坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一─大御心を拝して』(望楠書房、令和3年9月)
〈渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれている。しかし、そうしたとらえ方では彼の本質は見えてこない。渋沢を「水戸学で固めた男」ととらえることによって、大御心を拝し、聖恩に報いようとして生きた彼の真価が浮き彫りになる。それによって、戦後否定的にとらえられてきた水戸学の真髄も理解されるのではないか。
確かに、渋沢が五百もの企業育成に関与した事実だけに注目すれば、渋沢を「日本資本主義の父」と呼べないことはないだろう。しかし、渋沢は同時に六百もの社会事業に関わっていた。その双方に目を向ければ、彼を「日本経済社会の父」と呼ぶ方が適切だろう。実際、かつては『日本の近代を築いた人』、『近代日本社会の創造者』といったタイトルの渋沢本も刊行されていたが、近年は「日本資本主義の父」が定着したように見える。
しかし、渋沢栄一記念財団が運営する渋沢史料館の井上潤館長は「渋沢本人は『資本主義』という言葉をほとんど使いませんでした。『資本主義の父』と言われていますが、本人が生きていれば『俺は違う』と言うでしょうね」と語っている(『毎日新聞』令和三年九月十八日付)。
では、なぜ渋沢は「水戸学で固めた男」なのか。彼の生涯を振り返れば、水戸学信奉と密接に関わる言動の連続だったことが窺えるからだ。若き日の渋沢は、水戸学の國體思想を体現しようとする尊攘の志士だった。そして、最晩年に渋沢が書いた『論語講義』では、水戸学の代表的学者・会沢正志斎の『新論』を彷彿とされる堂々たる國體論が展開されている。「渋沢が水戸学を信奉していたのは若い頃だけだ」という誤解があるが、決してそうではない。終生彼は水戸学を信奉していたのである。
渋沢が四半世紀の歳月を費やして『徳川慶喜公伝』の刊行に心血を注いだのも、慶喜の行動に、水戸光圀(義公)以来の尊皇思想継承の尊さを実感したからに違いない。
渋沢は藤田東湖歿後七十年に当たる大正十一(一九二二)年十一月に開催された記念会では、東湖の『回天詩史』の一節を吟じている。この記念会では、渋沢が所蔵していた「水戸家の秘訓」(公武相合はさる時は寧ろ弓を宗家たる徳川幕府に挽くも朝廷の為粉身すべき旨)が展覧されている。彼がそれを所蔵していた事実は、義公の尊皇思想継承に彼がいかに深い感動を覚えていたかを物語っている。
筆者は、五十年以上も養育院の運営に携わったことをはじめ、渋沢の社会事業への献身を支えていたのは、大御心を拝しそれに応え奉らんとする彼の覚悟であったと思う。
渋沢は常に大御心を拝し、国家の存続と国民生活の安定に寄与するために、自分ができることをやろうとしたのではないか。生活保護法の前身である救護法実施のために命をかけた渋沢を支えていたのは、大御心に応えんとする情熱だった。
また、「右翼の巨頭」と呼ばれた頭山満らの愛国陣営や蓮沼門三が主導した修養団などとの関係は、渋沢の愛国思想、尊皇思想を示しているようにも見える。渋沢の経済的活動も、水戸学の視点から見直すべきである。本書では、「水戸学で固めた男」として渋沢の人生を描き直してみたい。〉
坪内隆彦『水戸学で固めた男・渋沢栄一─大御心を拝して』(望楠書房、令和3年9月)
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渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれている。しかし、そうしたとらえ方では彼の本質は見えてこない。渋沢を「水戸学で固めた男」ととらえることによって、大御心を拝し、聖恩に報いようとして生きた彼の真価が浮き彫りになる。それによって、戦後否定的にとらえられてきた水戸学の真髄も理解されるのではないか。
第一章 水戸学國體思想を守り抜く
第一節 渋沢は終生水戸学を信奉していた
碑文に刻まれた「藍香翁、水藩尊攘の説を喜ぶ」
『論語講義』に示された水戸学國體思想
國體の内実=蒼生安寧(国民生活の安定)
藤田東湖の三度の決死
東湖の魂を語り継いだ渋沢
わが国史の法則─政権を壟断する者は必ず倒れる
福沢諭吉 vs. 渋沢栄一─楠公をめぐる新旧一万円札の対決
「真の攘夷家」と呼ばれた若き日の渋沢
「深谷の吉田松陰」・桃井可堂
渋沢の覚悟─斃れた先人の魂を継ぐ
「教育勅語の聖旨を奉体し、至誠もって君国に報ゆべし」
「志士仁人は身を殺して仁を成す」
第二節 『慶喜公伝』編纂を支えた情熱─義公尊皇思想の継承
四半世紀を費やした大プロジェクト
知られざる水戸と尾張の連携
