「日本の真価」カテゴリーアーカイブ

尊皇斥覇の発火点─竹原の唐崎家と頼家

 令和4年7月、広島県竹原市を訪れた。山崎闇斎を祖とする崎門の精神を体現した唐崎赤斎(常陸介)の魂を訪ねるためだ。もう一つの目的は、頼山陽の祖先の足跡を把握すること。
 寛政5(1793)年6月、赤斎の盟友・高山彦九郎が久留米で切腹。赤斎は彦九郎 の魂を受け継いで尊皇斥覇の運動を続けたが、大きな壁にぶつかったのだろう。寛政8(1796)年11月16日、長生寺を訪れ、先祖の墓前で切腹した。動機を尋ねられた赤斎は「聊か憤激のことあり」とのみ応え、絶命したという。 まず竹原駅から市立竹原書院図書館に向かい、崎門の金本正孝氏による赤斎研究書や『唐崎常陸介資料集』などを閲覧、複写。
 次に礒宮八幡神社に向かう。もともとは建久5(1194)年、鎌倉の幕臣後藤兵衛実元が、宇佐八幡宮の分霊を後藤家の守護神として勧請し、後藤家に鎮祭したのが始まり。後藤実元の没後、地元の人々により現在地(田ノ浦一丁目6-12)の南西方面の鳳伏山麗に社殿を建てて祀ったとされる。万治元(1658)年に現在地に遷座したのが、赤斎の高祖父・唐崎正信だ。正信の息子の定信は山崎闇斎の門人である。
 生前、赤齋は尊皇斥覇の精神を鼓舞するため、境内の千引岩に、文天祥の筆になる「忠孝」ニ文字を刻した。この「忠孝」の二文字こそ、定信が闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から授けられたものだった。
 礒宮八幡神社には赤斎唐崎先生碑が建っている。題額の四文字「首向宮闕」は赤斎の遺墨。碑文は徳富蘇峰、書は上田鳩桑。
 建立されたのは昭和28年8月10日。建設者として、後に総理を務める池田勇人ら七人の名前が刻まれているが、中心人物は竹原の長老吉井章五だ。吉井のほか、崎門の内田周平翁らが関わった、建立に至るドラマについては稿を改めたい。
 礒宮八幡神社を後にし、赤斎が切腹した長生寺に赴き、墓前で赤斎の無念に思いを馳せた。

唐崎赤斎

礒宮八幡神社
礒宮八幡神社
礒宮八幡神社
礒宮八幡神社
忠孝碑(礒宮八幡神社)
忠孝碑(礒宮八幡神社)
赤斎唐崎先生碑(長生寺)
赤斎唐崎先生碑(長生寺)
長生寺
長生寺
庚申堂(長生寺)
庚申堂(長生寺)
唐崎赤斎墓
唐崎赤斎墓

尾張藩垂加神道派・近松茂矩と橘家神道秘伝(松本丘編『橘家神道未公開資料集 一』収録の『橘家神道口傳抄』)

この度、皇學館大學教授の松本丘先生が編まれた『橘家神道未公開資料集 一』(神道資料叢刊 十八、令和四年三月)を贈呈していただいた。誠に有難うございます。
筆者は崎門学研究会代表の折本龍則氏、同副代表の小野耕資氏とともに崎門学、垂加神道の勉強を続けてきたが、『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』執筆過程で、尾張藩の垂加神道派にも強い関心を持つようになった。
尾張藩初代藩主・徳川義直の遺訓「王命に依って催さるる事」は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。
松本丘編『橘家神道未公開資料集 一』

近松茂矩は、長沼流を皆伝した後、橘家神道に継承された秘伝を取り入れて、独自の流派「一全流」を創始していた。
今回、松本先生が編まれた『橘家神道未公開資料集 一』には、名古屋市蓬左文庫所蔵の『橘家神道口傳抄』が収められている。松本先生の解題にある通り、同書は玉木葦斎の講述、吉見幸和筆記に係る。安永四年に吉見が上京した際に、葦斎から伝授された橘家神道秘伝である。さらに、松本先生は次のように指摘されている。
本文と同筆の書入に「茂矩」の名が見えてをり、幸和門人で兵学者としても知られた近松茂矩の筆写に係るものと考へられる。尾張徳川家家令であつた鈴木信吉氏の旧蔵書である」(解題五頁)
茂矩が橘家神道の秘伝を伝授されていたことが窺われる。

