「皇道経済」カテゴリーアーカイブ

忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか はじめに

はじめに
平成二十二年のクリスマスの日、漫画「タイガーマスク」の主人公の名義で、群馬県の児童相談所にランドセルが届けられた。これをきっかけに、全国で続々と施設などへランドセルや文房具などを贈る人々が現れた。この間、鳥取県琴浦町では大晦日から降り続いた雪によって、車千台が国道九号線に立ち往生した。このとき、付近の住民たちは「トイレ」という看板を作って家のトイレを開放したり、ありったけの米を炊き、おにぎりを作って配って回ったりしたという。
小泉政権時代に強まった新自由主義路線により、わが国の共同体は破壊され、互いに助け合って生きていくというわが国の美風が失われたと批判されてきたことを考えると、こうしたニュースはせめてもの救いと感じられる。
新自由主義路線は一旦頓挫したかに見えたが、いま環太平洋パートナーシップ協定(TPP)をめぐって、再び息を吹き返そうとしている。TPPは、決して第一次産業に限定された問題ではなく、アメリカの「年次改革要望書」による規制緩和要求と同様に、国民生活に直結する制度変更の危険性を孕んでいる。市場の拡大、経済効率、国際基準を旗印にして、再び規制緩和が叫ばれようとしている。しかし、こうした動きに対する警戒感が強まらないのは、わが国本来の経済観自体が過去の遺物として見失われているからではなかろうか。皇道経済論の発想を理解することは、わが国本来の経済観を再認識する契機となるだろう。
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東洋大教授・鎌田耕一氏の暴挙─大御宝を道具化することなかれ

 天皇の大御宝である労働者をまるで使い捨ての道具のように扱うことは、わが國體に適わない。ところが、飽くなき営利追求に走る大企業は労働者を道具として扱おうとしている。その動きを象徴するのが解雇規制の緩和であり、労働者派遣の完全自由化である。
 いま、東洋大教授の鎌田耕一氏を部会長とする「労働力受給制度部会」が、労働者派遣法の大改悪を目指して動いている。労働側の反対で年内の報告書とりまとめを断念したが、鎌田氏は平成26年早々のとりまとめを目指している。
 國體護持の立場から、保守派こそが「大御宝の道具化」反対の先頭に立つべきである。