義公遺訓継承のドラマ─「我が主君たる天皇には絶対随順の至誠を尽すべし」
「自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません」
沈黙を続けた慶喜
義公や烈公の遺墨・遺品をご覧になった明治天皇
明治天皇に三十年五カ月ぶりに謁見した慶喜
大正天皇の勅語─「恭順綏撫以テ王政ノ復古ニ資ス 其ノ志洵ニ嘉スへシ」
義公遺訓なき慶喜論の空疎
慶喜の家臣としての誇りを抱きしめて
渋沢は陽明学を信奉していたのか
第二章 大御心を拝して
第一節 救護法(生活保護法)実施に命をかける
人民の苦楽を直ちに御自身の苦楽となす大御心
戊申詔書と済生勅語
養育院長として三回にわたり皇后陛下に拝謁
「救護法のために斃れるのは本望です」
生活保護法廃止を唱える新自由主義者たち
先帝陛下最後の訪問先・滝乃川学園
第二節 愛国団体と渋沢
渋沢が愛国団体に関与した理由
渋沢と「右翼の巨頭」・頭山満
蓮沼門三の修養団を全面支援した渋沢
水戸学と蓮沼門三の國體思想と水戸学
第三章 水戸学によって読み解く産業人・渋沢
第一節 水戸学の愛民思想と渋沢
新自由主義者・田口卯吉との対決
養育院を存続させた渋沢の建議
経済的自由よりも国家を優先
私利を優先する実業家を厳しく批判した渋沢
領民を救った水戸藩の政策を実践した渋沢
義公による愛民の政治
幽谷と正志斎の愛民思想
渋沢の心に刻み込まれた水戸藩の愛民政治
第二節 「功利なき道義」と「道義なき功利」を共に排す
富国論を唱え、功利を肯定した水戸学
貨殖富裕を賎視した朱子学に対する渋沢の批判
あとがき
『維新と興亜』第8号特集「右翼テロの標的!? 国民=大御宝を苦しめる経団連」の紹介動画をアップしました。
「財閥富を誇れども 社稷を念う心なし」
蜷川正大「民族派は国家の危機を察知する〝触覚〟」
針谷大輔「右派はなぜ財界の横暴に無関心なのか─麗しき山河を守れ」
本誌は、竹中平蔵氏に代表されるグローバリストたちを糾弾してきた。彼らがアメリカの要望に応える形で、規制改革を推進した結果、格差の拡大や共同体の破壊が進んだからだ。しかも、空港や水道などが特定の企業に「私物化」されつつある。まさに売国的行為だ。
では、竹中氏らの新自由主義路線は、誰の意向で進められているのか。それは、日本の大企業の意向にほかならない。その元締めこそ経団連だ。いまや日本の有力企業の多くが外資系となっているので、経団連はグローバル企業の元締めでもある。
日本の賃金水準の低下を招いたのは経団連の責任であり、法人税減税と消費税増税を主張し、我が国の税制を歪めてきたのも経団連だ。しかも、彼らは国家戦略特区諮問会議や成長戦略会議などの諮問会議と歩調を合わせ、「規制改革」の先頭に立ってきた。彼らは次々と提言を発表し、環太平洋経済連携協定(TPP)推進、外国人労働者の受け入れ拡大、「農業改革」など、一連の改革を進めてきた。
こうした経団連の横暴が罷り通ってきた理由の一つは、保守派、右派が経団連を批判しなくなっているからだ。いまや、「保守」を名乗る月刊誌が、新自由主義を礼賛する国家戦略特区ワーキンググループ民間議員に、主張の場を提供するような有様だ。
振り返れば、我が国では資本主義導入以来、國體の立場から資本主義の弊害を批判する言論が存在してきた。やがて、営利至上主義の財閥に対する国民の激しい憤りを背景に直接行動が展開された。
大正十(一九二一)年九月には安田財閥の首領・安田善次郎が朝日平吾に刺殺され、昭和七(一九三二)年三月には三井財閥の総帥・團琢磨が血盟団の菱沼五郎によって射殺されている。五・一五事件で蹶起した三上卓が作った「青年日本の歌」には、「財閥富を誇れども 社稷を念う心なし」とある。財閥を狙った右翼の直接行動は、いずれも愛国思想に基づいていたのだ。
ところが戦後、GHQの占領政策によって我が国の愛国思想は封じ込められ、東西冷戦勃発後、右翼は反共・親米に誘導された。やがて、「資本主義擁護、グローバリズム擁護が右派のとるべき立場だ」という考え方が広がったいった。しかし、経団連事件に象徴されるように、戦後体制打破を掲げ、営利至上主義の財界に牙を剥いた先人たちは存在したのだ。彼らこそ、昭和維新の精神を引き継いだ本来の民族派だったのではないか。
経団連新会長に就いた十倉雅和氏は、「新自由主義や市場原理主義に基づく行き過ぎた効率追求や規模拡大が、格差の拡大や再生産、気候変動、生態系の破壊を招いている」と語ったという。ならば、経団連はこれまでの新自由主義路線を直ちに転換すべきだ。
経団連が社稷を思う心を取り戻さなければ、やがて「経団連を討て」という国民の声が高まるに違いない。
『維新と興亜』第8号、8月28日発売!
