「垂加神道」カテゴリーアーカイブ

有馬主膳と高山彦九郎─『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』より

 
●垂加翁伝来神道奥秘口訣を相伝許可される
 昭和18年、高山彦九郎先生慰霊会によって『高山正之寛政四年日豊肥旅中日記』が刊行された。日記原本は有馬主膳が所有していたものであり、その後、有馬秀雄が襲蔵していた。同書には、「有馬守居翁小伝」として以下のように書かれている。
〈別名 有馬守居、初め純次と称し、後主膳と改む 其の邸宅が久留米城内二ノ丸の東南隅なる傾斜路の辺に在つたので阪低窩と号し、剰水或は是誰とも称した。是誰の雅号は京都大徳寺の大順師の撰ひ所である
又書屋名を「虚受軒」と名づけ所蔵の文籍には、虚受軒蔵書又は虚受庫の印章を捺してゐた。「虚受」の語は、晋書礼志中の「君子虚受、心無適莫」に取つたので、これ「己を空うして、人言を容れる」の義である
守居が藩老として寛裕博く忠言を求めて、修省献替に努めたことが察知せらるゝ。
即似庵 篠山城東郊外─森嘉善宅の北方約二丁、現今久留米市東櫛原町久留米商業学校の北部─なる翁の別墅の廬舎を「即似庵」と称した これは寛政の初年、茶道の師たる孤峰不白の設計指揮によりて築造されたもので、園内に数百年を経て枝葉欝蒼として四辺を圧する一大樟樹があつたが、惜い哉近時柯葉次第に枯槁するに至つたので、此の名本も遂に伐斫された。
此の庵室は明治の中期、久留米藩番頭稲次家の後裔亥三郎氏が買収して、市内篠山町なる自邸に移したが今に現存してゐる
翁は皇室尊崇の念が篤かつたので、寛政の比尊皇斥覇の潜行運動に奔走した、上毛の俊傑高山彦九郎、芸州の志士唐崎常陸介等が、相前後して久留米に来た時は、此の別業を中心として、森嘉善・樺島石梁・尾関正義・権藤壽達・高良山座主伝雄等と交通往来し、雅雛に託して国事を談じたのである
(中略)
晩年深く山崎闇斎の垂加神道を信じて……唐崎常陸介に就いて、同神道の「三種神宝極秘伝」「神籬磐境秘伝」其の他垂加翁伝来神道奥秘口訣等、悉く相伝許可を得た人である。〉

高山彦九郎と久留米③─三上卓先生『高山彦九郎』より

 
●垂加神道の伝書を伝えた唐崎常陸介
 久留米への崎門学の浸透において、高山彦九郎の盟友・唐崎常陸介は極めて重要な役割を果たした。
 唐崎は、寛政二(一七九〇)年末頃、久留米に入り、櫛原村(現久留米市南薫町)の「即似庵」を訪れた。即似庵は、国老・有馬主膳の茶室である。主膳は崎門派の不破守直の門人である。不破は、久留米に崎門学を広げた合原窓南門下の岸正知のほか、崎門学正統派の西依成斎にも師事していた。
 即似庵は、表千家中興の祖と言われる如心斎天然宗左の高弟・川上不白の設計により、寛政元年に起工し、寛政二年秋に落成した。三上卓先生の『高山彦九郎』には、次のように描かれている。
 「主膳此地に雅客を延いて会談の場所とし、隠然として筑後闇斎学派の頭梁たるの観あり、一大老楠の下大義名分の講明に務め、後半世紀に及んでは其孫主膳(守善)遂に真木和泉等を庇護し、此別墅(べっ しょ)を中心として尊攘の大義を首唱せしめるに至つたのである。此庵も亦、九州の望楠軒と称するに足り、主人守居も亦これ筑後初期勤王党の首領と称すべきであらう。
 唐崎、此地に滞留すること五十余日、主人守居を中心とせる闇斎学派の諸士、不破(実通)、尾関(守義)、吉田(清次郎)、田代(常綱)等及国老有馬泰寛、高良山蓮台院座主伝雄、樺島石梁、権藤涼月子、森嘉善等と締盟し、筑後の学風に更に一段の精采を付与した。…唐崎より有馬主膳に伝へた垂加神道の伝書其他の関係文献は今尚後裔有馬秀雄氏の家に秘蔵されて居る…」
 有馬秀雄は、明治二年に久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、帝国大学農科大学実科卒後、久留米六十一銀行の頭取などを務めた。その後、衆議院議員を四期務めた。
 唐崎から有馬主膳に伝えられた文献のうち、特に注目されるのが、伝書の末尾に「永ク斯道ニ矢ツテ忽焉タルコト勿レ」とある文言と、楠公父子決別の図に賛した五言律の詩である。
 百年物を弄するに堪へたり。惟れ大夫の家珍。孝を達勤王の志。忠に至る報国の臣。生前一死を軽んじ。身後三仁を許す。画出す赤心の色。図を披いて感慨新なり
 さらに、唐崎は垂加流兵学の伝書も伝授したらしい。