拳骨拓史氏が『兵学思想入門』で引いているように、近松は『神国武道弁』で「所謂神道は武道の根なり。武道の本は神道なり。道に二つなし」と述べていた。そんな近松が、橘家神道の秘伝を伝えられていた敬公の『軍書合鑑』の真価を見抜いたのは決して偶然ではない。近松は『昔咄』において次のように書いていたのである。
「軍書合鑑は、寛永年間の御撰述の由、是又本朝にて、軍術正伝の書の最第一と称せん、故いかなれば、凡そ神代相承の軍術は、神武天皇より代々の天皇、天津日嗣の時に、三種の神器と同じく、御相伝ありし、但し敏達天皇慮有りて、其神伝軍術をば、難波親王へ御伝受あづけられて、親王の御子孫代々伝へて、守り奉るべき勅令にて、橘家代々受けあづかり奉りて、三十四代相承し、唯授一人として、他へみだりに、伝ふる事なし」
さらに近松は、「付会をなして、何流と称する軍師」たちを批判した上で、「天下の兵法を立てた」として長沼澹斎を称え、さらに次のように述べている。
「源敬(敬公)様此御選ありて、終に依王命被催に、筆を停め給ふ、これよく本朝神武の道を得させられし事、言はずして明白なり、故に予恐れながら、本朝正兵伝書編述の根元なりと、称し奉りぬ」
このように近松は、敬公が本朝神武の道を極めていたことを示すものとして「王命に依って催さるる事」をとらえ、尾張尊皇思想を力強く継承せんとしたのだった。

坪内隆彦「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」(『宗教問題』36号、令和3年11月30日発売)

以下、『宗教問題』(36号、令和3年11月30日発売)に掲載していただいた「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」を紹介する。

■尾張藩尊皇思想の起点─「王命に依って催さるる事」
尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)が編纂した兵法書『軍書合鑑(ぐんしょごうかん)』の末尾には、「王命に依って催さるる事」の一語が記されている。尾張藩尊皇思想の起点となったこの遺訓は、歴代の藩主にだけ口伝で伝えられてきたが、第四代藩主・吉通の時代に明文化への道が開かれた。病にあった吉通は、跡継ぎの五郎太が未だ幼少だったため、遺訓の内容を侍臣の近松茂矩(しげのり)に伝え、後に残そうとしたからである。近松は明和元(一七六四)年に『円覚院様御伝(えんかくいんさまごでん)十五ヶ条』を著し、「王命に依って催さるる事」について、「いかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と記した。
一方、『円覚院様御伝十五ヶ条』が書かれた十四年後の安永七(一七七八)年、水戸藩では第六代藩主・治保(はるもり)(文公)が、第二第藩主・光圀(義公)が遺した一句「古謂ふ君以て君たらずと雖も、臣臣たらざる可からず」を楷書で浄写し、義公の精神を復興させようとした。名越時正は、この一句にある絶対の忠が「朝廷と幕府との間に、万一どのやうな不祥な事態が起らうとも、我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし、といふ重大な意味を有することを感得した文公が、やがてこれを長子武公(第七代藩主・治紀)に伝へたに相違ない」と述べている。水戸においてもまた、義公遺訓は「朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」との趣旨として、文公から武公へ、武公から斉昭(烈公)へ、そして烈公から慶喜へと伝えられた。青山延于(のぶゆき)が編修した『武公遺事』には、武公が烈公に対して「何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては、不義の事なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじ」と語っていたことが記録されている。
実は、尾張藩における尊皇思想の継承は垂加神道、そして兵学思想と密接な関係を持っていた。敬公の遺訓を復興させた吉通とそれを明文化した近松茂矩は、ともに垂加神道を学んでいたのだ。しかも、吉通は長沼流兵学を好んだという。長沼流を創設した長沼澹斎(たんさい)(宗敬(むねよし))は、甲州流などの兵法を学んだ後、寛文(一六六六)年に『兵要録』を著し、長沼流兵法を創始した。近松もまた長沼流を皆伝しており、さらに幕末の尾張藩で活躍した徳川慶勝の側近・長谷川敬もまた長沼流を継承していた。『兵要録』には、「仮にも不義非道の弓矢をとらざれ」という言葉が記されている。これは『円覚院様御伝十五ヶ条』にある「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と見事に符合しており、近松の尊皇思想が兵学思想によって補強されていたことが窺えるのである(詳しくは拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』望楠書房)。
そして、垂加神道の尊皇思想、特に皇統守護の精神を兵学思想によって補強した人物が、今回紹介する玉木葦斎(いさい)(正英)である。寛文十(一六七一)年に生まれた葦斎は、元禄四(一六九一)年に闇斎の門人・出雲路信直に入門、さらに正徳三(一七一三)年に同じく闇斎の門人・正親町公通の門に入って垂加神道を修めた。葦斎は正徳五年には、公通から闇斎の『中臣祓風水草』の伝授を受けている。葦斎は垂加神道の継承者としての自覚を持ちつつも、同時に橘家(きっけ)神道を継承し、その発展に力を尽くすことを優先したように見える。
ただ、谷省吾は、「二つの神道(垂加神道と橘家神道=引用者)を併行して学びはじめた彼の神学的思索の過程においては、二つの神道が一つの人格・頭脳の中で、分ちがたく重なりあつてゐたことは当然である。……葦斎といふ一個のすぐれた坩堝の中で、両神道の所伝が燃焼されて、新しい綜合が行はれたことは確かである」と述べている(『垂加神道の成立と展開』)。

