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『GHQが恐れた崎門学』書評6(平成28年12月5日)

 皇學館大学教授の松本丘先生に『神社新報』(平成28年12月5日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただきました。心より感謝申し上げます。

受け継がれる崎門学 現代的な意義も詳述
 崎門学、すなはち江戸前期の儒学者で、垂加神道を唱へた山崎闇斎の学問と、GHQといふ取合せに、やや意外の感を受ける向きもあるかも知れないが、本書を読み進んでゆけば、すぐにその理由が理解されるであらう。それほどにわが国の歴史における崎門学の存在感が大きいといふことである。
 著者の坪内氏は、これまで『月刊日本』誌上にて、近代志土たちの評伝や、明治維新の先駆となった先哲たちについての記事を長く連載され、また、崎門学研究会を開いてその顧問を務め、崎門重要書の精読を続けられてゐる。
 さて本書では、「志士の魂を揺さぶった五冊」として、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』が取り上げられてゐる。それぞれの内容はもとよりであるが、これらの書に崎門学が如何に滲透してゐるのかが明快に説かれてゐる。その記述には、高山彦九郎、真木和泉、吉田松陰をはじめとする勤王家はもちろん、近代の高場乱、権藤成卿といった人物まで登場してをり、明治の王政復古は、崎門学無くしては成らなかったことを改めて認識させられる。
 これは、著者が説かれるやうに「君臣の大義の貫徹に支えられるわが國體が、自らの覚悟と実践に宿る」と信ずる崎門学徒の辛苦の営みによってもたらされたものであった。
 著者は、本書にて強調せんとしたことを「大義によって時代が切り開かれた歴史であり、先人の行為を高みに立って批評家として論うのではなく、その尊さを仰ぎ見る謙虚な姿勢、さらに言えば國體護持に挺身した先人に自ら連なるうとする日本人としての自覚です」と纏められてゐる。かうした著者の真摯なる筆致からは、崎門の学脈が現代にも確乎として受け継がれてゐることを確信することができる。
 なほ、補論では大宅壮一氏や最近の原田伊織氏の明治維新観が俎上に上げられ、痛烈な批判が展開されてゐる。さらに、著者と共に崎門学を研究されてゐる崎門学研究会代表の折本龍則氏による「いま何故、崎門学なのか」も附載されてゐて、崎門学の現代的意義も述べられてゐる。
 本書の発刊に同学の一人として敬意を表すると共に、多くの有志によって繙れんことを祈る次第である。

志士の魂を揺さぶった五冊

『GHQが恐れた崎門学 明治維新を導いた國體思想とは何か』(展転社) 拙著『GHQが恐れた崎門学』では、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』の五冊に焦点を当てた。
 この五冊の概要について紹介した箇所を引く。
①浅見絅斎の『靖献遺言』は、君臣の大義を抽象的な理論ではなく、歴史の具体的な事実によって示そうとしたものです。中国の忠孝義烈の士八人(屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の事跡と、終焉に臨んで発せられた忠魂義胆の声を収めています。その一人、明の建文帝側近として活躍した方孝孺(一三五七~一四〇二年)は、建文帝から権力を簒奪した燕王・朱棣(永楽帝)に従うことなく節を貫き、壮絶な最期を遂げました。『靖献遺言』には、口の両側を切り裂かれ、耳まで切りひろげられ、七日間にわたって拷問されてもなお、死の瞬間まで永楽帝を罵り続けた方孝孺の姿が描かれています。『靖献遺言』は、梅田雲浜、有馬新七、橋本左内、真木和泉、吉田松陰らの志士に強い影響を与えました。

②闇斎門下の桑名松雲に師事した栗山潜鋒の『保建大記』は、後白河天皇践祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源を究明した書物です。もともと、同書は、潜鋒が後西天皇の皇子尚仁親王(一六七一~一六八九年)に献上した『保平綱史』を増補したものです。

