連載 マハティール十番勝負 (2)ルック・イースト反対派との勝負
『日馬プレス』267号、2004年2月1日
1961年の日本復興
「日本には、1945年の広島ショックのような政治経済的ショックが必要である」
1984年9月3日、マレーシアの『サン』紙は、このような刺激的表現で日本を批判した。日本の非関税障壁による保護主義を改善するためには、日本に大きなショックを与えることが必要だと主張したのである。
これは、マハティール前首相が貫いた、日本に学べというルック・イースト政策が大きく揺らいだ瞬間だった。この政策は、マハティールが首相に就任した直後の1981年7月に打ち出されたものだが、それは突然思いついたものではない。長年に亘って日本を研究してきたマハティールが到達した結論だった。
マハティールは医師時代の1961年に、初めて日本を訪れた。敗戦から見事に復興し、東京オリンピックの準備で沸き立つ日本をつぶさに見たときのことを、次のように振り返っている。
「日本人は信念を持ち、仕事に集中し、礼儀正しかった。車同士ぶつかると、双方の運転手が出てきてお辞儀をして素早く処理した。日本の列車が遅滞なく、正確に運行されているのにも深い感銘を受けた」(『毎日新聞』1999年7月5日付朝刊)。
与党UMNO追放中の1973年、マハティールはマレーシア食品工業公社会長を務めていたが、このときにも、日本の経営手法を自分の目で見る機会を得た。マレーシア食品工業は、主にパイナップル缶詰を製造していたが、マハティールは、日本の企業とブリキの買付けなどで自ら交渉した。彼は、日本企業と接触する中で日本の労働倫理、経営方法、組織などの効率性を実感したのである。
そして副首相時代の1977年8月、マハティールはバハン州のブミプトラ経済大会に出席した。開会式の演説でマハティールは1000人の参加者を前に、「ブミプトラの商業従事者は他の民族、例えば日本、韓国に見習うべきである。日本の今日の発展は、日本人の勤勉さのたまものである」と語っている。
そして、首相に就くや、マハティールは正式にルック・イーストを採用したのである。1974年1月には、田中首相(当時)の東南アジア歴訪に際して、バンコクやジャカルタで激しい反日デモが起こっており、公然と日本に学べという政策を打ち出すことには決断が必要だったに違いない。
ルック・イーストの文明史的意義
では、ルック・イーストとは何だったのか。
その主眼は、マレー人が日本や韓国の労働倫理、雇用慣行、経営手法などを学ぶことにあった。このため、マレーシアから日本への留学生も急増した。同時に、ルック・イーストは、経済関係の重点を欧米先進国から、日本、韓国へとシフトするものだった。
ただし、その根底には、「欧米型近代化に代わる道」を歩むという彼の目標があったに違いない。『マレー・ジレンマ』において、「今やヨーロッパ文明は衰退の兆しが、はっきりしているのである」と書いている通り、ルック・イーストは欧米型の個人主義ではなく、アジアが理想とする協同社会的な側面を重視しながら近代化していくことと直結していたのではなかろうか。
『近代化とイスラーム』などの著作もある知日派インドネシア人、アリフィン・ベイ氏も、かつてルック・イーストが通商関係や経済制度の新しいコンセプトを超えて、深い文化的な方向付けをなすものであり、その真髄は日本が近代西洋の様式をどのような叡知を働かせて日本自身の文化遺産のなかに取り入れたのかを知ろうとすることだと指摘していた(『産経新聞』1994年10月1日付朝刊)。
だからこそ、ルック・イーストに対して欧米からの静かな抵抗が起こっていたのである。西側外交筋、先進国企業には、ルック・イーストをつぶしたい理由があったとも思われる。また、マレーシア国内企業には、既得権益の喪失を警戒する者もいたであろう。
1984年の危機
