いかなる危機に瀕してもわが国体は不滅である!

「いかなる危機に瀕してもわが国体は不滅である!」山鹿素行『中朝事実』第2回(明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊 第2回)『月刊日本』2012年9月号の一部 ⇒最初の4ページ分のPDF

松陰が「先師」と呼んだ山鹿素行
 安政六(一八五九)年四月、「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし」と判断した吉田松陰は、「草莽崛起」を説いて決起を促しました。しかし、半年後の十月二十七日、彼は二十九歳の若さで斬首の刑に処せられました。その六年前の嘉永六(一八五三)年、ペリー艦隊の来航に遭遇した松陰は、藩主に上書した『将及私言』で次のように述べていました。
「今般亜美理駕夷の事、実に目前の急、乃ち万世の患なり、六月三日、夷舶浦賀港に来りしより、日夜疾走し、彼の地に至り其の状態を察す。軽蔑侮慢、実に見聞に堪へざる事どもなり。然るに戦争に及ばざるは、幕府の令、夷の軽蔑侮慢を甘んじ、専ら事穏便を主とせられし故なり。然らずんば今已に戦争に及ぶこと久しからん。然れども往時は姑く置く。夷人幕府に上る書を観るに、和友通商、煤炭食物を買ひ、南境の一港を請ふの事件。一として許允せらるべきものなし。夷等来春には答書を取りに来らんに。願ふ所一も許允なき時は、彼れ豈に徒然として帰らんや。然れば来春には必定一戦に及ぶべし。然るに太平の気習として、戦は万代の後迄もなきことの様に思ふもの多し、豈に嘆ずべきもの甚だしきに非ずや。今謹んで案ずるに、来春迄僅かに五六月の間なれば、此の際に乗じ嘗胆坐薪の思ひをなし、君臣上下一体と成りて備へをなすに非ずんば、我が太平連綿の余を以て彼の百戦錬磨の夷と戦ふこと難かるべし」
神道思想に詳しい大野健雄氏は、ここに示された松陰の考え方が全く山鹿素行と思想的にその軌を一にしており、もし素行が松陰の時代に生を享けたとすれば、恐らくは同じ方向で事態に対処したものと想像すると書いています。
実は、江戸時代を通じて、素行は主に兵学者として名が知られ、儒学者としてはほとんど注目されませんでした。ようやく文政十(一八二七)年になって、東条耕(琴台)が『先哲叢談後編』を刊行して「世人、素行を称する者は、皆視るに兵家者流を以てす。徒に韜鈐に長ずるを知り、未だ経術に精なるを知らず」と書き、素行を兵学者としてだけでなく、伊藤仁斎、荻生徂徠に先駆けて独自の学説を形成した儒者として評価して以来、素行の国体思想が注目されるようになったのです。この評価を先駆的に引き継いだのが、玉木文之進や彼と交流のあった乃木希典の父希次だったわけです。
松陰も乃木も文之進から素行の真価を教わりました。松陰は、文政十三(一八三〇)年生まれですから、嘉永二(一八四九)年生まれの乃木よりも十九歳年長です。
松陰は素行を「先師」と呼び、安政三(一八五六)年八月二十二日から講義を始めた『武教全書講録』の「開講主義」において、「国恩の事に至りては、先師、満世の俗儒外国を貴み我が邦を賎しむる中に生れ、独り卓然として異説を排し、上古神聖の道を窮め、中朝事実を撰ばれたる深意を考へて知るべし」と述べています。
さらに松陰は、「……宋学に疑念を持ち、書物を著してこれを批判し、そのために結局、赤穂に流された山鹿素行先生は……仁斎や徂徠よりも先輩であるから、もっとも豪傑であるというべきである」とも讃えています(『講孟箚記』近藤啓吾氏訳)。
松陰の儒学思想の展開には、素行以来の「兵学と儒学の統一」という発想が強い影響を与えていたわけですが、これについては次回以降に改めて説明します。
また、松陰は「外国の経典を読みなじんで、得意然としてその人物を慕う」てきた己を戒めた素行と同様、「国体と云うに神州には神州の体あり、異国は異国の体あり、異国の書を読めば兎角異国の事のみを善と思ひ、我国をば却て賤みて異国を羨むやうになりゆくこと学者の通患」と戒めています。
一方、学習院長時代の乃木は、『中朝事実』について、生徒たちに次のように語っていました。
「どうじゃな、ここの中華とは、中朝と同じく、日本国家の事じゃ。これは決して頑迷な国粋論を主張しているものではない。
よきをとりあしきをすてて外国に
おとらぬ国となすよしもがな
と御製にもある通り、広く世界に知識を求め、外国の美風良俗を輸入して学ぶことは、国勢伸張の秘鍵ではあるが、それはもちろん、皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。
盲滅法に外国人に盲従し、西洋の糟を舐めて随喜し、いたずらに自国を卑下し罵倒するというのは、その一事、すでに奴隷であって大国民たるの資格はない。国家興亡の岐路はそこにあるのじゃ。個人でも、国家でも、要は毅然たる独立の大精神に生き、敢然と自主邁進するにある」
乃木が殉死した年の暮れから翌年にかけて、堀江秀雄氏は「山鹿素行と吉田松陰の生死観」という論文を発表しています。これは、乃木に甚大な影響を与えた素行・松陰の死生観を、彼らの著作や書翰の中に探り、概説的に述べたものです。堀江論文について、金沢工業大学の中山広司氏は、「乃木大将の自刃後すぐにこのやうな問題が取り上げられること自体、素行─松陰─乃木といふ精神の流れが、当時すでにいかに重要なものと見倣されてゐたかを示す、一つの証左と云へようか」と書いています。