③闇斎の高弟・三宅尚斎に儒学を、また玉木正英に垂加神道を学んだ加賀美光章に師事した山県大弐の『柳子新論』は、「正名、得一、人文、大体、文武、天民、編民、勧士、安民、守業、通貨、利害、富強」の十三編からなり、天皇親政の理想回帰を訴えました。國體の理想が武門政治によって踏みにじられてきた歴史を、大弐は次のように書いています。
 「わが東方の日本の国がらは、神武天皇が国の基礎を始め、徳が輝きうるわしく、努めて利用厚生の政治をおこし、明らかなその徳が天下に広く行きわたることが、一千有余年である。(中略)保元・平治ののちになって、朝廷の政治がしだいに衰え、寿永・文治の乱の結果、政権が東のえびす鎌倉幕府に移り、よろずの政務は一切武力でとり行なわれたが、やがて源氏が衰えると、その臣下の北条氏が権力を独占し、将軍の廃立はその思うままであった。この時においては、昔の天子の礼楽は、すっかりなくなってしまった。足利氏の室町幕府が続いて興ると、武威がますます盛んになり、名称は将軍・執権ではあるが、実は天子の地位を犯しているも同然であった」(西田太一郎訳)

④蒲生君平の『山陵志』は、山陵荒廃は、國體の理想の乱れ、衰えを示す一現象ととらえた彼が、自らの生活を擲って敢行した山陵(天皇陵)調査の結果をまとめたものです。君平は、『山陵志』のほか、『神祇志』『姓族志』『職官志』『服章志』『礼儀志』『民志』『刑志』『兵志』、あわせて「九志」の編纂を目指していました。國體の理想の衰えを嘆き、往古の善政を回復することが彼の志です。『山陵志』を編纂することによって、山陵を大切にする気風を取り戻し、正名主義を確立することが君平の願いだったわけです。

⑤全二十二巻から成る、頼山陽の『日本外史』は、『靖献遺言』とともに志士の聖典と並び称されてきました。特に楠公の事績の部分は、志士の心を強く揺さぶりました。平泉澄は「大義の為に万丈の気を吐いて、数百年の覇業を陋なりとするところ、読む者をして、國體の尊厳にうたれ、自ら王政復古の為に蹶起せしめずんばやまない力がある」と絶賛しています。
 山陽は、広範な読者を得るために、細かな考証よりも、一般の読者が面白く読めるように、文章に急所と山場を作ることに力を注ぎました。彼はまた、『史記』を書写し、音読することによってそのリズムを自分のものとし、見事な漢文を書いて、読者を感動させたのです。

近藤啓吾先生の御指導と『GHQが恐れた崎門学』

 拙著『GHQが恐れた崎門学』発売直後の平成28年10月上旬、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生のお宅に、同書上梓の御報告と御礼に伺いました。崎門学研究会代表の折本龍則氏にも同行していただきました。
 近藤先生の研究の蓄積と御指導なくして、到底本書を書くことはできませんでした。拙著「あとがき」でも次のように書かせていただきました。

 〈…『靖献遺言』の理解においては、崎門学研究会を主宰する折本龍則氏とともに、近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』をテキストとして、平成二十三年から一年以上に亘って輪読会を継続いたしました。そのきっかけを作ってくれた折本氏には、今回「いま何故、崎門学なのか」と題してお書きいただきました。心より感謝いたします。
 平成二十四年十月中旬に、輪読会、勉強会で解決できなかった不明点、疑問点を整理して、近藤先生に書簡を出させていただきました。同年十二月五日、先生は小生の訪問をお許しくださいました。その際、『靖献遺言』を読む際に重要な「厳かな気持ち」「謙虚な気持ち」について教えていただきました。
 その後、書簡、訪問を通じて先生からは、誠に貴重なご教示を繰り返し頂戴するのみならず、平成二十五年五月二十三日に訪問させていただいた際には、「崎門の学を学ぶには」と題して、七枚に及ぶ丁寧な手引き書を賜りました。近藤先生の研究成果なくして、到底本書を書くことはできませんでした。
 近藤先生に出版の報告をさせていただいたところ、有り難くも、以下のような書簡を頂戴することができました。
 「貴編再読三読致しました。出版される書物数限りないものの、古人を論ずるもの、古人を自分と同列に引き下げ、中には却て自分以下に見降して勝手に評論するもの多くなるを歎いてをりましたところ、高文の古人に敬虔なるを拝見し、洵にうれしく思ひました。その上これを出版して下さる書肆のあること、よろこびと感謝の限りです」〉

