「徳川慶勝」カテゴリーアーカイブ

尾張勤皇派・田宮如雲①

 
 尾張勤皇派として明治維新の実現に挺身した田宮如雲について、荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、以下のように書いている。
 〈田宮如雲は尾藩をして明治維新の鴻業を翼賛せしめたる原動力にして、尾藩の先覚者である。
 如雲が原動力となり尾藩をして明治維新の鴻業を翼賛せしめるに至る迄の間、彼れは幾回か迫害と屈辱とを受けたのである、若し尋常慷慨悲歌の士なりせば『君辱臣死』又は『一死報国』等の名の下に奮然死を決すべかりしも、彼れは士の死を決するは義の立つと立たざるとに在りとし、苟も義にして立つに於ては死生は天の命に委かせ義の為に苦楚を甘受するを当然とし、固く義を執りて動かず即ち隠忍自重万難を排して竟に所期の目的を遂行したのである。
 田宮如雲は夙に国家の為に心胆を砕き俗論を排斥し、正義を扶植し後進を誘掖する等、当時藤田東湖と其名声を埓うせしのみならす、如雲が慶勝を支藩より迎へ之を藩主として擁立し、慶勝の信認を得て能く之を輔佐したると、東湖が水戸家の為特に奔走して斉昭を立て、深く斉昭の信認を得て忠誠憂国善く斉昭を輔佐したると、其事蹟の偶然暗合するが如きも亦一の奇遇である。
 初め如雲は幕政の堕落を匡済し時患を拯はむとの大志を抱き、凡庸の藩主を戴きては其志を達成し能はざるを自覚し、支藩松平家より令聞ある慶勝を迎へて本藩の継嗣たらしめむことを企て、一とたびは其計画敗れて挫折したるも、彼れが不撓の努力は遂に再度の機会に於て成功し、即ち慶勝を本藩主として擁立したのである、幾くもなく米艦渡来、尊王攘夷の国論沸騰するに当り、如雲は慶勝をして幾回か時局を収拾するの方策を幕府に提議せしめたのである、藤田東湖は已に安政乙卯の震災に殪れたるも英明なる斉昭は慶勝と提携し幕府の為に侃諤の議を進め毫も屈する所なかつたのである。
 安政戊午斉昭、慶勝は共に井伊直弼の為に幽閉せられ、如雲は径ちに尾張に逐斥せられたのである、其筋の命を含みたる藩吏は如雲を城南御器所の一村荘に屏居せしめ、茲に厳重監禁することゝした、此間に於ける如雲は実に名状すべからざる艱苦を嘗めたれども、之と同時に亦大に修養の功を積みたるものである。
 時は万延庚申の上巳、桜田門外の活劇は早く既に屏居せる如雲の耳に響き来つた、井伊直弼に此事あるは如雲の敢て恠まざる所なるも、幕府善後の処置に関しては頗る寒心したのである、折柄續て水戸斉昭の薨去となり曾て如雲の理想とする尾藩の立場は倍々険悪の雲に薮はるゝ所となつた。
 されど越前に春嶽あり、土佐に容堂あり、薩摩は幕府の為に努力を辞せざる等、如雲は朝幕間尚ほ意志の疏通を見るに有望なることを思ひ、窃かに時運の進展を希図したるに、其間公武一致の標榜の下に皇妹御降嫁の実行せらるゝありて、朝幕間稍々緩和の兆を見むとしたるに、元治甲子に至り忽ち長藩禁闕を侵し所謂蛤門の変はこゝに突発したのである〉

[続く]