玉木葦斎墓 続きを読む 坪内隆彦「皇統守護の精神を支えた兵学思想─玉木葦斎の橘家神道」(『宗教問題』36号、令和3年11月30日発売)

坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一 大御心を拝して』書評(『史』令和4年3月号)

拙著『水戸学で固めた男・渋沢栄一 大御心を拝して』の書評を『史』令和4年3月号に掲載していただきました。
〈2021年の大河ドラマにもなった新一万円札の顔、渋沢栄一。彼にかぶせられたキャッチフレーズは「日本資本主義の父」。だがこの称号は渋沢の本質を表しているだろうか?『徳川慶喜公伝』に心血を注いだ渋沢はむしろ「水戸学で固めた男」ではなかったか? そして渋沢の経済活動は国民生活を安定させ、国家社会の利益を考えてのことであった。自己利益ばかり考える企業家を批判し生活保護法の実施に尽力するさまは、まさに経世済民の思想家としての渋沢像であり、それはいままで触れられてこなかった新しい渋沢像である〉
『水戸学で固めた男・渋沢栄一』書評 (『史』2022年3月号

『水戸学で固めた男・渋沢栄一』まえがき

坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一─大御心を拝して』(望楠書房、令和3年9月)
坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一─大御心を拝して』(望楠書房、令和3年9月