対外的危機と国体思想勃興の波
ところで、わが国の歴史は、肇国の理想を目指した維新の連続ととらえることができます。維新運動の発火点は常に、国内政治の混迷とともに、国際情勢の変化、特に対外的危機意識の高まりでした。
永安幸正氏は、「二つの武士道」において、「何れの国民でも同じであるが、国民集団としてある種の危機が迫っていると感づく秋には、祖国あるいは民族を世界の中に位置付け、他国と比べて祖国自民族の歴史、実力、可能性を確かめなければならぬものである」と指摘し、次のように『中朝事実』を、繰り返されてきた祖国自己確認の歴史の第三期に位置づけます。
第一期 聖徳太子の時代で大陸での隋唐国家の膨張期(五八一~九〇七年)
第二期 蒙古襲来の危機(十三世紀後半)
第三期 戦国を終り平時の江戸、素行の『中朝事実』の時期(十七世紀)
第四期 江戸時代末期から明治維新へ(十八世紀中葉)
第五期 一九二〇~四〇年代における米英中との対立と戦争
第一期においては、聖徳太子が隋の国に使いを遣る際の「日の没する国」隋に対する「日の出ずる国」日本という自国認識に象徴的に示されています。
第二期は、鎌倉幕府末から室町の時期であり、日蓮聖人に象徴される仏教側からの自己主張や北畠親房の『神皇正統記』がその代表です。
第三期は、仏教に代わり、中国からの学問である漢学が支配的となるのにつれて、中国崇拝が昂じたことに対する反発がバネとなり、『中朝事実』に示されるような自己意識が台頭しました。
第四期は、江戸末期から明治初期で、西洋帝国主義による侵略に対する危機感がバネになっていました。
第五期は、欧米帝国主義体制を打破しようとする日本主義者の主張が強まりました(永安幸正「二つの武士道」『武士道の倫理』所収)。
このように、わが国の国体思想は一直線に発展してきたわけではなく、いくつかの波があったわけです。
本連載で取り上げる書の刊行時期は、右の第三期、第四期に当たります。それに先立つ第一期に『古事記』(七一二年)と『日本書紀』(七二〇年)が編纂され、第二期に『神皇正統記』(一三三九年)が著わされたのも、国家的な危機が引き金になっていました。
『神皇正統記』は、日本中朝論の先駆的著作であり、そこには「印度といい、支那といい、このような乱雑な国風である中に、わが国だけは、天地開闘以来、現代今日に至るまで、皇統連綿正しく継承され、皇室のうち自然やや傍系に入る事があっても、それすら暫くにして必ず直系に復し、儼然として正統を保持しておいでになる。これは何といっても、天壌無窮の御勅あらたかなるによるものであって、ここに至って我国体は全く他に類例を絶つのである」(平泉澄訳)と書かれています。
また、『神皇正統記』は「異朝の一書の中に、『日本は呉の太伯が後也と云。』と言えり、返々当らぬことなり」と記述していますし、三種の神器を非常に重視しています。『神皇正統記』の『中朝事実』への影響は、はっきりしています。また、素行は『中朝事実』執筆に当り、日本の官職の沿革を記述した、親房の『職原抄』を参照しています。
親房は国体思想の発展に大きな足跡を残したわけですが、その後わが国は国体の危機に陥ります。特に宗教的権威を身につけると同時に朝鮮貿易を独占して経済力を手にした足利義満は、明の皇帝宛てに上奏文を送ります。これに対して明帝は、「日本国王之印」を下賜、義満は中華皇帝に臣従する外臣として認知され、華夷秩序における国王として承認されました。実質的に、室町期の日本は明の冊封国家となったのです。同時に、室町時代は文教が廃れ、物欲、利己主義が蔓延し、国体の危機を迎えていました。現在の日本と非常に似た部分があったわけです。
ついに一七世紀になって素行が目覚めるわけですが、それまでは国体論は停滞していました。それでも、室町以降には、吉田神道、伯家神道、伊勢神道、両部神道、山王神道などの神道思想において、国体思想は着実に発展していました。
また、日本書紀の研究も進み、忌部正通の『神代巻口訣』(一三六七年)、一条兼良(一四〇二~一四八一年)の『日本書紀纂疏』、吉田神道の大成者、吉田兼倶(一四三五~一五一一年)の『日本書紀神代抄』などがまとめられました。
こうした成果の上に、素行の『中朝事実』は成り立っているのです。素行は十七歳の冬に両部神道の秘伝を伝授され、壮年期には忌部正通の神道説を継承した忌部(広田)坦斎から神道の奥義を授けられました。
(後略)

坪内隆彦

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