定価715円。『維新と興亜』公式サイトでは650円で購入できます(ペイパル)。
なお、富士山マガジンサービス、BASE (ベイス) でも購入できます。
『維新と興亜』定期購読(5000円、送料込み)・会員
《目 次》
【特集】財閥富を誇れども 社稷を念う心なし 「経団連を討て!」
■なぜ経団連事件は起きたのか 民族派は国家の危機を察知する〝触覚〟(蜷川正大)
■右派はなぜ財界の横暴に無関心なのか 麗しき山河を守れ(針谷大輔)
■財界に甘いのは尊皇心のない証拠(小野耕資)
【日本浪曼派座談会】日本回帰・第五の波に備えて 下 アジアの道義的生活 三島由紀夫と蓮田善明(ロマノ・ヴルピッタ、金子宗德、山本直人、荒岩宏奨)
【巻頭言】ビル・ゲイツによる食の支配を許すな(坪内隆彦)
【時論】菅首相は「国家の奸物」、「天下の大罪人」(折本龍則)
【時論】「グローバリストの祭典」が示す日本終焉(小野耕資)
明治維新と神社神道 神社と神道をめぐる今日的な課題を探る(稲 貴夫)
藤田東湖と西郷南洲 ⑤ 「死を恐れない行動力」の精神(山崎行太郎)
なぜいま会沢正志斎『新論』なのか(折本龍則)
渋沢栄一の「第二維新」─大御心を拝して(坪内隆彦)
「維新」としての世界最終戦 現代に甦る石原莞爾 ② 螺旋的に進化する戦争(金子宗德)
三上卓の知られざる佐賀人脈 松尾静磨と舘林三喜男(小野耕資)
情報機関なくして自立なし 完 情報体制強化を巡る日米の思惑(福山 隆)
国民共同体経済思想の構築を(杉本延博)
三島由紀夫『英霊の聲』再読 ④(玉川博己)
いにしへのうたびと ① 人麻呂恋物語 上(玉川可奈子)
在宅医療から見えてくるもの 西洋近代文明の陥穽とその超克 ① 客観性が常に「正義の印」とは限らない(福山耕治)
尊皇愛国の経営 ② 「君が代」をきちんと歌えない日本の選手達(川瀬善業)
「草とる民」の記 ④ みくに奉仕団と勤労奉仕(小野寺崇良)
國體護持のための真正護憲論(新無効論)③(南出喜久治)
靖國論議に欠けている英霊の視線(仲原和孝)
農本生活と社稷思想(三浦夏南)
【蔵書紹介】浪曼者の翻読(山本直人)
【書評】鈴木宣弘著『農業消滅』(評者:小野耕資)
雑誌記事/論文
タイトル |
雑誌名 |
巻・号 |
発行年月(日) |
備 考 |
尊皇思想と自由民権運動─愛国交親社の盛衰②
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『維新と興亜』
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第2号
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2020年4月
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日本は、アジアの声に耳を澄ませ
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『伝統と革新』
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35
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2020年5月
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言霊の政治家・副島種臣 ①
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『維新と興亜』
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第3号
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2020年8月
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【巻頭言】国賊・竹中平蔵への退場勧告
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『維新と興亜』
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第4号
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2020年12月
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言霊の政治家・副島種臣② 先人が死守した主権は今…