〈渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれている。しかし、そうしたとらえ方では彼の本質は見えてこない。渋沢を「水戸学で固めた男」ととらえることによって、大御心を拝し、聖恩に報いようとして生きた彼の真価が浮き彫りになる。それによって、戦後否定的にとらえられてきた水戸学の真髄も理解されるのではないか。
確かに、渋沢が五百もの企業育成に関与した事実だけに注目すれば、渋沢を「日本資本主義の父」と呼べないことはないだろう。しかし、渋沢は同時に六百もの社会事業に関わっていた。その双方に目を向ければ、彼を「日本経済社会の父」と呼ぶ方が適切だろう。実際、かつては『日本の近代を築いた人』、『近代日本社会の創造者』といったタイトルの渋沢本も刊行されていたが、近年は「日本資本主義の父」が定着したように見える。
しかし、渋沢栄一記念財団が運営する渋沢史料館の井上潤館長は「渋沢本人は『資本主義』という言葉をほとんど使いませんでした。『資本主義の父』と言われていますが、本人が生きていれば『俺は違う』と言うでしょうね」と語っている(『毎日新聞』令和三年九月十八日付)。
では、なぜ渋沢は「水戸学で固めた男」なのか。彼の生涯を振り返れば、水戸学信奉と密接に関わる言動の連続だったことが窺えるからだ。若き日の渋沢は、水戸学の國體思想を体現しようとする尊攘の志士だった。そして、最晩年に渋沢が書いた『論語講義』では、水戸学の代表的学者・会沢正志斎の『新論』を彷彿とされる堂々たる國體論が展開されている。「渋沢が水戸学を信奉していたのは若い頃だけだ」という誤解があるが、決してそうではない。終生彼は水戸学を信奉していたのである。
渋沢が四半世紀の歳月を費やして『徳川慶喜公伝』の刊行に心血を注いだのも、慶喜の行動に、水戸光圀(義公)以来の尊皇思想継承の尊さを実感したからに違いない。
渋沢は藤田東湖歿後七十年に当たる大正十一(一九二二)年十一月に開催された記念会では、東湖の『回天詩史』の一節を吟じている。この記念会では、渋沢が所蔵していた「水戸家の秘訓」(公武相合はさる時は寧ろ弓を宗家たる徳川幕府に挽くも朝廷の為粉身すべき旨)が展覧されている。彼がそれを所蔵していた事実は、義公の尊皇思想継承に彼がいかに深い感動を覚えていたかを物語っている。
筆者は、五十年以上も養育院の運営に携わったことをはじめ、渋沢の社会事業への献身を支えていたのは、大御心を拝しそれに応え奉らんとする彼の覚悟であったと思う。
渋沢は常に大御心を拝し、国家の存続と国民生活の安定に寄与するために、自分ができることをやろうとしたのではないか。生活保護法の前身である救護法実施のために命をかけた渋沢を支えていたのは、大御心に応えんとする情熱だった。
また、「右翼の巨頭」と呼ばれた頭山満らの愛国陣営や蓮沼門三が主導した修養団などとの関係は、渋沢の愛国思想、尊皇思想を示しているようにも見える。渋沢の経済的活動も、水戸学の視点から見直すべきである。本書では、「水戸学で固めた男」として渋沢の人生を描き直してみたい。

『水戸学で固めた男・渋沢栄一』目次

坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一─大御心を拝して』(望楠書房、令和3年9月)
坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一─大御心を拝して』(望楠書房、令和3年9月

渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれている。しかし、そうしたとらえ方では彼の本質は見えてこない。渋沢を「水戸学で固めた男」ととらえることによって、大御心を拝し、聖恩に報いようとして生きた彼の真価が浮き彫りになる。それによって、戦後否定的にとらえられてきた水戸学の真髄も理解されるのではないか。