 御礼に伺った際、近藤先生は書名に聊か驚かれ、「思い切った書名をつけましたね」と仰いましたが、その後全体に目を通された上で、「よく書いてくれました」とのお言葉を賜ることができました。これほどありがたいお言葉はありません。
 本書を通じて、崎門学の説く日本國體の真髄、明治維新の本義が、一人でも多くの国民に理解されることを望むのみです。
 以下に、筆者が繰り返し学び続けている近藤先生の主要著作を紹介しておきます。 Continue reading “近藤啓吾先生の御指導と『GHQが恐れた崎門学』” »

下御霊神社御札─山崎闇斎の垂加霊社

 
崎門学研究会代表の折本龍則氏が平成28年9月に京都を訪れ、崎門学の祖・山崎闇斎先生縁の下御霊神社をお参りした。
神社境内には、闇斎が自らの心神を祀った垂加社がある。今回、折本氏より有り難くも、御札を頂戴した。
垂加とは伊勢神道の『倭姫命世記』にある次の言葉に由来する。

  神垂以祈祷為先(かみはたるるにねぎごとをもってさきとなし)
  冥加以正直以本(くらきはくはふるにしょうじきをもってもととなせり)

この言葉を記した御札が入っている。

坪内隆彦「幕末志士の国体観と死生観」

 『国体文化』平成28年4月号に拙稿「幕末志士の国体観と死生観」を掲載していただいた。誠にありがとうございます。
本稿は、平成27年12月19日に開催された「国体学講座 第七講」における同名の講演録。
崎門学、水戸学の国体観、死生観を概観した後、梅田雲浜、吉田松陰、真木和泉の三人を具体的事例として、幕末志士の国体観、死生観の意義について語ったものである。

伊勢神道の眼目─近藤啓吾先生「神いますの確信」①

  伊勢神道の眼目について、近藤啓吾先生は「神いますの確信」(『崎門三先生の学問』)において、次のように書かれている。
「伊勢神道の神道説の眼目とするところは、一言でいへば、私どもたる本質は、神から賜つたものであるといふことの確信である。伊勢神道が神道としての理論を樹立したのは、平安時代の末から鎌倉時代の初めにかけてのことであるが、しかしそれは突然に成つたものでなく、神宮には神宮として古代より伝承し来つた神の認識があり、それを体系化しことばとしたことがその時代であつたといふことである。神道にはもともとその意識はあつたが、それを説くことばがなかつた。伊勢の神道にその神道を説くことばが成立したのは、仏教の中でも真言宗の教義を意識し、それに対抗するものとして、神道の自主性を説かんとしたためであつて、しかし伊勢にてはそれを成すために、当時最も組織化された教学であり、識者の間に強い影響を及ぼしてゐた真言宗の力を借りるところがあつたことは、已むを得なかつた。例へば伊勢神道にて最も大切にしてゐる「清浄」といふ語も、本来は真言宗の語であり、伊勢ではその語を借りて神道の心を表はす語としたことであるが、そのことをもつて、伊勢では真言よりその語と内容とを取つて己れの語とし思想としたものではない」

「心神」を守るための不断の反省修養─山崎闇斎の神道開眼

 近藤啓吾先生は、『崎門三先生の学問―垂加神道のこころ』において、山崎闇斎が心神の語に触発されて、我が心は天祖天御中主尊の分霊の宿りたまうところであり、同時に天児屋命の天孫守護の任をそのままに我が任とするものであると開眼したと指摘し、以下のように続けられている。
 「即ち是れ神人一貫の自覚であり、これを我が国家についていふならば、神代即人代といふことになつて、曾てその統中断なく、神代のままが今に連つてゐるを知られたのである。
 しかし、明なる鏡もその明を保つためには常にその面にたまる埃塵を払拭しなければならず、いかなる名刀もその鋭利を保つためには常に手入れを怠ることができない。その道理にて先生は、この神与の心神も不断に省察を加へざれば忽ち欲望に覆はれる恐れがあり、そのために不断の反省修養を必要とすることと考へて、それが神道にいふ『祓』であるとせられた。ここに於いて先生の神道に於いては『日本書紀』の神代巻とともに『中臣祓』が重要なる依拠となつて来る」