    財閥富を誇れども 社稷を念ふ心なし

作田荘一─「産霊」の経済を唱えた皇道経済論の魁

以下は、『月刊日本』平成21年6月号に掲載された「作田荘一」(日本文明の先駆者)です。

修業で体得した「我も彼もない境地」
アメリカ流の金融資本主義の限界が指摘される中で、近代経済学の在り方自体を見直そうという気運が出てきている。その際、重要になるのが各民族の伝統思想を基盤にした経済学である。
戦前の我が国では、近代経済学の流入に抗い、皇道経済学、日本主義経済学を構築しようという試みがあった。
出口王仁三郎らの宗教的運動や民族派・維新派の運動の一環として皇道経済論が唱えられる一方、学界でも皇道経済学構築の動きがあったのである。学界における先駆的試みを代表するのが、今回取り上げる作田荘一の経済学である。
作田荘一は、明治十一年十月十一日、山口県佐波郡で生まれた。父親は神道に対する信仰が篤く、家には神棚が三つ設けられ、子供たちは毎夕灯明を上げるならわしがあった。また、作田は幼少期から、地元の大元宮によく参拝していたという(作田荘一『道を求めて』(道の言葉 第六巻)道の言葉刊行会、昭和三十八年、十五頁)。
高等小学校に入学すると、彼は心の悩みを懐き、初めて学校を休み、独り山中や河原で瞑想にふけった。これが、後日瞑想に打ち込む彼の修行の先駆けになったようである。その後、山口高等中学校、山口高等学校を経て、明治三十四年に東京帝国大学の前身、法科大学に入学する。明治三十八年に法科大学を卒業したが、就職に失敗し、郷里の三田尻に帰省した。そして、彼自身が振り返るところによれば、子供のときに時々参詣していた宮市天満宮と呼ばれる、菅公を祀る松崎神社で魂鎮めの行を続け、神秘的な体験をする。これが、作田の求道修行の入門となった。
結局、作田は就職せず、大学院に残ることにした。すでにこのとき、学問的関心は経済学に移っていたが、法律科出身だったため、経済学専攻の希望は叶わず、法律学科の中でも最も法律学らしくない国際公法を選択したという。指導教官は、日露主戦論を唱えた「七博士」の一人、寺尾亨教授だった。作田はときどき寺尾の自宅を訪れたが、法律論よりもアジア問題について聞いたことが面白く、有益だったと振り返っている(前掲書二十四~五十九頁)。
作田は、明治四十年春、逓信省の通信局規格課長、坂野鉄次郎の紹介で同省に入省したが、仕事に打ち込むことができず、まもなく転職を考えるようになる。そんなとき、彼はまたとない機会を得た。明治四十一年五月、東大教授の梅謙次郎の推挙を得て、清国・武昌の湖北法制学堂に経済学の教員として赴任することになったのである。法制学堂とは、官吏養成のために設けられた高等専門学校程度の新型学校である。
彼は、武昌の地で、行に没頭するにふさわしい環境を得た。冬の間、小高い建物の一室に篭れば、夜などは全く人声も聞こえないからである。彼は、ひたすら魂鎮めの行を続け、次のような特別な境地に到達したという。
「いつしか我が身体の存在も意識から消えて行く。身体の存在が影も形もなく消えて了えば、身体に即する『個体』も忘却され、我と彼とを区別する世間人の面が暫く影を隠くす」(前掲書九十八頁)
三年三カ月に及ぶ武昌滞在を経て、明治四十四年七月に日本に帰国、翌年二月に山口に戻り、山口高等商業学校の経済学担当教授に就いた。作田を推薦したのが、中学、高校、大学時代の同窓、河上肇であった。
山口時代に作田は東亜経済への関心を強めた。大正五年、山口高等商業学校に東亜経済研究会が設置され、紀要として『東亜経済研究』が刊行されるなど、活発な東亜経済研究が展開されるようになったからである。『東亜経済研究』には、後に建国大学教授となる中国・朝鮮史学の稲葉岩吉や満鉄調査課の天野元之助ら、錚々たるメンバーが論文を寄せていた。山口時代に作田が古事記や日本書紀などの古典を反復熟読していたことも見逃すことはできない。この熟読による変化を、彼は次のように振り返っている。
「それらの古典を読み返せば、その都度にその中に含蓄されて居る深遠なる意味がだんだんと通じ来たり、隠れたる奥の世界が次第にその幕を開けるかの観を覚えた」(前掲書百七十三頁)
こうして、彼は我が国独自の道の真髄を理解し始めたのである。彼は、「神の道」の道業の中で最も特徴的なものが、「神祭り」と「神参り」だと述べ、次のように書いている。
「『祭り事』が伸びて『政治』となり、『経済』の実務も農事を始めとして、あらゆる産業や商業にまでも神祭りの行事を伴わしめ、『文化』の諸方面にも広範なる感化・影響を与えて居る」(作田荘一『神の道』十三頁) 続きを読む 作田荘一─「産霊」の経済を唱えた皇道経済論の魁