第一章 水戸学國體思想を守り抜く
 第一節 渋沢は終生水戸学を信奉していた
  碑文に刻まれた「藍香翁、水藩尊攘の説を喜ぶ」
  『論語講義』に示された水戸学國體思想
  國體の内実=蒼生安寧(国民生活の安定)
  藤田東湖の三度の決死
  東湖の魂を語り継いだ渋沢
  わが国史の法則─政権を壟断する者は必ず倒れる
  福沢諭吉 vs. 渋沢栄一─楠公をめぐる新旧一万円札の対決
  「真の攘夷家」と呼ばれた若き日の渋沢
  「深谷の吉田松陰」・桃井可堂
  渋沢の覚悟─斃れた先人の魂を継ぐ
  「教育勅語の聖旨を奉体し、至誠もって君国に報ゆべし」
 「志士仁人は身を殺して仁を成す」
 第二節 『慶喜公伝』編纂を支えた情熱─義公尊皇思想の継承
  四半世紀を費やした大プロジェクト
  知られざる水戸と尾張の連携
  義公遺訓継承のドラマ─「我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし」
  「自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません」
  沈黙を続けた慶喜
  義公や烈公の遺墨・遺品をご覧になった明治天皇
  明治天皇に三十年五カ月ぶりに謁見した慶喜
  大正天皇の勅語─「恭順綏撫以テ王政ノ復古ニ資ス 其ノ志洵ニ嘉スへシ」
  義公遺訓なき慶喜論の空疎
  慶喜の家臣としての誇りを抱きしめて
  渋沢は陽明学を信奉していたのか
第二章 大御心を拝して
 第一節 救護法(生活保護法)実施に命をかける
  人民の苦楽を直ちに御自身の苦楽となす大御心
  戊申詔書と済生勅語
  養育院長として三回にわたり皇后陛下に拝謁
  「救護法のために斃れるのは本望です」
  生活保護法廃止を唱える新自由主義者たち
  先帝陛下最後の訪問先・滝乃川学園
 第二節 愛国団体と渋沢
  渋沢が愛国団体に関与した理由
  渋沢と「右翼の巨頭」・頭山満
  蓮沼門三の修養団を全面支援した渋沢
  水戸学と蓮沼門三の國體思想と水戸学
第三章 水戸学によって読み解く産業人・渋沢
 第一節 水戸学の愛民思想と渋沢
  新自由主義者・田口卯吉との対決
  養育院を存続させた渋沢の建議
  経済的自由よりも国家を優先
  私利を優先する実業家を厳しく批判した渋沢
  領民を救った水戸藩の政策を実践した渋沢
  義公による愛民の政治
  幽谷と正志斎の愛民思想
  渋沢の心に刻み込まれた水戸藩の愛民政治
 第二節 「功利なき道義」と「道義なき功利」を共に排す
  富国論を唱え、功利を肯定した水戸学
  貨殖富裕を賎視した朱子学に対する渋沢の批判
あとがき

隅田公園の碑が示す水戸の尊皇思想

 令和3年3月13日、嵐の中を大アジア研究会代表の小野耕資氏とともに、墨田区向島の隅田公園に赴きました。ここは、水戸藩の小梅藩邸(下屋敷)があった場所です。隅田公園には、水戸藩の尊皇思想を示すいくつかの碑が建っています。
 文政12(1829)年、徳川斉昭(烈公)が水戸藩第9代藩主に就任しました。烈公から絶大な信用を得ていた藤田東湖は、天保11(1840)年には側用人となり、藩政改革に当たりました。
 しかし、弘化元(1844)年5月、烈公は隠居謹慎処分を受け、東湖も失脚します。小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪されました。翌弘化2(1845)年2月には幽閉のまま小梅邸に移ったのです。この幽閉時代に東湖が作ったのが、漢詩「文天祥正気の歌に和す」(正気の歌)です。
 「正大の気、粋然として神州にあつまる。秀でては富士の獄となり、巍巍として千秋そびゆ。注ぎては大永の水となり、洋洋として八州をめぐる。発しては万朶(ばんだ)の桜となり衆芳ともにたぐいなし……」
 東湖は安政2(1855)年10月に発生した大地震に遭い亡くなりますが、正気の歌は幕末の志士を鼓舞し、明治維新の原動力となりました。

「天地正大気」の漢詩碑(隅田公園)
 水戸学の土台となったのは、徳川光圀(義公)以来の尊皇思想です。義公遺訓は、第6代藩主・治保(文公)から第7代藩主・治紀(武公)に伝えられ、さらに武公から烈公に伝えられ、さらに烈公から慶喜に伝えられました。義公遺訓は、慶喜の異母弟・徳川昭武にも伝えられていたと思われます。 続きを読む 隅田公園の碑が示す水戸の尊皇思想