『崎門学報』第4号刊行

 待望の『崎門学報』第4号が平成27年7月31日に刊行された。
 堅い内容ながら、日本を救う鍵がここにあると筆者は信じている。
 10カ月前の平成25年10月1日に創刊された同誌は、崎門学研究会(代表:折本龍則氏)が刊行する会報である。創刊号では、発行の趣旨について、折本氏が「いまなぜ崎門学なのか」と題して書いている。
 まず、山崎闇斎を祖とする崎門学の特徴を、「飽くまで皇室中心主義の立場から朱子学的な大義名分論によって『君臣の分』と『内外の別』を厳格に正す点」にあり、「主として在野において育まれ、だからこそ時の権力への阿諛追従を一切許さぬ厳格な行動倫理を保ちえた」と説いている。
 さらに、肇国の理想、武家政権による権力の壟断の歴史から明治維新に至る流れに触れた上で、戦後日本の醜態を具体的に指摘し次のように述べている。
 「我が国は、今も占領遺制に呪縛せられ、君臣内外の分別を閉却した結果、緩慢なる国家衰退の一途を辿っているのであります。
 そこで小生は、この国家の衰運を挽回する思想的糸口を上述した君臣内外の分別を高唱する崎門学に求め……闇斎の高弟である浅見絅斎の『靖献遺言』を読了し、更にはその感動の昂揚を禁ずること能わず、今日における崎門正統の近藤啓吾先生に師事してその薫陶を得たのでありました。最近では同じく崎門学の重要文献である栗林潜鋒の『保建大記』を有志と輪読しております」
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崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」

 崎門学が明治維新の原動力の一つであったことを良く示す文章が、平泉澄先生の『明治の源流』(時事通信社、昭和45年)に収められた「望楠軒」の一節である。
 〈ここに殆んど不思議と思はれるのは、水戸の大日本史編修と時を同じうして、山崎闇斎が倭鑑の撰述に着手した事である。一つは江戸であり、今一つは京都である。一つは水戸藩の総力をあげての事業であり、今一つは学者個人の努力である。大小軽重の差はあるが、その目ざす所は一つであり、そして国史上最も困難なる南北の紛乱を、大義を以て裁断した点も同趣同様であった。但し問題は、処士一個の事業としては、あまりに大きかった。闇斎は、明暦三年の正月より筆を執り、そして少くとも二十数年間、鋭意努力したに拘らず、完成に至らずして天和二年(西暦一六八二年)九月、六十六歳を以て歿し、倭鑑の草稿もまた散逸してしまった。只その目録のみ、門人植田玄節によって伝へられた。それによれば、後醍醐天皇を本紀に立て、光厳、光明紀を之に附載し、後村上天皇を本紀に立て、光明、崇光、後光厳、後円融、後小松紀を之に附録し、そして明徳二年十月二日、三種神器入洛の事を特筆大書したといふ。して見れば是れは、水戸の大日本史と同じ見識であったとしなければならぬ。 Continue reading “崎門の真価─平泉澄先生『明治の源流』「望楠軒」” »

若林強斎『神道大意』の真髄⑤─近藤啓吾先生「日本の神」⑤

若林強斎『神道大意』第五段
 「総じて神道をかたるは、ひらたうやすらかにいふがよしとなり。忌部正通の、辞を嬰児にかりて心を神聖にもとむ、といへるこれなり。あのあさはかにあどない(子供つぽい、あどけないの意)やうなる中に、きつう面白くうまい意味がある、理窟らしい事を甚だきらふ事なり。(下略)」

 以下、近藤啓吾先生「日本の神」の解説
 「以上第五段。忌部正通の辞とは、忌部正通の著と伝へる『神代口訣』の凡例のうちに見える語であつて、その意、「神代巻」の記述、一見荒唐無稽の如くであるが、それは古代人の未開未熟の眼をもつて見た儘を写したものであるから、我れも当時の人となりて当時の眼をもつてその荒唐の記述を見れば、おのづからその真実を知り得るであらうといふものである。そして闇斎も、初め神代の記述の不合理なるを解しがたしとしたのであるが、この辞を知るに及んで、その記述に込められた真実を理解するの道が開けたることを述懐してゐる。強斎のこの語は、闇斎のその意を受けたものに外ならない。そして強斎はその辞によつて、神道はいたづらに理窟を言ひたてるべきでなく、その説、平易なるべきであるといふのである。
 以上をもつて強斎『神道大意』の紹介とその略解を終へる。読者みづからこれを熟思し、その神道説の本旨をみづから把握して頂きたい。そしてこれに因り、日本の神の特色を明らかにしてほしいと思ふ」