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『維新と興亜』
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第4号
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2020年12月
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【巻頭言】地位協定改訂なくして主権回復なし
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『維新と興亜』
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第5号
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2021年2月
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天皇親政のための君徳培養
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『維新と興亜』
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第5号
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2021年2月
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「知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩」
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『日本』(日本学協会)
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2021年3月
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【巻頭言】対米自立を阻む「名誉白人」意識(坪内隆彦)
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『維新と興亜』
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第6号
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2021年4月
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誤解だらけの明治維新 : 尊皇思想を正しく理解せよ
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『伝統と革新』
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38
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2021年5月
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【巻頭言】 宮城県の水道民営化を阻止せよ
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『維新と興亜』
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第7号
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2021年6月
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坪内隆彦が編集長を務める『維新と興亜』第7号(令和3年6月)好評発売中です。
以下目次を紹介します。
【特集】グローバリストに支配される日本の食と農 属国農業から脱却せよ!
グローバリストに操られるわが国の農政(三橋貴明)
植民地農業を推進する菅政権(室伏謙一)
農本主義と現代の農業問題 グローバルアグリビジネスを打ち破れ(小野耕資)
日本精神の体現としての農(三浦夏南)
【日本浪曼派座談会】日本回帰・第五の波に備えて 中(ロマノ・ヴルピッタ、金子宗德、山本直人、荒岩宏奨)
【対談】アジア主義の封印を解く! 下(クリストファー・スピルマン、小山俊樹)