渋沢栄一と水戸学①─水戸学派・尾高惇忠(藍香)の感化

 渋沢栄一の「論語と算盤」は良く知られていますが、渋沢の水戸学への傾倒や尊皇攘夷思想については、それほど知られてはいないようです。
 渋沢は、早くも5歳の頃から、父・市郎右衛門元助の指導で漢籍を学び、7歳の時には従兄の尾高惇忠(藍香)のもとに通って四書五経や日本外史を学んでいました。渋沢が藍香とその弟・長七郎から受けた影響は大きかったようで、例えば『渋沢栄一伝稿本』には、次のように書かれています。
 「先生をして更に憂国の志士たらしめしものは、尾高藍香と尾高長七郎となりき、藍香幼より文武に志し、早くより郷党の間に重んぜられしが、天保十二年徳川斉昭が水戸城外なる仙波ケ原に追鳥狩を催し、大に兵を練り武を講ずるや、藍香父に伴はれて之を参観し、いたく其勇壮なるを喜ぶと共に、いつしか水戸の士風を慕ふに至り、長ずるに及びて藤田東湖の弘道館記述義、常陸帯、会沢憩斎の新論等を愛読して、ますます其感化を受けたり」(『渋沢栄一伝稿本』)
尾高惇忠

 一方、三島中洲門下の山田準は、「儒学と青淵先生」と題して次のように述べています。
 「先生は又た王陽明の人物と学風に深き帰嚮も有つて居られる、其淵源は藍香翁から来て居るのではあるまいか。翁は水戸派の学問を修め一生愛読して傍から離さなかつた書は、常陸帯と新論と、王陽明の全集であつたと伝へられて居る。されば其感化が先生に及んだことは推知さるゝが、陽明の良知実行主義と簡易直截な学風とは、必ずや先生の心に契合する所があつたであらう」(『竜門雑誌』第481号、昭和3年10月)
 この山田準の文章からは、水戸学とともに陽明学の影響も窺えます。渋沢自身は、大正13(1924)年10月に開かれた東湖会で、次のように述べています。
 「水戸学が徳川幕府の末路に当りて国家の機運を作興して王政の復古を翼けたことは、今日更めて私の喋々を俟たぬのであります。而して水戸学の起源は水戸藩祖の尊王心より胚胎せられたものであつて、単に東湖先生のみを以て水戸学を論ずる訳には行きますまい。けれども天保以降嘉永・安政の頃に東湖先生が水戸に於て大義名分を唱道して皇室に対する幕府の態度に深い注意を払はれたことは、種々なる歴史が証明して居ります。惟ふに水戸は藩祖の威義二公、又は維新前には烈公等の各名臣が在らせられて、追々に其の御家風を発揚されたのであります。殊に外国関係の起つて以来、我が東湖先生は別して此点に注意されて、朝幕の間に在つて所謂大義名分を明にすることに力を尽されたお人と私は確信して居ります」(川崎巳之太郎編『東湖会講演集』大正13年10月刊)
 ただ、渋沢が尊攘思想を固めたのは、安政の大獄や桜田門外の変を経た文久元(1861)年に、江戸に出て、北辰一刀流の千葉道三郎の道場に入門し、剣術修行のかたわら勤皇志士と交わるようになってからのようです。幸田露伴は『渋沢栄一』で、「栄一は……千葉道三郎の門に入り、型の如く文武両道を受けたが、その受けたものはこれ等の先生の学問技術よりも、むしろその先生の周囲に群れていた時代青年等の雄偉峻烈なる意気の方が大きなものであった」と述べています。
 尊攘思想に目覚めた渋沢は、文久3(1863)年には、惇忠や、同じく従兄の渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにするという計画を立てています。明治45年2月に、その時のことを渋沢は次のように振り返っています。
 「丁度忘れも致しませぬ文久三年の亥年です、私が数へ年二十四の時、どうも堪らなくなつて一つ一揆を起さうと云ふ企てを致したのであります。今考へるとそれは余程乱暴なのです。……其時自身等はどうも前のやうな事にては手温い、気の毒ではあるが外国人をエライ目に合せてやるが宜い、外国人に罪があるか無いか知らぬが、何しろ日本は弱いから窘めやうと云ふだけではある、而してこれに対して偸安姑息の幕吏が悪い、併し悪いけれども直ちに江戸に兵を挙げると云ふ事は出来ないから、先づ百姓一揆を起して、さうして近所の一城を屠つて、それから横浜に押し出す、さうして横浜を焼打をする、焼討が出来れば国家は混乱になる、そこで徳川氏は維持が出来なくなる、其間には自分等の義挙を賞讚して諸侯が応ずるかも知れぬ、もし諸侯の応ずるまでに至らぬで己れは陳勝・呉広となつて倒れるかも知れぬが、必ず後に次ぐものがあるに相違ない、故に成功すれば素より幸福であるが、又倒れても尚且つ本望である」(「陽明学と身上話」『陽明学』第40号、明治45年2月)
 ただ、この計画に対しては尾高長七郎が強く反対し、大激論の末、計画は中止されました。

