「アジア的価値観」カテゴリーアーカイブ

アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ

 以下、大アジア研究会の「アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ」を転載する。

謹啓
 時下益々ご清祥の事とお慶び申し上げます。
 さて、今年はフィリピン独立の闘士、アルテミオ・リカルテ将軍の生誕百五十年です。リカルテは、今から百五十年前の一八六六年十月二十日、ルソン島最北端のバタックという町で生まれました。当時のフィリピンはスペインの植民地支配に苦しんでおりましたが、やがてスペイン本国の衰退に伴い、独立の気運が昂揚し、ついに一八九六年には最初の革命蜂起が勃発します。リカルテはアギナルド将軍率いる革命軍と共に戦い、米西戦争によってアメリカが新たな侵略者となるや、アメリカとの戦争を指導しました。
  この米比戦争の結果、アメリカは百万人ものフィリピン人を虐殺し、一九〇二年にフィリピンを軍事制圧して以降は、過酷な植民地支配を行いました。捕らわれの身となったリカルテも、長きに亘る牢獄生活を強いられましたが、一九一四年、宮崎滔天や犬養毅、頭山満といった有志たちの計らいによって我が国に亡命し、横浜山下町に居を構えて静かな余生を送っていたのです(この縁にちなみ、戦後、横浜山下公園の一角にリカルテ将軍の記念碑が建立されました)。
 ところが、一九四一年に大東亜戦争が勃発すると、星条旗に唯一屈しなかったリカルテ将軍のフィリピン帰還を求める声が高まりました。当時のリカルテは七十五歳の老齢に達しておりましたが、意を決してフィリピンに帰還し、山下奉文大将率いる我が軍と共に戦いました。しかし我が軍の戦況が悪化し、山岳地帯での過酷なゲリラ戦を強いられるなかでついに病を発し、一九四五年七月三十一日、八十年の崇高な生涯に幕を閉じました。
 かくしてリカルテが、その悲願であったフィリピンの独立を見届けることはありませんでしたが、戦後フィリピンは独立を果たし、リカルテは祖国独立の英雄として讃えられております。またフィリピン解放のために、我が軍とリカルテが共に戦った歴史的事実は、日比両国にとってかけがえのない絆として記憶されるべきであり、将来における日比永遠の友好関係を約する偉大な歴史遺産であります。 続きを読む アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭のお知らせ 

フィリピンの志士リカルテ将軍と山下町の拠点

 かつて山下町南京街の一角(山下町149)に「ハリハン」というフィリピン・レストランがあった。
 この場所こそ、日本での亡命生活を送っていたフィリピンの志士アルテミオ・リカルテ将軍の拠点だった。多くの者がフィリピン独立の日を待ち望むリカルテ将軍を訪れて励ました。
 「人々は争つて将軍の亡命の心をなぐさめるためにやつて来て、将軍の健かな顔をとりまひて、過去の追憶や、現在の祖国の悲運や、悲観すべき未来のことなどを語りあふのだ。涙多き青年は、そこでフィリピンの独立の歌を唄ひ、慷慨悲憤の士は、拳で机を叩きながら叫ぶのだ」
 中山忠直『ボースとリカルテ』(昭和17年)には、「ハリハン」前でアゲタ夫人と娘たちと映る写真が掲載されている。

『大亜細亜』創刊の辞

 平成28年6月30日、折本龍則氏と小野耕資氏が主宰する大アジア研究会の機関紙『大亜細亜』が創刊された。
創刊号コンテンツ
●創刊の辞
●「笠木良明と『大亜細亜』」(坪内隆彦)
●「アジア主義に生きた杉山家の伝承」(杉山満丸)
●「王道を貫いた大三輪朝兵衛」(浦辺登)
●「陸羯南のアジア認識」(小野耕資)
●「大アジア主義の総説と今日的意義」(折本龍則)
●「インド哲学とシャンカラ」(金川雄一)
●「時論『価値観外交』の世界観から『興亜の使命』へ」(小野耕資)
●「史料『興亜会設立緒言』」(折本龍則)
●「大亜細亜医学のなかの日本①」(坪内隆彦)
●「リカルテ生誕一五〇年」