【巻頭言】 宮城県の水道民営化を阻止せよ(坪内隆彦)
●時 論 浦安から「食の安全」を通して我が国の食糧安保に貢献する(折本龍則)
●時 論 二度の東京五輪が示す開発の害悪(小野耕資)
【新連載】「維新」としての世界最終戦 現代に甦る石原莞爾(一)第二次世界大戦≠世界最終戦(金子宗德)
【新連載】尊皇愛国の経営 第1回(川瀬善業)
「海外神社」の思想 小笠原省三のアジア主義 下(菅浩二)
愛郷と郷土共同体(杉本延博)
三島由紀夫『英霊の聲』再読 ③(玉川博己)
藤田東湖と西郷南洲 ④ 水戸学の思想的エネルギー(山崎行太郎)
情報機関なくして自立なし 日本の情報体制強化策 ② アメリカに魂を売った外務省(福山隆)
國體護持のための真正護憲論(新無効論)②(南出喜久治)
皇統守護の任への自覚 高宮垂加神社を訪れて(折本龍則)
新左翼と歌心 重信房子『ジャスミンを銃口に』を読む(海野 学)
村上一郎と三島由紀夫事件 ③ 文武湊合への道(山本直人)
田中角榮とロッキード事件 ①(田口 仁)
近藤啓吾『紹宇存稿』他(折本龍則)
【書評】杉本延博著『国家社会主義とは何か』(評者:小野耕資)
活動報告
編集後記
■国士館設立で協力
渋沢栄一と「右翼の巨頭」と呼ばれた頭山満翁との関係は、あまり語られていないように思います。実は両者には様々な接点がありました。水戸学で培った尊皇愛国の立場を貫いた渋沢と頭山が結びついていたのは、むしろ当然かもしれません。
比較的知られている頭山と渋沢の接点は、国士舘です。頭山は国士舘創立者の柴田德次郎との同郷の縁から、創立時より多方面にわたり支援していましたが、国士舘維持委員会の会合が渋沢邸で開催されることになったのをきっかけに、渋沢は頭山のほか、徳富蘇峰や野田卯太郎とともに国士舘設立に参画するようになったのです。
頭山と渋沢のもう一つの接点は、辛亥革命特に黄興です。辛亥革命後、黄興は陸軍総長に就任しましたが、袁世凱に敗れて、日本、アメリカに亡命。大正5(1916)年10月31日に亡くなりました。
黄興の死後、鶴見総持寺境内竜王池畔の山腹に黄興碑が建立されることになりましたが、渋沢は頭山、寺尾亨、犬養毅、杉田定一、小川平吉らとともに発起人となっています。大正5年11月17日には、頭山、犬養らの発起により、芝青松寺で黄興氏追悼会が開催されましたが、渋沢も参列しています。 続きを読む 渋沢栄一と頭山満 →
道義国家日本を再建する言論誌『維新と興亜』第6号(令和3年4月号)を刊行しました。
《目 次》
◆特集 アジア主義の封印を解く!
対談 アジア主義に普遍的価値観はあったのか(クリストファー・スピルマン×小山俊樹)
祖父・頭山満の教え 「中国にも米国にも一歩も譲るな」(頭山興助)
小笠原省三のアジア主義(上)(菅 浩二)
朝鮮開化派の指導者・金玉均先生
日韓合邦運動の原点─樽井藤吉『大東合邦論』(仲原和孝)
◇日本回帰・第五の波に備えて 日本浪曼派座談会(ロマノ・ヴルピッタ×金子宗德×山本直人×荒岩宏奨)
【巻頭言】対米自立を阻む「名誉白人」意識(坪内隆彦)
【時 論】現代版「社稷」を如何に実現するか(折本龍則)
【時 論】政治に巣食う商人を許すな(小野耕資)
中小企業を潰す菅政権 ナショナリズムに基づいた国民経済を!(三橋貴明)
國體護持のための真正護憲論(新無効論) ①(南出喜久治)
情報機関なくして自立なし ① 幻の日本版CIA(福山 隆)
追悼・四宮正貴先生
遺稿 大久保利通の「非義の勅命は勅命に非ず」論(四宮正貴)
愛郷心序説 ② 愛郷心と理想郷(杉本延博)
三島由紀夫『英霊の聲』再読 ②(玉川博己)
藤田東湖と西郷南洲 ③(山崎行太郎)
崎門の先哲、若林強斎先生と尊皇斥覇の学統(折本龍則)
「草とる民」の記 ③(小野寺崇良)
【蔵書紹介】柳宗悦『手仕事の日本』他(小野耕資)
【書 評】 内藤博文『アメリカ歴代大統領の対日戦略』
活動報告
編集後記
新聞記者になって以来、30年以上、細々と物を書いてきました。処女作は『アジア復権の希望マハティール』。95歳の今も健在。
彼のことに関心を持ったのは、目の前の問題に対して、決して逃げず、曖昧にせず、誤魔化さず正面から向き合う彼の姿勢に感動したからです。
彼が、絶大な力を持っていた、時の首相ラーマンにも、イギリスにも、アメリカにも阿らず、言うべきことを堂々と言っている姿に共感したからです。アメリカにひれ伏すどこかの国の指導者とは大違いです。
しかも、大きな権力を批判した結果、自分はいかなる不利益を被ってもいいという覚悟をマハティール閣下に感じたからです。
その後、崎門学に傾倒したのも、利害得失を超えて大義に殉ずる崎門学派の生きざまに感動したからです。