難波田春夫─わが神話に日本経済の本質を捉えた

以下は、『月刊日本』平成21年10月号に掲載された「難波田春夫」(日本文明の先駆者)です。

マックス・シェーラーと神話の知
『翼賛国民運動史』(昭和二十九年)には、小泉純一郎元首相の父小泉純也が、昭和十六年一月の衆議院予算委員会で次のように語ったと記録されている。
「革新政策の名の下に赤化思想を日本に植付けんとするコミンテルンの陰謀を十分警戒する必要がある。……後藤(隆之助)局長が多年主宰している昭和研究会は、共産主義的思想との世人の非難の故に、ついに解散のやむなきにいたつたのである。また中には一連の関係者が同志と共に入り、翼賛会の各局部を固めていることは、一種の不安をもたざるを得ない」
この発言には、大政翼賛会をめぐる、財界・資本主義擁護派、国体明徴派、統制経済派(あくまで便宜的な呼び方)の複雑な駆け引きの一端が示されている。日本主義経済学者として注目を集めていた難波田春夫は、この時代にいかなる主張を展開したのだろうか。
難波田春夫は、明治三十九年三月三十一日、兵庫県に生まれた。大阪高校に入学した大正十四年頃から、西田哲学に関心を強めていたという。昭和三年に大阪高校を卒業、東京帝国大学経済学部に入学する。初めて手にした経済学の本が、スウェーデンの経済学者グスタフ・カッセルの『理論経済学』であった。ちょうどその頃、衆議院議員の小寺謙吉の寄附をファンドとした懸賞論文の論題が「グスタフ・カッセルの理論体系について」と発表された。そこで、難波田はどうせ読むのならば、論文を書き、懸賞論文に応募しようと思い立った。彼はカッセルに関わる多数の学術論文を読破し、経済現象の全体を貫くものが市場メカニズムの論理であるという近代経済学のエッセンスを見出したのである。こうして、難波田は三百枚ほどの論文を書き上げ、見事に入選した。
二年生になって早々の昭和四年春、友人に連れられて経済原論担当の教授のところに遊びに行くと、教授は「大学に残って教授への道を歩んではどうか」と難波田を勧誘した。こうして、経済学者としての難波田の人生が始まったのである。
彼は、昭和六年三月に東京帝大を卒業、翌昭和七年に兵役についた。だが、一カ月足らずで病気になり、淡路島の病院で療養するようになる。それまで、彼は理論経済学、特に景気変動の理論を研究していたが、療養中の瞑想を契機として、資本主義経済がどのように動くかよりも、いかに導かれるべきかということが問題だと気づいたのである。
同年六月に除隊となり、八月に助手として大学に戻ると、難波田は「国家と経済」の研究に没頭した。国立大学文科系が西洋思想のヒューマニズムの思想に傾き、我が国独自の思想を阻害する傾向が強まることを憂慮し、文部省が国民精神文化研究所を設立したのは、ちょうどその頃である。むろん、難波田の研究志向は、こうした国家レベルでの思想立て直しの動きと無縁ではなかったろう。
ただし、彼が「国家と経済」という研究テーマを定める上で、見逃すことのできない人物がいた。ドイツのカトリック神学者マックス・シェーラーである。卒業する頃、難波田はドイツの経済学者・社会学者ヴェルナー・ゾンバルトの著作を読んだのがきっかけで、シェーラーに傾倒していったのである。シェーラーは、「人間とは何か、宇宙全体の中でどのような地位を占めるのか」を自らの哲学のテーマと定め、「哲学的人間学」の概念を提唱した。
経済学者として歩み始めた難波田は、唯物論と観念論の統一というシェーラーの試みに着想を得て、経済理論と経済政策の関係づけについて独自の考え方に到達した。彼は、経済理論は経済という物資的なものの世界を支配する必然性を明らかにするが、経済政策はそこへ観念的、理念的なものを持ち込むことだと捉えることができたからである。こうして、彼は必然の論理を持つ「経済」に対して、「国家」が働きかけ、その在り方を変容することができると主張した(難波田春夫『風流鈔』早稲田大学出版部、昭和五十八年、百八十一頁)。これが、昭和十三年に刊行された『国家と経済 第一巻』において提示された「変容されうる必然」という概念である。
シェーラーの「哲学的人間学」は、我が国の近代の超克論に強い影響を与えている。難波田がシェーラーの思想に着想を得て、独自の経済学を展開しつつあった頃、京都学派の高山岩男はヘーゲル研究を推進する傍ら、シェーラーの思想的影響を受けて、哲学的人間学の研究を推進していた。高山の『哲学的人間学』には、「神話」に一節が割かれている。三木清もまた、『構想力の論理』の一章を「神話」から書き始めた。
神話の知は、近代科学が排除した知である。中村雄二郎氏は「神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求で」あると言う。
まさに、高山、三木と歩調を合わせるかのように、難波田は神話の知を経済学に活かすという発想を強め、ギリシア神話や中国の古典などから国家と経済の関係を探ろうとした。その成果が、昭和十三年にまとめられた『国家と経済 第二巻』(『古典に於ける国家と経済』)である。ここで彼は、主体的人間を離脱して客観的に存在する「科学」と、「間柄」としての具体的人間を可能にする根底としての「神話」を対照し、「神話」は、情意的、行為的、全体的な人間の考察を忘れた科学の欠陥を補うために必然的に再生してきたと主張する(十七~二十一頁)。この難波田の試みこそ、近代経済学が前提とする、「利益拡大のために合理的に行動するという人間像」への根源的批判を支えるものとなっていく。 続きを読む 難波田春夫─わが神話に日本経済の本質を捉えた