ルック・イーストに乗って、日本企業のマレーシア進出は急増、1980~83年の4年間の進出企業数は48社にのぼった。また、建設ブームの中で、住宅、高速道路、港湾などの大型建設工事を日系企業が続々と受注するようになった。
こうした状況下で、マレーシアでは日本に対する様々な不満が噴出した。
「日本は技術移転をしぶっている」、「プロジェクトを受注した日本企業は、現地企業に発注せず、資材も日本製で調達している」と。さらに、貿易の不均衡が大きな問題となってきた。「日本は輸出するばかりで、マレーシアの製品を輸入しようとしない」と。
すでに1984年3月、バンク・ヌガラのリン・シーイャン副総裁が、マレーシアの対日収支について説明し、ルック・イーストは日本側の出超を黙認するものではないと発言せざるを得なくなった(レナト・コンスタンティーノ編『日本の役割』刊行社)。
こうした反日ムードの高まりに対して、1983年10月に発足したマレーシア日本人商工会議所は、マレーシア側の対日批判に対してデータを示して反論し、反日世論の沈静化に努めた。むろん、日本企業にも批判されるべき点はあっただろう。しかし、これらの激しい反日ムードの背後には、ルック・イーストつぶしを狙う欧米の世論工作があったのではないか。
1983年4月にマハティールが指摘したように、西側諸国は経済誌や世論調査を利用し、ルック・イースト政策を歪曲した報道を行い、マレーシア国民の間に経済危機感を煽ろうとしていた。さらに、ルック・イースト政策をめぐって政府指導者の間にも意見の不一致があると悪質な中傷をする者がいた(『東南アジア週報』1983年5月16日)。
いずれにせよ、マハティールは、このまま事態を悪化させては、ルック・イーストそのものを傷つけると判断したのだろうか。ついに、自ら厳しく日本を批判することで、事態を改善させるとともに、マレーシア国内の不満を緩和させようとしたのである。1984年8月27日、彼はマレーシア戦略国際研究所と日本の外務省が共催したマレーシア・日本討論集会にメッセージを送り、日本のやり方は古典的な植民地主義だと激しく批判したのである。
そして、1984年10月には、ダイム・ザイヌディン蔵相が、外国建設企業に対して、国内企業の永続的参画と国内資材の使用を保障することを定めた新政策を発表した。
この間、マレーシア航空がノースウエスト航空と提携して、東京経由のアメリカへの航路を申請した際、日本側が拒否したこともあって、反日ムードはさらに高まっていた。マレーシア航空は東京―サンフランシスコ間の以遠権を持たず、共同運航とはいえ太平洋路線に進出することは認められないというのが運輸省の立場だった。
そこで、マハティールは中曽根首相への直談判で決着をつけようとした。1984年10月15日、両首脳の会談で、マレーシア航空、ノースウエスト航空に日本航空を加え、3社による共同運航方式で実現を図ることで合意したのである。確かに政治的な決着であった。
1984年は、ルック・イーストが崩壊の危機に直面した年だった。実際には、ルック・イーストは維持されたわけだが、フリードマン・バートゥ氏のように、1984年にルック・イースト政策が一度放棄されたとみる論者さえいるほどである(フリードマン・バートゥ著、堺屋太一監訳『嫌われる日本人』)。
その後も、マハティールは頑なにルック・イーストを継続した。日本が景気低迷期に入ってもなお、日本から学ぶべきものはあるといい続けた。1998年には、ルック・イースト政策の象徴的事業ともいわれる日本への国費留学生派遣が通貨危機で中断の危機に直面したが、日本政府が無償援助を決断し、なんとか継続することができた。
2003年7月10日、アブドラ副首相(現首相)は、東京で開かれたシンポジウムで講演し、ルック・イーストを堅持し、日本との経済・外交面での連携を重視していくと語った。今後も、マレーシアのルック・イーストは続いていくに違いない。そして、ルック・イーストの文明史的意義を、多くの人が理解するときも訪れるだろう。