個人的なことで恐縮ですが、子どもの頃、なにか失敗して親父に叱られた記憶がないのです。しかし、親父から「卑怯な事をするな」「嘘をつくな」「正直に言え」と烈火の如く叱られたことは良く覚えています。その頃は親父に反発しましたが、やがてその教えが日本人が大切にすべきことなのだとわかりました。
人間歳を取れば理想だけでは生きていけないと実感するものです。
しかし、物を書くについては、今後も、現実政治で成功しなくても、只管大義に生きた先人のことを書いていきたいと思います。
(令和3年4月22日午前2時、父の死去12時間前に)
一 アジアの黎明の時代
列強の植民地支配に対する民族的反抗
本書で取り上げた二五人のアジア人(金玉均、康有為、ボニファシオ、ダルマパーラ、リカルテ、孫文、李容九、ガンジー、オーロビンド・ゴーシュ、イクバール、ウ・オッタマ、クォン・デ、宋教仁、ビハリ・ボース、プラタップ、クルバンガリー、ベニグノ・ラモス、チャンドラ・ボース、ピブーンソンクラーム、スカルノ、ハッタ、アウン・サン、スハルト、マハティール、ノンチック)は、民族の独立と興亜に人生を捧げた志士たちである。その多くが命がけで民族独立闘争に挺身し、志半ばで倒れている。かつて栄華を誇ったアジアは、ヨーロッパ列強による植民地となり、その輝きを失っていた。アジア諸民族は、支配から脱して独立を勝ち取り、主体的な国づくりに向かわねばならなかった。
だが、列強の力は強大であり、幾度にもわたる反抗は空しくも抑えつけられていた。例えば、インドでは一八五七年から一八五九年に、セポイの乱と呼ばれる民族的反抗運動が試みられたが、結局鎮圧されている。また、一八八八年には、ジャワ島西端のバンテン地方で反オランダ農民反乱が起こったが、三〇日で鎮圧されている。
アジアが欧米の支配下に置かれ始めたのは、およそ五〇〇年前のことである。アジアへの進出で先んじたのは、スペインとポルトガルである。両国は、イベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動(レコンキスタ)を達成するや、大航海時代の先頭を切って、海外への進出を開始した。一四九四年には、ローマ教皇アレクサンドル六世がトルデシリャス条約を定め、大西洋上に西経四六度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。一四九八年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットを訪れたのを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部に拠点を築いていく。ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、一五一一年にマラッカを征服、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点を築く。マレーシアのマハティール前首相は、この五〇〇年前の歴史を忘れてはいない。一方、スペイン艦隊は太平洋を横断し、東方からアジアに進出した。マゼランは、一五二一年にフィリピンに到達、徐々に勢力を広げ、一五七一年にはマニラ市を含む諸島の大部分を征服した。この間、スペインとポルトガルによる勢力は日本にも及んできたが、信長、秀吉らの努力によってそれを阻止している。
スペイン、ポルトガルに次いでアジアへ進出してきたのが、オランダである。オランダは、一六〇二年には東インド会社を設立、一六一九年にはバタビア(現ジャカルタ)に要塞を築き、首府とした。やがて一七世紀中ごろには、ポルトガルとイギリスの勢力を駆逐し、インドネシア全体を植民地とした。
では、イギリスの進出はどうだったのか。同国は、一八世紀半ばに南部インドの支配権をめぐってフランスと三次にわたって戦争し、最終的に勝利する。さらにインド土着軍を制圧し、インドにおける支配権を固める。一八二四年には、マレー半島を勢力下に収め、イギリス領海峡植民地が成立する。一八八六年には、ビルマがイギリス領インドに併合されている。さらに、イギリスは一八九八年に香港を獲得、清への勢力を拡大していった。この間、イギリスが清に持ち込んだ大量のアヘンによって、多くの中毒者が生み出された。
フランスは、一九世紀になって仏領インドシナなどの植民地化に成功した。
アメリカは、一八九八年の米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったフィリピンを植民地化する。