☞[続く]

合原窓南の門人②

 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。

●宮原南陸
 享保元年(一七一六)八月十五日、家老岸氏の家臣宮原金太夫の子として、十間屋敷(現・日吉町)に出生。名は存、半左衛門と称する。幼より至孝で学問に勉め、父職を襲って岸氏に仕えた。性は慎み深く、自分に厳格で、世事に練達し、主家三代に歴事した。学徳次第に世に高かまり、教を乞う者が多く、講義は本末を明らかにして懇切周到であったので、門人ますます増え、晩年には「門弟家にみつ」といわれている。当時の藩士で学問で名を成した者の多くは、南陸の門から出た。天明五年二月、藩校「講談所」が設けられると、藩主はその学徳をきき、特に抜擢して講官に任じた。陪臣の身で藩校教官となったのは破格の事であった。南陸の学統は山崎闇斎学派、師は合原窓南で実践をつとめ、空論を忌んだ。寛政四年(一七九二)六月十一日没。享年七七。墓は寺町真教寺。

●宮原国綸
 宮原南陸の嫡子で、名は国綸、通称は文之進、字は世経、桑州と号した。父南陸の学統闇斎学を奉じた。漢学ばかりでなく、柔剣術に長じ、また越後流兵法にも通じた。忠臣・孝子・節婦等の名を聞く毎に、その家を訪れ、善事善行を書き取り「筑後孝子伝」前後編、「筑後良民伝」を著し、藩主より褒賞を受けた。真木和泉守は、姉駒子が和泉守十二歳の時、国綸の長男宮原半左衛門に嫁した。この関係から和泉守は、国綸の教を受けた。文政十一年(一八二八)四月十七日没。享年六七。

『真木和泉守』(宇高浩著)より、
 「文政八年二月廿七日、和泉守の長姉駒子は、十九歳の春を迎へ、国老岸氏の臣、宮原半左衛門(得、字は多助)に嫁いだ。半左衛門は久留米藩校修道館教授宮原南陸の孫に当り、曽て和泉守が師と仰いだ宮原桑州の嫡男で、桑州は駒子が嫁いだ頃は未だ生存し、その後三年を経て、文政十一年四月十七日病没した。和泉守が桑州の門に学んだ頃までは、まだ弱冠で、充分に其の教えを咀嚼し得なかったであろうが、長ずるに及んで、南陸・桑州二人が読破した万巻の蔵書を、姉聟半左衛門に借覧して、勉学の渇を充分に医することが出来た。南陸父子の学は、山崎闇斎の門下、浅見絅斎に出で、筑後の合原窓南に伝わり、ついに南陸父子に及んだものである。崎門の学が、明治維新の大業に預って力があったことは、ここに吾
人の呶説を要しないところであるが、和泉守の思想の源流が、拠って来るべきところを知るべきである」 Continue reading “合原窓南の門人②” »

