タラクナート・ダスの全亜細亜主義

「全亜細亜主義・独立亜細亜・世界平和」

タラクナート・ダス(Taraknath Das)は、祖国インドをはじめとするアジア諸国の独立を目指して果敢な行動を続けた興亜論者である。1905年頃、彼はカルカッタからアメリカに渡った。やがて、インド独立を目指すガダル党(Ghadr party)に参加する。ガダル党とは、アメリカ西海岸に留学したインド人や亡命したインド人が中心になって20世紀初頭に結成した、インド独立運動を支持する団体で、本部はサンフランシスコに置かれていた。 
このアメリカを拠点とするインド独立運動家のネットワークは、日本の興亜論者ともつながっていた。1903年に来日したバラカトゥッラーもその一人である。彼は波多野烏峰の支援を得て、活発な言論活動を展開した。だが、イギリスは日本政府に圧力をかけ、バラカトゥッラーらの言論活動を封じようとした。さらには、イギリスの圧力で彼は東京外国語学校を免職になり、日本を離れざるを得なくなった。
さて、ダスは1914年にアメリカ国籍を取得、翌1915年にはドイツに移動している。1916年には、「アジア人のためのアジア」をモットーとする汎アジア連盟の支部を、日中両国に作ったとされている。大塚健洋氏は、大川周明が1916年末に結成した全亜細亜会はダスとの連携によるものだと推測している(大塚健洋『大川周明―ある復古革新主義者の思想』中央公論社、1995年、88頁)。
ダスと大川らの興亜論者との運動は、活発になろうとしていた。ところが1917年8月、日本政府はイギリスからの圧力に屈してダスを国外退去処分とした。こうして、彼は中国を活動拠点とするようになった。ここで注目すべきは、ダスが上海で雑誌『上海』を発行し、興亜の論陣を張っていた西本省三とも交流していたことである(西本について詳しくは、上海雑誌社編『白川西本君伝』等を参照)。
その舞台となったのが、袁世凱のもとで国務総理を務めた唐紹儀(1860~1938年) の自宅であった。西本は、ダスが唱えるアジア連帯構想に強い関心を寄せていた(外務省記録「各国内政関係雑纂/英領印度ノ部/革命党関係(亡命者ヲ含ム) 第二巻)」(簿冊番号: B-1-6-3-066))。1917年11月、ダスは上海で『Is Japan a menace to Asia? 』(『日本はアジアの脅威か』)を刊行しているが、それに序文を寄せたのは唐紹儀であった。
ダスと大川らの興亜論者の関係はその後も続いていたようである。1927年6月には、大川らの行地社の機関誌『日本』に「全亜細亜主義・独立亜細亜・世界平和」を寄せ、全亜細亜主義の実現のために具体的準備を開始すべきだと主張し、アジア諸国間の精神的了解の増進、アジア諸国間の経済的協調の実現、アジア諸国の政治力強化のための方策を以下の通り提唱した。

・アジア諸国間の精神的了解の増進
(1)アジア諸国の大学間に教授を交換すること
(2)学生の交換を行うこと
(3)視察旅行団を組織すること
(4)重要問題の研究を目的として各国に全亜細亜会を設立すること
・アジア諸国間の経済的協調の実現
(1)各国の商業会議所の間に連絡を取り、各国の政治家これを後援し、商業上に於ける相互の利益を挙げ得る具体的方法を立て、
(2)各国協力してヨーロッパ及びアメリカがアジアを経済的に搾取せんとする企業の駆逐を図り、
(3)アジア諸国民の共同出資に成る企業を行うこと
・アジア諸国の政治力強化
(1)アジア諸国の間の確執ならびに圏内における戦争を絶対に避け、
(2)いかなるアジアの一国も、アジアに対する欧米の戦争を助けず、アジアを隷属のままに置くための戦争に加担してはならぬ
(3)一切の外交問題、例えば人種平等問題、移民問題等についてアジア諸国は精神的援助を与え合わねばならぬ
(4)アジア諸国に教育宣伝機関を設け、彼等の現状を知らせ、ヨーロッパのために自国の人間・物質・軍事的地位がアジアに不利なる目的に利用されることに反対させねばならぬ

ダスは、1942年には『アジア外交の展望 : 侵略より解放へ』(春木猛訳、青年書房刊)を、1944年には『インド獨立論』(石田十三郎訳、博文館刊)を刊行している。

坪内隆彦