大アジア研究会代表・小野耕資氏の新作『大和魂の精神史』(望楠書房)、予約開始!

〈かつて日本人は清らかで美しかった。
かつて日本人は親切でこころ豊かだった。
日本人は美しい国土のもと、土着文化と共同体の中で暮らしを営んできた。美しい風土、美しい人情、美しい人々、それこそが日本のあるべき姿であった。
それがいまや、経済発展の美名のもと、国土は荒れ、人々はバラバラにされ、山河は失われている。それは、日本が失われているということだ。
いったいどうしてこんなことになってしまったのか。戦後のGHQによる日本弱体化政策の影響はあるだろう。だが、それだけではない。日本人自身が西洋化、近代化する過程の中でそうした誇りを見失っていった側面があったのだ。それは國體観の不在であり、国家観の不在である。経済力や軍事力といった国力にばかり目が向き、真に守るべき自然や文化、人々のつながりに目が向かなくなってしまった。いわば、国力重視の「政府主義」はあっても國體中心の「大和魂」がなかったのである。いままで両者は混然一体のものとして捉えられてきたが、分けて考えられるべきではないだろうか。
戦前戦後、大和魂を胸に抱き、現代の惨状に警鐘を鳴らす論考はさまざまな人物によって唱えられてきた。本書は、それらを参照しつつ、現代に求められる大和魂について論じていくものである。〉

小野耕資『大和魂の精神史』(望楠書房)

《目次》

はじめに
1 地理と日本精神 ―経済成長、国益、ナショナリズムに回収されない日本精神―
2 国粋主義の精神 ―「数値化できない国益」を追求する日本精神―
3 陸羯南の国家的社会主義
4 明治における忠臣蔵 ―福本日南と浅野長勲が掘り起こした忠臣義士の物語―
5 岡倉天心と霊性
6 儒学と日本精神
コラム 書評『歴史にとって美とは何か 宿命に殉じた者たち』(井尻千男)
7 澁川春海の尊皇思想
8 東洋の経済と西洋のエコノミー ―田崎仁義の皇道経済論―
9 アジア主義とは何か
10 橘孝三郎と柳宗悦 ―霊性と日本精神―
11 伊藤野枝と権藤誠子
12 渥美勝の「神政維新」論
13 蓑田胸喜の政治思想 ―国家は改造できない―
14 保田與重郎の『絶対平和論』を読む
コラム 書評『天皇とプロレタリア』(里見岸雄)
15 「神の目線」に立つな ―中島岳志『保守と大東亜戦争』批判―
16 官治・都市・成長の欺瞞と山河・民族・ふるさとの復活
17 皇室中心の政治論
18 伝統と信仰
19 平泉澄の歴史観
20 本土決戦と自主防衛 ―日本の針路を問う前に―
あとがき

徳川慶喜が伊藤博文に明かした水戸藩の遺訓継承

令和2年8月に『日本』(日本学協会発行)編集長の安見隆雄先生から、「水戸学と尾張学」というテーマで執筆する機会を頂戴いたしました。拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩』を上梓したのをきっかけです。ところが、同年11月拙稿提出後、年が明けて安見先生が急逝したことを知りました。非常に大きなショックを受けるとともに、残念でなりません。心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
 私が安見先生のご依頼に応え「知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩」と題して書かせていただいた原稿の結論は、尾張・水戸両藩における尊皇思想継承が一本の線でつながっているように見えるというものです。
 尾張藩初代藩主・義直の遺訓「王命に依って催さるる事」の継承と、義公以来の尊皇思想の継承とが連動していたのではないかとの仮説です。一つだけ例を挙げれば、水戸においては、義公の遺訓は第6代藩主・治保(文公)に継承され、さらに文公から第7代藩主・治紀(武公)に継承されましたが、『武公遺事』には「我等は将軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなば、少(いささか)も将軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり」と書かれています。
 この表現から直ちに想起されるのが、尾張藩における「王命に依って催さるる事」の継承です。尾張藩第4代藩主・吉通に仕えた近松茂矩が著した『円覚院様御伝十五ヶ条』には、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と書かれています。
 この表現の一致にとどまらず、水戸と尾張が尊皇思想の継承・展開で協力していたことを窺わせる事実もあります。

