神道の百科全書とも呼ばれる『古今神学類編』をまとめた真野時綱は、慶安元(一六四八)年、津島神社(津島牛頭天王社)の神官家太郎太夫家に生まれた。
 時綱は寛文三(一六六三)年、わずか十五歳で白川神祇伯家の門に入り、吉田神道で説く理法の一つ「十八神道」の伝授を受けている。京都に上ったのは、その二年後の寛文五年のことである。京都では、右大臣久我広通の兄(東愚公)の門に入った。ただ、時綱は当時未だ十七歳であり、基礎的学業が不足していたので一旦尾張に帰国し、名古屋東照宮の祠官を務めていた吉見直勝(幸和の祖父)の門に入り、神道国学を受けた。
 寛文八(一六六八)年、再度上京し、久我雅通に師事した。また、吉田神道派の卜部兼魚について神道国学を学んでいる。以来、天和二(一六八二)年に帰郷するまで、十四年間京都で学問を続けたのである。
 時綱は、若い頃から伊勢神宮の外宮祠官出口延佳にも師事していた。矢﨑浩之氏が指摘するように、延佳が元禄三(一六九〇)年正月に没すると、時綱はその半年後には『神代図解』を著して、先師顕彰の意を表明した。この『神代図解』は、延佳が明暦二(一六五六)に著した『神代之図』と、天和三(一六八三)年に著した『神代図鈔』を解説したものである。
 つまり、時綱は吉田神道と伊勢神道の両方を学んだということである。また、天野信景や松下見林とも交流していた。

 父が亡くなった天和二(一六八二)年に帰郷し、津島神社累代の神職を継ぎ、神道研究に励んだ。元禄十六(一七〇三)年、職を子綱広に譲って隠居し、享保二(一七一七)年十一月六日に死去した。
 時綱は多くの著作を残したが、彼の研究の根本をなしたのが、『古今神学類編』である。同書は神国、神道、宗廟、諸院、祭物、神階、祭祀、神器、祭任、爵位、卜筮、佗教、服忌、国史、歳時の十五篇からなる。同書は『神道大系』首巻二・三・四巻に収載されている。
 時綱は、帰郷した天和二年頃から同書執筆を開始し、死去する四年前の正徳三(一七一三)年に完成した。では、時綱はいかなる思いで、『古今神学類編』の執筆に励んだのであろうか。時綱自身が以下のように語っていた。
 「或時祖父大夫丸康綱常にいへりし事とて、家君重綱、予に命じていはく、神家たらん者、神道の事物、起源を弁置ずして。人の問に応ずる毎に、前非を悔ざるはまれなり、当時猶務べきの急たり。神書の中、事物の来由往々雑出といへども、其約たるをいまだ見ず。何ぞ忽にするや。其人の師となり。人の為に成べきほどの勤は、又汝が生得のおよぶべきにあらず。唯さしあたる責を塞ほどの備となすべしと。予ふかく此言に感じて、常に是を事とし、書々聞見し、人の語を聞毎にも、是を記、彼を抄出し、終に草稿して、私に篇を立て、類を聚、事の大小、記の浅深なる心のゆくかぎり拾集る事、已に年あり」
 『神道大系』首巻二に収録された同書の解題において、岡田米夫氏は以下のように述べている。
 「……十五篇の内容はこれを分類してみると、
 第一、神道の本質を述べたもの、即ち神国、神道、宗廟、諸院、祭物、神階、祭祀、神器、祭任、爵位、卜筮、服忌の諸篇
 第二、古典、礼典を論じたもの、即ち国史、歳時の二篇
 第三、儒仏二教との比較を論じたもの、即ち佗教篇
との三つに分けられているのである。右の三つの組織は、いわば第一は神道の本質論であり、第二は古典論であり、第三は比較宗教論であって、右の三段構えの学的構成は、古典論の上に神道本質論を立て、比較宗教論によって、その本質の在り方を窺ったものと見ることが出来るのである。以て彼の神学が近世国学者の採った所謂科学的研究方法の先駆をなしたものであると共に、近世の科学的な神道学組織の基礎をも打ち立てたものとすることが出来るのである」

坪内隆彦