安倍政権で高まる「首切り自由化」論議

本来「大御宝」であるはずの労働者を、まるで自由に使い捨てできる道具にしようとする論議が活発になってきている。小泉政権時代に労働分野への新自由主義導入が加速したが、再び安倍政権はそれを再現しようとしているのか。
特に問題なのは、社員の首切り自由化論議だ。これは、一君万民を理想とする国体を踏みにじる暴挙ではないのか。以下、『愛媛新聞』社説(2013年03月19日)を紹介する。

解雇規制の緩和  「使い捨て論理」容認できない
金さえ払えば正社員を簡単に解雇できる―そんな規制緩和の議論が始まった。
安倍晋三首相が設置した産業競争力会議で、業績悪化など「合理的な理由」がなければ正社員を解雇できないと定めた労働契約法について、民間議員が「解雇しやすいルール」への変更を提言した。 続きを読む 安倍政権で高まる「首切り自由化」論議

小沢一郎氏「安倍総理のTPP交渉への参加表明を受けて」(平成25年3月15日)

 2013年3月15日、安倍晋三首相がついにTPP交渉参加を表明した。TPP参加は国家主権の放棄であり、国体の破壊に直結する。経済界の一部の利益のために、国体を破壊するようなことは断じて許してはいけない。
 残念なことに、日本維新の会とみんなの党は自民党以上にTPPに積極的だ。こうした中で、同日生活の党代表の小沢一郎氏が明確な声明を出している。

〈本日、安倍晋三首相が環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への参加表明を行った。生活の党はかねてより、TPPが単なる自由貿易協定ではなく、日本国民の命と暮らしを脅かし、社会の仕組みの改変を迫る異質な協定であることから強く反対してきた。しかし自公政権が日本の国益を守るより、米国の言いなりになり、TPP交渉に参加表明したことは、国家百年の大計にもとる重大な誤りであり、即時撤回を強く求める。
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混合診療拡大によって、まともな医療が受けられなくなる

先端医療をテーマとしたフジテレビ連続ドラマ『ラストホープ』でも取り上げられた混合診療(保険診療と保険外診療(自費診療)の併用を認めること)。
2013年2月15日、政府の規制改革会議(議長=岡素之・住友商事相談役)が、今後取り組む59項目の検討課題を示した。ここには、労働分野の規制改革など広範な項目が並んでいるが、特に危険なのがこの「混合診療」の範囲拡大なのである。
日本医師会は、現在保険の対象となっている診療が保険外となる可能性を指摘している。
全国保険医団体連合会は「混合診療を推進する人たちの本当の狙いは、決して患者さんの選択肢を広げることではなく、本来公的医療保険で扱うべき医療の範囲を縮小し、その分を自由診療に移し変えようというもの」「保険給付の範囲がどんどん縮小され、公的保険では必要な医療まで受けられなくなる危険性があります。これでは、患者さんの選択肢を広げるどころか、逆に『今よりも選択の幅が狭まる』ことになります。 」「相次ぐ医療改悪で、ただでさえ日本の患者負担は先進国一高くなっており受診抑制が広がっています」と主張する。 続きを読む 混合診療拡大によって、まともな医療が受けられなくなる

日本維新の会は「小泉・竹中路線(新自由主義)の全面展開」だ!


日本維新の会「骨太 2013-2016」(平成24年11月29日)は、「経済・財政を賢く強くする」の中で、基本方針として次のような項目を並べている。

・公共工事を拡大するのでなく、日本の競争力を高める徹底した競争政策を実施する
・政府・自治体の予算事業を徹底して民間に開放・新規参入を促す
・保育の成長産業化
・医療・福祉の成長産業化
・自由貿易圏を拡大する=TPP交渉参加
★労働市場を流動化させる
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修験者・山本秀道の奉還思想