合原窓南の門人①

 
 合原窓南の門人についての、篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、昭和56年)の記述を紹介する。
●岸正知
 国老。通称は外記。国老有馬内記重長の二男で、国老岸刑部貞知に養わる。性は篤実温厚で学を好んだ。神道・国学を跡部良顕(光海)と岡田正利(盤斎)に学び、儒学は合原余修(窓南)に学び、後年に神道を正親町公通卿に聞くという神儒達識の人である。岸静知・不破守直等は正知に教を受けた。歌学書に「百人一首薄紅葉」三冊がある。宝暦四年(一七五四)六月十一日没。墓は京町梅林寺。
 なお、岡田正利は延享元(一七四四)年、大和国に生まれた。四十歳を過ぎてから、垂加神道を玉木正英跡部良顕らから学んだ。六十八歳のときに正英から授けられた磐斎の号を称し、正英没後はその説の整理に努める一方、垂加神道を関東に広めた。

●岸静知
 国老岸氏の分家。始め小左衛門、のち平兵衛と称する。父は平八。家督を嗣ぎ、番頭格秦者番三百石、元文元年(一七三六)十二月、病身のため禄を返上して御井郡野中町に隠栖した。国学儒学を岸正知に学び、のち国学を伊勢の谷川士清に、儒学を京都の西依成斎に学び、国儒に達した。致仕後は悠々自適、文学に遊んで世を終った。没年不詳。

●不破守直
 正徳二年(一七一二)、不破新八の長男として櫛原小路に出生。初名は祐直、のち守直。享保十年、家督を相続し禄百五十石御馬廻組。安永八年、御先手物頭格に進む。国学は岸正知・岸静知に学び、儒学は西依成斎に学び、神道にも深く達した。のち伊勢の谷川士清の学風をしたってその教を受けてより、国学者として藩内に重きをなした。門人には高山彦九郎・唐崎常陸介をその別荘『即似庵』に迎えた有馬主膳(守居)をはじめとし、田代常綱・室田宗静・尾関正義・松山信営がいる。「米藩詩文選」巻四に「題筑後志」の一文が収載されている。その文より地誌に対する守直の見識の深さをはかることが出来る。天明元年(一七八一)三月九日没。享年七〇。墓は寺町本泰寺。 Continue reading “合原窓南の門人①” »

藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より

 明和事件で山県大弐とともに刑死した藤井右門の思想については、『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘している。
 「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
 彼の思想について考察する唯一のてかがりが、彼の著作とされる『皇統嗟談』である。佐藤種治は以下のように書いている。
 〈右門の学説については彼の著述といふ「皇統嗟談」に於て伺うことができる。此所は九州四国其外有志の輩へ頒つたものであるが、これに描いてあることは山本新兵衛の所蔵のもの等によると、昔年北条貞時が奸計にて最も惶(かしこ)き皇統を二流に做(な)し奉り、天子の大威徳を分ちまゐらせんと揣(はか)りしにより大覚寺殿と持明院殿と御子孫各々る迭代に皇位に即き給ふべしと奏し定めまゐらせにき。抑々大覚寺殿と申し奉るは亀山天皇の御子孫也。然るに亀山天皇脱履の後は、嵯峨なりける大覚寺を仙洞に做し給ひしかば、是よりその皇統を大覚寺殿と称し給ひしなり。持明院殿と申すは、後深草天皇の皇統にて、中古後堀河天皇の外祖なる持明院基家卿の宅をもて仙洞に做し給ひしより、幾代の御子孫の天皇この所を仙洞となし給ひしかば、後深草天皇の皇統を持明院殿と申す也。然れば梅松論に拠るときは、後嵯峨天皇の御譲位の勅語に、一の御子久仁親王(後深草院是也)御即位あるべし、脱履の後は後白河法皇の御遺領なる長講堂領百八十箇所の荘園を御領として、御子孫永く御即位の望を止めらるべきもの也。却っ次々は後深草の御母弟恒仁王(亀山院是也)ありて、御治世は後々まで御断絶あるべからず、仔細あるによりて也と定めさせ給ひにけり。これにより亀井天皇の春宮後宇多院御即位ありしを、後々に至りては彼の北条の拒みまうして、後宇多・後深草・両帝の子孫をかはりがはりに皇位に即けまつりしがは、伏見(後深作院第二皇子)・後伏見(伏見院第一皇子)・後二条(後宇多院第一皇子)・花園(伏見院第三皇子)・後醍醐(後宇多第二皇子)に至らせ給ふまで、多くは御子に皇位を伝へ給ふことを得ず、是を以つて北条高時が計ひ稟して、後伏見の第二の御子量仁(かづひと)親王(光厳院是也)を後醍醐天皇の東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、当今を推む退けまつり、東宮に立て奉りぬ。又是故に持明院殿(伏見・後伏見・花園の三院也)の方さまには、後嵯峨天皇の遺詔のごとく、唯当今の御子孫の継体の君たるべきを、武家(北条を云)の悖逆なる世を経る累年、陪臣にして皇位を自由に致すことやはある。高時一家を誅戮して、先皇(後鳥羽並亀山帝云)泉下の御欝憤を慰めさせ給へかしと、思はぬ者はなかりける。是内乱の根本なとなれり。 Continue reading “藤井右門『皇統嗟談』①─『勤皇家藤井右門』より” »