 以下、創刊の辞を紹介する。

 〈欧米型の政治経済システムの弊害が世界を覆うようになって久しい。それはデモクラシーとキャピタリズムの限界として露呈してきた。しかも、問題は政治経済に止まらず、人類の生命・生態系を脅かす様々な領域にまで及んでいる。
 人間生活を支える相互扶助・共同体機能の喪失、精神疾患の拡大に象徴される精神的充足の疎外、地球環境問題の深刻化などは、そのほんの一例に過ぎない。これらの問題の背景にある根源的問題を我らは問う。それは、行き過ぎた個人主義、物質至上主義、金銭至上主義、効率万能主義、人間中心主義といった西洋近代の価値観ではなかろうか。
 これらの価値観は限界に達しつつあるにもかかわらず、今なお、大亜細亜へ浸透しようとしている。新自由主義の大亜細亜への侵食こそ、その具体的表れである。亜細亜人が、時代を超えて普遍性を持ちうる、伝統文化・思想の粋を自ら取り戻し、反転攻勢に出る秋である。今こそ我らの生命と生態系を守るとともに、文明の流れ自体を変えなければならない。 続きを読む 『大亜細亜』創刊の辞

西本省三「之を如何、之を何如」より(『支那思想と現代』)

日本人自ら「如之何如之何」を繰り返すべき
 〈子日く「之を如何、之を如何と曰はざるものは、吾れ之を如何ともするなきなり」と、朱子之に註して「之を如何、之を何如とは、熟思して審かに慮するの辞なり、是の如くせずして妄りに行はゞ、聖人と雖も亦之を如何ともするなし」と。…日支は離して見ないで、渾一体に考へねばならぬものであからソレ丈け日本人は支那問題に対し、常に「如之何如之何」とて大に審慮して居るけれども、更らに天啓直示がないで支那はドーなるだらう、支那はドー経綸したら好いだらう云つてるのみである。支那人に「如之何如之何」と繰返さしむることを求むるよりも、先づ日本人が之を繰返し、上下心を一にし、王道を以て支那に臨み、徳を積むことの難有きを身体心得し、日支両国を永久に打算し、往々陥り易き小刀細工の策を罷むることにせねばならぬ、然らざれば百千の対支政策を建つるも、這は本を揣らずして其末を齊ふせんとするの類に過ぎない、何等の役に立たずして、益々日支の間を乖離せしむるのみである〉
(大正9年3月1日)

西本省三「大春秋と小春秋」より(『支那思想と現代』)

支那人の性情
 〈…支那の革命首脳者は、何れも…妥協、賄賂等を為し、彼の白耳義(ベルギー)借款を以て自ら「貪欲である」事を表示し、支那人の是等性情の変へられない点を能く曝露したではないか〉

小春秋時代の様相
 〈…春秋史を縦横に観察して、世界列国と照映し、吾人の所謂大春秋時代とも云ふべき今日の世界を見るに何れも正義人道又はデモクラシーを高調しつゝあれども、事実は之に反し、彼等の自私自利の行動は依然として絲毫も止まぬ様である、即ち小春秋時代の様に、大道癈れて仁義顕ると嗟嘆した老子の意識語と、同様な感を抱かずには居られEないのである〉
(大正9年2月23日)

西本省三「徳の力」より(『支那思想と現代』)

力より大なる徳
 〈要するに支那に於ける政府と国民、其政府と政党、其南と北、其中央と地方、其資本家と労働者、此等の対立関係を善くする者は、其オルガニゼーションを統率すべき人が、対立関係以外の力、即ち天下の道を行ふて心に得たる徳の性格を具へて居ることに在る、権力や愚民の力は乱を致すのみ、徳なるものは力の名はないが、力よりも大であるとは此処の事である〉

