1941年に南満洲鉄道東亜経済調査局がまとめた『アラビヤ地域と欧洲勢力』は次のように指摘していた。
「サイクス・ピコー協定が実現するとすれば、アラビヤ人の立場からは、第一に民族運動の眼目とする統一事業と全然反対の現象を生じ、アラビヤ地域はいくつかの障壁によつて仕切られる事となる。第二に、この協定に於いて英仏二国がアラビヤ人の国家の成立を認めんとする地帯は人口稀薄、土地磽确、甚しきは砂漠地帯であつて、文化の程度も一般に低いのである。之に反してシリヤの北部海岸地帯、イラークの平原地帯の如く物資豊富にして、彼等の文化の最も進んだ地方は、それぞれ、英仏二国が其の任意なる支配を行はんとするのであつて、此はアラビヤ人側から見れば最も本末転倒の処置としなければならぬものであつた。即ち成年者を小学校に入れ、幼童を社会の第一線に立たしめるのと同様であるとするのである。第三にアラビヤ人の最も痛憤するのは英国の信義を欠く振舞であつた。フサインの如き、かゝる協定の結ばれつゝあることを全然知らされて居なかつた。啻に知らされなかつたのみでなく、若し暴露したならば、彼が直ちに英国との盟約を破棄すべき事を恐れて故意に隠蔽されてあつた」
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イスラム世界独立に共感していた日本人─匝瑳胤次『歴史は転換す』
戦前、イギリスなどの列強支配に喘いでいたイスラム世界では、独立の機運が盛り上がっていた。その時、多くの日本人が独立回復を目指すイスラム世界に対する共感を抱いていた。例えば、海軍少将を務めた匝瑳胤次は昭和17年に著した『歴史は転換す』で「回教民族の反英抗争」の一節を割き、次のように書いていた。
〈ドイツのバルカン電撃戦の成功につれて、アラビヤ半島の一角イラクに反英抗争の烽火が掲げられた。
イラクは世界大戦後イギリスのお手盛りによつて成立した王国ではあるが、曾ては英国の三C政策(カルカツタ─カイロ─ケープタウンを繋ぐ印度保障政策)とドイツの三B政策(ベルリン─ビザンチン─バグダツドを連ねてぺルシヤ湾進出への世界政策)とが鎬を削つたところであつた。即ち英国が一八三四年トルコからユーフラチス河の航行権を獲得すると、ドイツはトルコを動かしてバグダツド鉄道の布設権を獲、コニヤ(トルコの中部都市)からバグダツドを経てバスラ(南端ペルシヤ湾に臨んた都市)に至る約二千四百粁の鉄道布設に着手した。これには英国も一大恐慌を起したが、世界大戦が起るや、英国は印度より兵を進めて遂にトルコと共にバグダツドを占領したのである。
イラクの住民たるアラビヤ人は、此の機会にトルコの露絆を脱せんとして独立運動を起し、一九二〇年八月セーブル条約で、国際聯盟保護下に一独立国となつたのであるが実質的には英国の委任統治領であつた。 続きを読む イスラム世界独立に共感していた日本人─匝瑳胤次『歴史は転換す』