また、シベリア制圧を終えたロシアは、進路は南へとり、中央アジアの多くの汗国を植民地化し、清の弱体化につけこみ満州のアムール川以北と沿海州を植民地化した。これが、欧米列強によるアジア植民地化の歴史である。アジア諸国は政治的独立を失うとともに、富を略奪されていたのである。
本書で取り上げた志士たちは、この状況を打開するために立ち上がったのである。
西洋近代思想への抵抗
アジア諸国は、植民地化の過程で伝統文化を無残に破壊されていた。劣等感を植え付けられたアジア諸民族は、独自の文化への誇りを失い、人間中心主義、物質至上主義といった西洋近代の価値観を受容していった。こうして、自らの伝統文化、宗教の中の普遍性は忘却させられたのである。
植民地解放闘争の過程で再発見された伝統文化、宗教は、西洋近代文明を超克し得る文明的な意味を持っていた。やがて、第一次世界大戦が勃発すると、欧米の内側から、近代文明に対する懐疑的な見方が唱えられるようになる。シュペングラーの『西洋の没落』もその一つである。
本書で取り上げたアジアの志士たちの多くも、伝統文化と宗教の価値を普遍的なものとして信奉し、近代西洋文明を乗り越えようという志を持っていたのである。例えば、マハトマ・ガンジーは、「近代文明に対する厳しい弾劾の書」と評される『ヒンドゥー・スワラージ』において、「私たちの祖先は、機械のつくりかたを知らなかったわけではない。ただそんなものを欲したら徳性を失うだろうということも知っていた。だから熟考したうえで、できる限りのことを、手と足で行うべきであると決めた」と書いている。パキスタンのムハンマド・イクバールは、独自のイスラーム思想に基づいて、鋭い近代批判を展開した。セイロンのアナガーリカ・ダルマパーラは、「今世紀は一転して眠れる亜細亜を覚醒せざるべからず。而して欧州一流の文明よりも更に完全なる世界的文明を作らざるべからず」と語っていた。インドのビハリ・ボースは、西洋近代の物質偏重を是正し、東洋の伝統思想の復興による文明転換を目指していた。ベトナムのクォン・デもまた、近代主義に批判的なカオダイ教との連携を模索した。
後述するように、普遍的価値に基づいたアジア文明の復興というビジョンは、多くの場合、それぞれの民族思想とともに、宗教思想に裏付けられていたのである。
独立の維持を果たしたという点において、明治以来の近代化に一定の評価を与えつつも、文明転換の視点を失わなかった日本の興亜陣営と、本書で取り上げたアジアの志士たちとは、文明史的課題をも共有していたのである。
やがて、大東亜共栄圏構想が盛んに語られるに至って、西洋近代に対する批判論も、ある種の総括のときを迎える。戦時期に展開された「近代の超克」論がそれだ。昭和一七(一九四二)年七月には、小林秀雄、西谷啓治、亀井勝一郎、諸井三郎、林房雄、鈴木成高、三好達治、菊池正士、津村秀夫、下村寅太郎、中村光夫、吉満義彦、河上徹太郎らが参加して「近代の超克」の座談会が開かれた。これらの参加者は、京都学派の哲学者、日本浪漫派の文学者、『文学界』同人の三グループからなる。京都学派の高坂正顕、高山岩男、鈴木成高、西谷啓治は、ほぼ同時期の『中央公論』においても、座談会「世界史的立場と日本」を行っている。
ただし、後述する通り、列強の勢力に抗して、独立維持のために富国強兵を急いだ明治以降において、西洋近代に背を向けることは困難であった。だからこそ、竹内好は「『近代の超克』は、いわば日本近代史のアポリア(難関)の凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、……一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった」と指摘したのである。
近代の超克という課題は、すでに解決済なのだろうか。地球環境問題の深刻化、精神的な価値の喪失感が進む中で、いよいよ大きな課題として、人類全体に突きつけられているといっても良い。
では、植民地解放という課題はどうなのか。形の上では、アジア諸国は一応は独立を果たした。しかし、中国では、チベット、内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)などで、民族固有の文化、宗教が制約されているとの見方もある。
その一方で、アメリカが主導するグローバリズムを新しい形の植民地主義ととらえる見方もある。一九九七年のアジア通貨危機によって、タイ、インドネシア、韓国が相次いで国際通貨基金(IMF)の金融支援を仰ぐことになった。この際、各国の主体的な経済運営が否定されたことから、マハティール首相は、新植民地主義だと激しく批判している。 続きを読む 『アジア英雄伝』前書き →
『維新と興亜』編集長・坪内隆彦の「維新と興亜」実践へのノート