秘法「恵印三昧耶法」と精神障害治療
 大石凝真素美が36歳の時に弟子入りした修験者・山本秀道とは、一体いかなる人物だったのか。
 秀道は、文政10(1827)年2月16日に美濃国不破郡宮代村で正寿院秀道として生まれた。山本家は、江戸時代までは鉄塔山天上寺と称し、南宮山の一画に坊を構え、院号を正順院または正寿院と号する醍醐三法院に連なる修験の家であった。修験道は、寛政11(1799)年に光格天皇より「神変大菩薩」の諡号を受けた役行者、役小角(えんのおづの)を開祖とする。伝説によると、役小角は摂津国の箕面山の大滝で、インドの僧ナーガールジュナ(龍樹菩薩)の「大いなる法」を授けられたという。
 役小角入滅後、醍醐寺開山の聖宝・理源大師(832~909年)が、大峰山を巡歴し、霊的相承によって役小角の秘法を受け、醍醐派修験道の秘法として後世に継承したとされている。この秘法は「恵印三昧耶法」(「恵印法流」)と呼ばれ、7段階の修法によって構成されている。
 父正寿院秀詮は、83歳にして弟子数十名を率いて寒中の養老の滝に浴する事30日という強の人であった。彼は、「狂人を祈祷し至当乃道理を説得して其親祖兄弟姉妹親戚に至るまでを感伏せしめて前非を改良し将来を慎ましむ全快を得る者千有余人」と伝えられた。彼は、「山本救護所」の名称で加持祈祷による精神障害者収容施設を運営していたのである。
 「伝統治療の豊かさと危うさ:滝、祈祷、温泉、迷信」もまた、「山本救護所」に注目している。梅村貞子氏によると、秀詮が精神病治療に用いたのは、修験道の中心的修法である「加持祈祷」と、山本家内の複雑な対人関係から生み出された家族調整の手段としての「説得」であった。

 しかし、神仏分離令によって神仏習合の色合いが強い修験道は変容を迫られた。明治3(1870)年6月、鉄塔山天上寺は廃寺となり、山本家の宗教的基盤も修験道から神道へと移った。この結果、「山本救護所」の精神病治療も加持祈祷から生活上の実践へと変化した(梅村貞子「精神障害者収容施設山本救護所の歴史」『郷土研究岐阜』1976年12月、13~17頁)。
 大石凝真素美は慶応末年に秀道に弟子入りし、俵佐村の勝宮(勝神社)で、鎮魂帰神法を実践していたとされる。山本白鳥氏は、大石凝の天津金木学は秀道との霊的な共同作業として、神人合一によって成就されたと指摘している。この作業には、太玉大観と名乗る木村一助が参加していたが、途中で木村が脱落したことで、「神業」は全体として未完に終わったという(山本白鳥「大石凝翁ゆかりの地を訪ねて」(大石凝真素美全集刊行会『大石凝真素美全集 解説編』1981年)、84頁)。
 さて、秀道の思想として注目すべきは、その奉還思想である。彼は、明治17(1884)年12月、「我が所有の地所はじめ金銀財貨の類残らず大君へささげ奉ってくれ」と郡役所を通じて、県令に申し出た。これに対して、役所側は狂人のたわ言として、取り合わず放置した。その2年後の明治19(1886)年4月1日、山本家が火事になり、貴重な古文書等が失われてしまった。ところが、秀道はなんら頓着することなく、この火事を「物を私有仕り候故の天遣」と受け止めていたという(前掲81頁)。秀道は、その6年後の明治25(1892)年5月に死去している。

「投機資本主義の終焉に備えよ」『青年運動』第965・966合併号、平成24年1月15日

二〇一二年、世界は「大量破壊兵器」爆発の危機に直面するかもしれない。
ここで言う「大量破壊兵器」とは核兵器ではなく、金融分野の兵器「CDS」(クレジット・デフォルト・スワップ)のことだ。CDSとは、企業などが倒産し、借金が棒引きになるリスクに対する保証・保険を金融商品化したもの。リスクヘッジのための金融商品だが、一度CDSを売った会社が破綻すると、ドミノ倒し的に破綻の連鎖が始まり、その被害は一気に拡大する。だから、投資家のウォーレン・バフェットは、CDSを「金融版の大量破壊兵器」と呼んだのだ。
実際、二〇〇八年にアメリカ保険最大手AIGが救済されたのは、CDSの爆発を回避するためだったとも言われている。アメリカの金融機関はCDSを引き受けているために、深刻化するユーロ圏の危機がアメリカへ波及する可能性がある指摘されているのである。 続きを読む 「投機資本主義の終焉に備えよ」『青年運動』第965・966合併号、平成24年1月15日