真の仁恕を以て眼目とする東洋
 〈然るに吾人は当地に寓居せる支那学者沈子培翁を訪ひ、談故釈宗演師と沈翁の欧州戦評に及び、其時宗演師欧戦を看る如何と問ひしに対し、沈翁が「仁ありて恕なし、但し所謂仁は我東洋の仁の一端のみ」と答へたのを想起し、西洋の仁を我仁の一端とし、恕なしとせる所を称し、欧州戦は約めて云へば各国の争覇戦にあらずやと云ふや、翁は然り然りとて盛んに其然る所以を説き…我東洋は之に反し、所謂天人合一の平等境に立てる高遠なる天地観、人生観を以て直ちに之を政治に体現せる国柄で、真の仁恕を以て眼目として立つて居る、即ち孟子が「舜は庶物を明かにし、人倫を察す、仁義に由りて行ふ、仁義を行ふにあらず」と云つて居る如く、東洋は仁義已の心に根し行ふ所皆此より出づてふ徳政で、仁義の為めの仁義で組織された国柄でない、西洋の如く圧迫や抵抗や破壊で構成された国家社会ではなひ即ち争ひを以て終始した国家社会ではない、トテも正義人道を粉飾し帝国主義を排し、事実武力的経済的帝国主義を行ふ様な国柄とは比較にならない〉
(大正9年2月23日)

西本省三「礼教の国」より(『支那思想と現代』)

滅亡を救った礼教
〈支那が夷狄から亡ぼされても、兎も角世道を維持し得て来たことは決して忘るゝ事は出来ぬ、若し支那に礼教がなかつたなら、支那は滅種の禍を見たかも知れない。滅種の禍を免れたのは、全く礼教の御蔭だとせねばならぬ〉
〈夫れ世界は物質文明大に発達し、諸般の事業愈盛んなるに連れ、貧富の懸隔愈甚しく、今回の欧州戦争の禍患は前古未曾有で、今日の過激派や労働問題の害は早や頂点に達して居る、而して通貨が膨張して物価が騰貴し、人民は生活難に苦んで居る、今日民の此難を救ふに何の法かある。所謂経済学者や所謂財政通の頭ではトテモ想起せらるゝものでなから〉

大道において日本と一致する支那

〈皇祖皇宗国を建つること宏遠に、徳を樹つること深厚なる君民合一の道徳的政体の下に立つ吾人は大道に於て吾国と一致せる支那が其最も大切なる礼教の国の名を顧みずして、徒らに欧米権利の国を真似んとして止まないのを深く遺憾とせざるを得ない〉
(大正9年2月9日)

ライプニッツと儒教①─五来欣造『儒教の独逸政治思想に及ぼせる影響』

 五来欣造『儒教の独逸政治思想に及ぼせる影響』(早稲田大学出版部、昭和4年)で、ライプニッツに対する儒教の影響について論じている。
 五来は、ライプニッツ全集第十巻の「教養ある善意の人に対する手記」の以下の部分を引用する。
 〈私の為に、私は形而上学及び道徳のこの大原理を置く。即ち世界は可能的なる完全なる知識に依つて支配されて居る。従つてこの世界を以つて世界的王国と見倣し、その首長は全能にして且つ最高の聖智を有し、その臣民は総べて精神である。換言すれば、知識に「適当し、又神と共に社会を作るに」適当する総べての実体である。而してその他のものは神の光栄と精神の幸福を来す可き手段に過ぎない。従つて全宇宙は精神の最も可能的に大なる幸絹に貢献することが出来る〉
 〈前者より更に他の純粋に実践的なる原理が出て来る。精神は善意を有し、神の光栄即ち共同の幸福に貢献すべく努力するに従つて、彼等自身この幸福に與り得るであらう。若し彼等がこの貢献をせざれば、必らず罰せられるであらう。何となれば完全に良く支配されたる王国に於ては、如何なる内部又は外部の善き行も、之に比例したる報酬を受けざるものなく、その悪業も亦罰を受けざるものは無い。我等は理性のみの助けに依つて、その詳細を説明することは出来ない。又如何にしてそれが斯の如くなるかを知らない。殊に来世の場合を然りとなす。然しながら是が斯の如くあることは、疑ふ余地がないと言ふこと丈けで充分である〉 続きを読む ライプニッツと儒教①─五来欣造『儒教の独逸政治思想に及ぼせる影響』