藤井右門公園(富山県射水市)

 平成29年6月末に富山県射水市にある藤井右門公園を訪れた。
 右門は、朝権回復を目指して桃園天皇側近に講義をした竹内式部が京都から追放された宝暦事件(一七五八年)に連座し、さらに明和事件(一七六七年)で、山県大弐とともに処刑された。まさに、維新の先覚者である。 明治二十四(一八九一)年十二月十七日、右門に正四位が追贈された。ジャーナリストの福地桜痴は、その翌年、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
 藤井満氏の記録に基づき、右門処刑から、同公園ができるまでの経緯をここに記録しておく。
 明治四十二(一九〇九)年、東宮殿下(大正天皇)の北陸行啓に際し、小杉青年団において記念事業として碑が建立が決まり、旧小杉小学校校庭に「贈正四位藤井右門先生里閭碑」が建立された。
 その八年後の大正六年(一九一七)には、藤井右門百五十年祭が執行されている。その後、毎年命日の八月二十一日に右門廟前で右門祭が行われている。
 その後、富山県議会議長であり右門遺烈顕彰会会長の片口安太郎が中心となり史料を集めて調査研究をした結果、昭和十一(一九三六)年に、東京世田谷の妙高寺に右門の墓があることが判明した。そして、百七十年祭に当たり、遺骨を分骨して墓碑を藤井家の菩提寺の日澄寺横(社会福祉会館の裏)右門の生誕地にも近い一角に建立することが決まった。その間、片口は東京、京都の関係者に依頼、説得、町民への協力要請などに奔走し、ついに念願の墓碑(廟)建立に漕ぎつけたのである。
 筆者の手許には、墓碑建立のための工事が進められていた昭和十一年八月二十六日に富山放送局において、片口が放送した原稿がある。 Continue reading “藤井右門公園(富山県射水市)” »

射水市・日澄寺に安置される藤井右門像(宮原白水作)

 平泉澄は、「闇斎先生と日本精神」において崎門の学統を称揚し、次のように山県大弐と並んで藤井右門の名前を挙げている。
 「君臣の大義を明かにし、且身を以て之を験せんとする精神は、闇斎先生より始まつて門流に横溢し、後世に流伝した。こゝに絅斎は足関東の地を踏まず、腰に赤心報国の大刀を横たへ、こゝに若林強斎は、楠公を崇奉して書斎を望楠軒と号し、時勢と共にこの精神は一段の光彩を発し来つて、宝暦に竹内式部の処分あれば、明和に山県大弐藤井右門の刑死あり…」
 一方、明治25年にジャーナリストの福地桜痴は、「御一新(明治維新)の功は其源を何処に発するかと云うと此先生達(山県大弐・藤井右門・竹内式部の三名)の功労に帰せなければなりますまい」と述べている。
 右門が崎門の流れをくみ、維新運動の先覚者の一人であったことは間違いない。ところが、右門についてはその肖像画も像も、一般的には知られていない。
 平成29年6月、富山県射水市にある藤井右門公園を訪れ、右門の木造が、同公園に隣接する日澄寺に安置されていることがわかった。日澄寺のご住職にお願いし、木造を拝見することができた。
 射水市の彫刻家・宮原白水が昭和12年に制作したもので、高さ38.1センチ、幅43.6センチ、奥行き24.9センチの木造の像である。
 実は、2015年9月から11月にかけて、射水市の「太閤山ランドふるさとギャラリー」で開催された企画展「射水市ゆかりの作家たち」で、宮原の藤井右門像は展示されたので、地元では知られていたことになる。