尾張藩の明倫堂と崎門学①

 斎藤悳太郎『二十六大藩の藩学と士風』(全国書房、昭和19年)は、尾張藩の明倫堂について、以下のように書いている。
〈嘉永六年、尾張徳川家十四代の君主慶勝は、藩学明倫堂における文武修業について、藩士に対しこれを激励する九箇条の直書を発したが、武技稽古場に貼り出されたものは次のごときものであつた。
一、方今皇国の形勢不容易厄運に当り日々切迫に趨り不安之時節に候。然ば当家之儀は随一の親藩として諸藩の標的共可相成国柄に候処、昇平年久しく殊更四通八達之地故に自然之習士林之風気
柔情に移り易く、義勇発奮之武断は却而諸藩に謨候様相成侯而は、皇武祖先に奉対、忠孝之瑕瑾、万世不磨之恥辱と可相成誠以国家之苦心此事に止り候。就夫学校は一国士風之亀鑑に付先是より流弊一新之源を可開申存念侯間、何も此主意を身に体し発奮可有之事。
一、尾籍国校学生たる者、天下に押出して、夫程の人体に無之侯ては、可恥之至也。以来は文武之嗜、其格に叶侯者ならでは、学生は取立間敷侯。―─
時に明倫堂の督学は阿部松園であつたが、前年江戸に出て水戸の弘道館総裁となつた。前年督学正木梅谷の頃から校運やや振はず、一藩の士風また因循して進取の気を欠くものがあるので、慶勝座視するに忍びず、つひに直書を下して藩学を督励し、士気を鼓舞せんとしたものである〉
同書はまた、外国船が日本に頻繁に来るようになった文化年間(一八〇四~一八一八年)の明倫堂について、次のように書いている。
〈近年外国の艦鉛が来航して以来、物情騒然人心沸騰、天下漸やく事有んとする形勢になつたので、一藩の士人はいふに及ばず、学内の生員でも、すでに壮年以上のもの、また心ある教師らもひそかに『靖献遺言』や『新論』を読まざるものなきにいたつた

「坪内高国は勤王の志の厚い人であった」(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)に基づき、明治維新期の坪内高国の動きを整理しておく。
 高国は、慶応四年(明治元・一八六八)二月七日に、尾張藩主へ勤王の証書を差し出した。内容は以下の通り。
 〈一 岩倉殿並御家ヨリ御達相成居候、朝命之趣附遵奉仕、勤王之志興起仕候上は、仮令徳川庶人之指揮有之候共、御家え伺之上ナラテハ、其指揮ニ応シ中間敷事
浮萍之徒動乱ニ乗シ、紳縉家之命、或は御家之藩士ト偽リ、僈集ニ渡リ候所置有之候上、乱妨之次第ニ及候ハゝ、近傍勤王之諸侯ニ援兵ヲ請鎮静方取計可申候事
一 近隣ニ有之候、土着詰合之有司之領地、互ニ申合勤王可仕候事
 右之条々、誓て遵奉可仕候間、為後日証書如件〉
 高国は、二月十日には、大垣竹島町の本陣において、東山道鎮撫総督岩具定・同副総督岩倉具経両人に謁し、勤王遵奉の趣旨と、この上にも勤王いたすように、と諭された。
 一方、尾張藩士・荒川弥五右衛門(荒川定英)は勤王誘引のために美濃に派遣されていた。荒川は尾張藩士坪内繁五郎の弟で、尾張藩荒川家へ養子入りして、荒川弥五右衛門を称した。坪内繁五郎家の祖は、各務郡前渡村坪内氏三代嘉兵衛定勝の四男坪内兵左衛門定繁であり、荒川と高国とは血縁関係があったのである。
 二月十三日、平嶋坪内氏家老の岩塚らい輔は、高国の名代として、濃州大野郡揖斐にいた荒川を訪問も、「勤王之道相顕侯ニ付、本知是迄の通、被成置侯事」との書状を受け取った。これに対して、高国は「此之上は勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」との内容の請書を提出している。
 高国は、二月二十日には、名古屋城に登城し、尾張前大納言徳川慶勝に目見えて、この上一層勤王いたすよう励まされ、菓子一包(干菓子五品落雁等)、手綱五筋を与えられ、また元席で料理(酒・膳)にあずかり退出している。この御目見の時、第一番目は、加納城主永井肥前守尚服、第二番目は、表交代寄合の旗本兼尾張藩士四千四百石千村は靭負(可児郡久々利村)であり、第三番目が坪内高国であった。
 『岐南町史』は「坪内高国が尾張前大納言徳川慶勝に重要視されていたことがわかる」と記し
、さらに次のように書いている。
 〈明治元年(一八六八)九月十九日、坪内高国は、京都の非蔵人口へ出頭して、行政官より本領(高五百六十七石余)安堵の朱印状を受領し、上士席になった。明治二年(一八六九)十一月三十日、留守官より上士触頭の任命辞令を受領した。千石以下の上士で上士触頭(配下の上士・下士三十一名)となったのは破格の栄与であった。明治三年(一八七〇)四月、顧に依って致任し、美濃国羽栗郡平嶋村陣屋に住居することになった。致仕に際して格別職務に精励したがどで、京都府よりほう詞とともに金百八十両を下賜された。この間、明治二年(一八六九)十二月九日に采地を奉還している。以上のように、坪内高国は勤王の志の厚い人であった。〉(『岐南町史』271、272頁)