『東亜同文書院大旅行誌 第21巻 足跡』第26期生(昭和5年)

若宮二郎、大久保英久、宮澤敝七、祖父川瀬徳男「白樺の口吻」

 想
 これは四人の男の、黒龍江の畔に、赤いロシアの山河を望みつゝ彷徨したあの想出の合作なのである。旅は人生の縮図とか。悦びも悲しみも、憂ひも不安も、総てを時の移りに委せて、村から村へ、站から駅へ、転々として漂泊ふ四名の男、猜疑の眼、露はなる排斥の中に、人種と言葉とを異にする国の奥地で、確と手と肩とを組み合せた我々が、危い足ごりで辿った足跡の回想である。
 最初我々の志した旅行線は北伐革命の烽を挙げた第二の武漢義挙とも云ふ可き、広東、その広東より湖南の共産地帯を突破する、粤漢線であった。先人の幾度が貫かんとしては戦乱に果し得なかつたこの地方の縦走に、如何に我等の紅き血を燃やした事であらう。だが。出発に先だつ一旬、突如起つた広西派のクーデターは余波遂に湖南の地にも見舞ひ、我々をして、再び先人の嘗めた悲しみを味はしめた。
 斯くして、年来の希望を擲ち、志を北方に転じ、血潮を露支国境に波立たて、茲に、黒龍江省大黒河を終点とする旅行線が採用された。

奉天
支那人特有の無節制な混雑と、大陸の朝の冷気に車内の睡眠を妨げらふ。名に聞いた高梁もスクスクと五寸程伸びて、秋の繁茂の様を想はせる。沿線の小站に立つて居る守備兵も、我々には物珍らしい。此の一本の線路に沿つた幾米突か以内が、附属地とか謂ふ相な。租界と同じものだらうと等と思ふ。
朝九時奉天着、日露の役に包囲攻撃を受けた古城だと思ふと懐かしいが、この埃はどうだ。建物と云う建物全部が黄色い砂埃を被つてゐる。先づ幻滅の悲哀を感じた。
先輩安武氏の計ひで一先大丸旅舎に入り、食后西田病院長西田氏を木曽町に訪門、只、話しに聞いて、今回始めて会ふのだが、歓待を受けて思はず時間を過ごした。氏し十数年前この町が未だ砂漠中の一部落に過ぎなかつた頃から病院を開いて診療に従事されて、今日の盛大を見られたとの事。「奉天の草分けですなあ」と朗かに笑つて居られたが、その裏ににじむ開拓者の血と涙の物語りを看過する事は出来なかつた。数多の支那人を患家に持つ当病院と、それから盛京時報社、この両者こそ真の日支親善の実行者であらう。
奉天を感激と敬意を以て翌日発つ。

 長春
 淋しい長春。だが、そこに淡い愛着を感じる長春、南満の涯にこの大市街を形成して居る人々に、敬意か表す。
 余の一年生当時の室長さん、川戸氏を国際運輸に訪ねる。君等がもう旅行に来たのかと驚かしたのも愈快だった。宿屋のお世話迄して戴いた上、御案内を賜る。二日滞在の后、哈爾賓へ。

 ハルピン
 哈爾賓の銀座キタイスカヤの夕べは、薄物をまとつた露西亜婦人に麗はしく彩どられ。夏の夜にオルゴールの微妙な音を想はせる。カチューシャも夏は斯んな服装で彼を悩殺したのだらうと考た。トルストイに似たロシア人の馬車屋が蹄鉄から火花を散しつゝ石畳のペーブメソトを走らせる。往き交ふ人の着て居るルパシカの粋に見えるのも流石に本場だ。
 松花江河畔に立つた時は三カ月が出て居た。北極星も微か乍ら直上に仰がれる。北に来たなおと感じた。松花江の水は色を秘めて、漫々と流れて居る。下航する車輸船の汽笛の哀れに聞えるのも、哈爾賓の情緒を深くする哩ざ游子は感じた。(HO生)

 呼海鉄道
 六月十四日、さあこれからだ。今日からが本当の大旅行なんだ。ハルピンから黒河街道に出る迄は今年始めての線なので急に一同緊張して来た。荷物も殆どハルピンに残して只ー袋にした。呼倫墨黒沿線経済調査班と書いて来た袋が気になるので訓査班だけ消してしまつた。皆んなの長靴乗馬姿が良く似合う。
 午後二時呼海鉄道列車の三等客におさまり返つてゐる、此の鉄道はハルピン対岸馬船ロから海倫迄昨年十二月に完成した、資本も経営も純支那だから豪気だ、駅員もボーイも仲々元気だ、規律正しい。然し此の鉄道は日本人の或る大工さんが請負つて地下数尺も氷る厳冬中に作り上げたと云う事だ、此地方は一般に低地だから勿論こうしなければ鉄道建設はむつかしい相だが。幾つかの河を越す時は橋梁に用ひてゐる大木がミシミシ云つてとても気味悪い、気車は歩く位の速力で前後左右にゆらゆらゆれる。
 でも窓から眺めた畠はどこ迄もどこ迄も続いて素敵に良く開けたものだと感心させられる、数十頭の馬群牛群、それを指揮する馬上り牧人、それは或は馬賊を想はし或は遊牧の民を彷彿させる、北満気分は充分出てゐる。畜産調査の○がオホゝオホゝと喜ぶ、やれ白馬だ、やれ雌豚が何匹見えるだと。

(続きあり)

坪内隆彦