藤井右門の思想形成─佐藤種治『勤王家藤井右門』の見解

 平成29年6月、富山県射水市を訪問し、維新運動の先覚・藤井右門関係資料を入手した。彼の思想形成に関して、新たに発見した事実を記録しておく。
 右門の父・藤井又左衛門宗茂は、もともと赤穂浅野家に仕えていたが、元禄の赤穂事件を契機に富山に移り、津幡江村(現射水市津幡江)の若林源吾宅助のもとに寄寓することになった。この宅助との出会いが、宗茂の日蓮信仰をさらに強めるきっかけとなったのである。
 宗茂が日蓮宗の信仰家であることを知った宅助は、宗茂を射水市小杉・日澄寺の日珠上人のもとへ案内した。当時、日珠上人は気概に溢れる青年僧侶であり、日蓮聖人遺文録を講義して人々に感化を与えていた。福島瑞岳は「日珠上人と藤井右門先生」において、次のように書いている。
 「又左衛門は日珠上人に接するや其熱心と國體観念に造詣の深かりしに敬信し、講義のある毎に欠かした事はなかった。…其後又左衛門は、日珠上人と別懇の間柄となり、遺文録を自ら求め宅助方にて拝読し、研究したのである」
 こうした宗茂の日蓮信仰が右門にも影響を与えることになったのである。『勤王家藤井右門』を著した佐藤種治は次のように指摘する。
 「右門には無論伊藤東涯の儒学の訓化の影響もあつたし、山崎闇斎の垂加流の神道が信仰の中心となつてはゐるが、彼の不屈不撓鉄よりも堅固い性格は幼少時代に日蓮宗から得た熱烈なる日蓮思想が、其深い根底をなしたことは、決して等閑に附し、否定はできないことゝ思うのであるが」
 伊藤東涯(1670~1736年)は、伊藤仁斎の長男であり、孔子、孟子の原点に帰ることを主張した古学派の思想を継承していた。つまり、右門の思想には、崎門学とともに古学派と日蓮思想が影響を与えていた可能性がある。さらに、佐藤は右門に対する山鹿素行の影響を次のように指摘している。
 「日本主義の儒学者たる山鹿素行は浅野長矩・長広等の師である。従つて藤井又左衛門の如き、此の学問は徹底とまでは進まずとも香はかいでいゐるわけであり、彼の子右門にも家庭に於て間接の影響は無いとは断言できぬ」「素行精神と日蓮精神と合一し融和し調和し消化せられた家庭の感化が影響したのであらう」

『GHQが恐れた崎門学』書評(平成29年7月)