 さて、水戸藩における義公の遺訓継承を調べていた際に出会ったのが、渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』です。渋沢が、かつて仕えた慶喜(江戸幕府最後の将軍)の伝記編纂を志したのは、明治26(1893)年頃とされています。明治維新に際して、慶喜がどのような考えで動いたのか、その真意を正しく後世に伝えたいという、熱い思いによるものでした。渋沢は、四半世紀もの歳月を費やして、ついに大正7(1918)年、『徳川慶喜公伝』全8巻を刊行しました。その第4巻には、義公の尊皇思想継承を伝える重大な記述があるのです。
徳川慶喜

 〈明治34年の頃、私、渋沢栄一が大磯から帰る汽車の中で、伊藤博文公爵と出会ったとき、伊藤公爵が次のような話をされました。
「渋沢さんはいつも徳川慶喜公を誉めたたえておられますが、私は立派な大名の一人くらいに思っておりましたが、今はじめて慶喜公という方は普通の人でない非常に優れた立派な方であると言うことを知りました」
 伊藤公は、なかなか人を信用し認めない方であるのに、いまこのように話されるのは、と疑問に思ったので、「なぜですか?」とたずねました所、「一昨夜、有栖川宮家で、スペインの王族の方を迎えて晩餐会があり、慶喜公も私も相客に招かれ、宴会が終わってお客が帰られた後、私は慶喜公に『維新のはじめに貴方が尊王というものを大事に考えられたのは、どのような動機からですか?』とたずねたところ、慶喜公は迷惑そうに『自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません。ご承知のように水戸は義公の時代から皇室を尊ぶということをすべての基準にしてまいりました。私の父、斉昭も同様の志しを貫いておりまして、常々の教えも、我らは三家(水戸藩・尾張藩・紀伊藩)三卿(田安家・一橋家・清水家)の一つとして、幕府をお助けすることは勿論でありますが、これから後、朝廷と徳川本家との間で争いが起きて、戦争でもするような大変なことにもならないとも限らないが、そのような場合には、水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである。もしもの時のためにお前に言っておく。と教えられてきました。しかし、幼いときは、それほど大事な事とは考えていませんでしたが、二十に成り、(安政4年・1857)小石川の水戸家の屋敷に参りましたとき、父、斉昭は姿勢を正して、現在は黒船が来たりして大変な時代に成っている。この後、世の中はどのように変わって行くか分からない、お前も20歳になったのであるから、先祖から代々教え継がれて来た水戸家の家訓を忘れるではないぞ。と言われました。この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまででございます』と慶喜公は答えられました。
 本当に奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は本当に偉大な方です。と伊藤公が言われました。私は後に慶喜公にお会いした時に、このことを尋ねましたら、「そのような事があったなあ」とおっしゃいました〉(常磐神社社務所HP現代語訳)
 水戸では、この慶喜の発言を、水戸学の本義に関する重大事として重視し、慶喜に至る水戸藩における遺訓継承が探求されてきました。例えば、名越時正先生は昭和62年10月に『水戸史学』に書いた「徳川慶喜の大政奉還と義公の遺訓」(『水戸学の達成と展開』所収)で詳述しています。
 水戸藩と尾張藩でともに継承された遺訓「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」が、明治維新成就においていかに重要な役割を果たしのたかを、改めて考えるべきだと思います。渋沢と水戸学との関係については、別の機会に書きたいと思います。