、軍の一部は、ラモスとそれに連なる旧ガナップ党員の役割に期待したが、エリート層登用路線を主張する村田省蔵大使や軍政監部の総務部長兼参謀の宇都宮直賢大佐は、ラモスを敬遠した。
 ハッタにとっては、興亜の理想を体現した占領統治を目指していた第一六軍を率いた今村均大将とその補佐役の高嶋辰彦大佐は信頼すべき相手だったが、インドネシア独立を迫るハッタの率直な言動は、日本軍内部で問題となり、ハッタ暗殺計画が立てられたほどである。鈴木敬司少将と南機関員と固い友情で結ばれていたアウン・サンも、最終局面で日本軍に敵対して蜂起せざるを得なかった。
 もちろん、犬塚大佐、今村大将や南機関員だけではなく、第一四軍宣伝班の望月重信中尉のように、フィリピン人を「甘やかしている」と批判してきた軍上層部に対して、自分は大御心を実践しているのだと、できる限りの抵抗を示した人物もいる。日本政府・軍の内部すべてが、興亜の理想を失っていたわけではない。
 こうした興亜の理想を維持した日本人の存在とあわせて、アジアの志士たちの苦悩をも直視することが、本当の興亜の理想を理解することになるのではなかろうか。
 私たち日本人は、アジアの志士たちの命がけの戦いの意味を踏まえた上で、これからのアジアの在り方を考える必要があるのではなかろうか。

坪内隆彦