 
 『敗戦復興の千年史』(展転社)の著者、山本直人氏が『表現者』平成29年7月号に、「歴史を動かす原動力とは」と題して、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評を書いてくださった。誠にありがたい事だ。
 〈マルクスの思想がレーニンのロシア革命を生み、北一輝の思想が二・二六事件の青年将校を動かした様に、或る特定の思想が思いがけない原動力となる例はそう多くはない。歴史とは様々な偶然が重なりあって、予期せぬ方向に発展するのが常だからだ。では七百年もの武家政治を終わらせた明治維新の原動力とは何であったか。それは黒船来港の外圧の結果や関ヶ原の西軍勢力の巻き返しのみで説明しうるものなのか。そうした中、本書では、幕末の志士たちの「自らの思想と行動を支える教科書」、「聖典」として、浅見絅斎の『靖献遺言』をはじめとする五冊の書物を取り上げている。一見何の脈絡もないこれらの書物の点と線とを結ぶ接点は何であったか。それが「明治維新を導いた國體思想」としての「崎門学」である。
 「崎門学」とは、垂加神道の提唱者として知られる山崎闇斎の門流から発展した思想である。「君臣の大義と内外(自国と他国)の別」を強調した闇斎は、江戸幕府初期にあって既に天皇親政の理想を掲げていたというのだ。つまり明治維新よりも百年以上も昔に、「朝権回復」を目指したのが、崎門学派だったことになる。
 例えば安政の大獄で命を落とした梅田雲浜、宝暦事件で朝廷を倒幕に導こうとしたとされる竹内式部、楠公精神を継いで討幕に向かった真木和泉、それらの思想背景には、大義のために命をものともしなかった中国の烈士たちを描いた『靖献遺言』の思想があった。また吉田松陰を討幕派に導いたものこそ、明和事件で処刑された山県大弐の『柳子新論』に他ならない。その志は高山彦九郎を経て、昭和維新の権藤成卿にまで引き継がれている。そして歴代天皇の山陵修補を提言した『山陵志』。その源流は、朝権衰退を憂えた栗山潜鋒の『保建大記』にあった。蒲生君平の遺志は、水戸学と合流し、藤田東湖の国体思想へと発展する。さらには、徳川氏を賛美したとされる頼山陽の『日本外史』の底流にも幕政批判があり、頼家三代における崎門学派との交流があったことを忘れない。
 平成三十年で明治維新百五十年を迎えるが、「明治」といえば文明開化以降の日本における近代化の出発点と見做されがちである。それどころか『明治維新という過ち』という書物にも象徴される様に、未曾有の国難を乗り越えた先哲たちを過剰な表現で貶める現象までが生じ始めている。「尊王攘夷」や「王政復古」の思想の源流については、これまでは国学や水戸学といった近世思想が注目されてきた。しかしながら、崎門学とは何か、初学者向けに解説した本は皆無だったといっていい。「明治」とはいかなる時代であったのか、さらに踏みこんで、「維新」の源流はどこに見出せるのか。本書はその解明に一つの手がかりを示してくれるだろう。〉

『GHQが恐れた崎門学』書評6(平成28年12月5日)

 皇學館大学教授の松本丘先生に『神社新報』(平成28年12月5日)で、拙著『GHQが恐れた崎門学』の書評をしていただきました。心より感謝申し上げます。

受け継がれる崎門学 現代的な意義も詳述
 崎門学、すなはち江戸前期の儒学者で、垂加神道を唱へた山崎闇斎の学問と、GHQといふ取合せに、やや意外の感を受ける向きもあるかも知れないが、本書を読み進んでゆけば、すぐにその理由が理解されるであらう。それほどにわが国の歴史における崎門学の存在感が大きいといふことである。
 著者の坪内氏は、これまで『月刊日本』誌上にて、近代志土たちの評伝や、明治維新の先駆となった先哲たちについての記事を長く連載され、また、崎門学研究会を開いてその顧問を務め、崎門重要書の精読を続けられてゐる。
 さて本書では、「志士の魂を揺さぶった五冊」として、浅見絅斎の『靖献遺言』、栗山潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』が取り上げられてゐる。それぞれの内容はもとよりであるが、これらの書に崎門学が如何に滲透してゐるのかが明快に説かれてゐる。その記述には、高山彦九郎、真木和泉、吉田松陰をはじめとする勤王家はもちろん、近代の高場乱、権藤成卿といった人物まで登場してをり、明治の王政復古は、崎門学無くしては成らなかったことを改めて認識させられる。
 これは、著者が説かれるやうに「君臣の大義の貫徹に支えられるわが國體が、自らの覚悟と実践に宿る」と信ずる崎門学徒の辛苦の営みによってもたらされたものであった。
 著者は、本書にて強調せんとしたことを「大義によって時代が切り開かれた歴史であり、先人の行為を高みに立って批評家として論うのではなく、その尊さを仰ぎ見る謙虚な姿勢、さらに言えば國體護持に挺身した先人に自ら連なるうとする日本人としての自覚です」と纏められてゐる。かうした著者の真摯なる筆致からは、崎門の学脈が現代にも確乎として受け継がれてゐることを確信することができる。
 なほ、補論では大宅壮一氏や最近の原田伊織氏の明治維新観が俎上に上げられ、痛烈な批判が展開されてゐる。さらに、著者と共に崎門学を研究されてゐる崎門学研究会代表の折本龍則氏による「いま何故、崎門学なのか」も附載されてゐて、崎門学の現代的意義も述べられてゐる。
 本書の発刊に同学の一人として敬意を表すると共に、多くの有志によって繙れんことを祈る次第である。