岡倉天心と屈原

 
明治31(1898)年3月26日、岡倉天心は東京美術学校を追われた。その背景には、スキャンダルがあったのだが、欧米型近代化に背を向ける天心流の国粋主義が、国家政策の邪魔になったと見ることもできる。
 天心の受けた打撃は大きかった。しかし、ようやく天心は民間の自由人としてみずからの理想を追求できるようになった。ただちに彼は、私立美術学校として日本美術院の設立に動く。 ――自分たちは、あくまでも先生についていきます。
 天心失脚に憤慨した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら教官17名は4月に辞職、天心とともに歩んでいくことを決意していた。
 10月15日、「新時代における東洋美術の維持、開発」を高らかに掲げ、日本美術院はスタートをきった。開院式に合わせて記念展覧会が開催された。人々は、会場に飾られた大作に注目した。 続きを読む 岡倉天心と屈原

度会延佳『陽復記』テキスト 2 崎門学研究会 輪読用資料

 度会延佳の『陽復記』テキスト2。平重道校注(『日本思想体系 39 近世神道論 前期国学』岩波書店、86~117頁)。

『陽復記』上(86~87頁)
 此国常立尊より三代は一神づゝ化生(けしょう)じ給のよし、日本記に見え侍る。しかるを此三神は、易乾卦(けんのけ)の奇爻(きこう)を表してかくしるすならんと云人あれど、さにはあらず。我国のむかしより語り伝たる事の、をのづから易にかなふ故に、神書を撰べる人の易と附会したることばあり。日本の神聖の跡、唐の聖人の書に符を合せたる事はいかゞと思ふべけれど、天地自然の道のかの国この国ちがひなき、是ぞ神道なるべき。其後又三代*は二神づゝ化生じ給ふとなり。是を坤卦(こんのけ)の耦爻(ぐうこう)の三画に表ずるならんと云。此理は上にしるしぬ。国常立尊より第七代めにあたりて伊弉諾尊・伊弉冉尊二神出生し給。是を伊弉諾は乾卦三画成就、伊弉冉は坤卦三画成就にて、男女の体も定りぬるならんと云。をのづからかなふ*ところ深意あるものなり。此伊弉諾尊・伊弉冉尊夫婦となりて此国をうみ草木迄もうみ給と云。子細あり。あらはしがたし。其後此国のあるじを生んとて、天照大神を生給ふ。天照大神、御子の吾勝尊を此国にくだしたまはんとおぼしけれど、又其御子皇孫瓊々杵尊生れ給ふにより瓊々杵尊を下し給ひ、それより三代、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)に至り給ひぬ。此三神は易にをいては、内卦の三画、伊弉諾より吾勝尊まで三代は外卦の三画を表せるならむ。外卦は上、内卦は下なれば、乾の或(あるいは)踊て淵にありといふごとく、吾勝尊の此土にくだらんとしてくだり給はぬこそ、易道に少もちがふ処なけれと云人あり。誠にちがひはあるまじき事なれど、我国の神道に易道は同じと見るこそ忠厚の道ならめ。易道に神道は同じきといふは、いかゞと思ひ侍る。

*三代 埿土煮・沙土煮、大戸之道・大苫邊、面足・惶根の三代の諸神。これは、『日本書紀』に記されている。
*をのづからかなふ 自然に神道の伝えが儒教の易の理に一致すること。