〈予の敢て呼ぶ「ユダヤ主義経済」とは何であるか。それは現代経済学が、アダム・スミスに出発して、マルクス、エンゲルスの共産主義経済にまで発展し、或は純正経済学として、フィツシヤ、セリグマン、ジイド等に依つて、其の理論的発展が遂げられたのであるが、斯の如き学的大事業を完成したる以上の学者は、何れもユダヤ人だからである。而して現代経済学の殆んど全部は、それが正統経済学たると、社会主義乃至は共産主義経済学たるとを問はず、何れも「物」を基礎とする経済学であり金」を土台とする経済学である。故に物質本位、金本位の経済学は、即ち「ユダヤ主義経済学」となる。ラスキンの如き幾分気色の違つた極めて少数なる例外はあるにしても、欧米の経済学は凡で此の「ユダヤ主義経済学」なる一色によつて塗りつぶされてゐる。従つて斯の如き経済学に基礎を置く限り、如何にそれが修正せらるゝとも、そは恰も衣服装飾を変へたるユダヤ人に過ぎないのである。又此の経済学に基礎付けられたる資本主義経済は勿論のこと、それが今日流行する統制主義経済であつても、依然としてユダヤ経済であることに於ては、何の変りもないのである。
今日我国に於て論講せられ、又事実に於て一般人の経済常識となつて居る経済学乃至経済行為も亦殆んど完全と云ふも敢て過言ならざる程度に於て、ユダヤ主義経済であることも事実である。そこで一部の学者は日本は日本としで独特の経済学乃至経済政策があつて然るべきものとなし、或は日本の古典を引き、或は我国に特有なる地理、風土、人情、風俗に基礎をおいて、特異なる経済成立の余地あることを論ずるものがある様になつた。之は誠に尤なることであらう。之を欧洲経済史に徴するも、重農学派の台頭と、重商学派の発生との間には、以上の如き基礎条件が存在することを認められる。従つて英米にはそれぞれ其の国土人情に適応する経済学の発展があり、経済政策の遂行が考へられるのである。然れども其の経済学乃至経済政策が、単に国土人情と云ふが如きことを条件として、其の基本を依然としで物質におき、金におくに於ては、ユダヤ経済たる本質には何等変りはないのであつて、只其の衣裳を代へるに過ぎないのである。
そこで問題は斯の如きユダヤ主義経済が果して人類の経済目的を遂行するに足る真正なる経済なりや否やと云ふことになる。勿論如何なる経済主義であり、それがユダヤ人によつて創造発展せられたる経済学であつても、真に人類の経済目的が遂行せられるものである限りに於ては、決して排斥すべきことではない。又或はアダム・スミスが経済学を創造し、マルクスが共産主義経済学を唱導したることに就て之を発生的に観るならば、其処には何等特別故意的のことがあつたと云ふにあらずして、当時の経済状態より斯の如く論述したと考へることが正当であらう。然れども彼等をして斯く論述せしむるに至りたる思想の根元に於て、妥当性ありや否やは自ら別問題に属することである。尚又今日世界に於ける少数のユダヤ人が世界の富の大部分を独占して、全世界革命の陰謀を企てつゝある其の手段が、唯物的、拝金的、科学万能的に組立てられ、育成せられつゝあることを観るときに於て、経済学者の理論構成が、計画的ならざるにせよ、結論に於て全く一致してゐると云ふ事実は、本問題を考慮する場合に於て、極めて大切なることである。解決の鍵は、抑々人類生活は物質の上に、科学の上に、建築せられるものであるか、少くとも経済行為の関する限りに於て、このことが肯定出来るだらうかと云ふことに懸つてゐることゝなる。
斯くして問題は形而下より形而上学的に遡るのであるが「人はパンのみにて生くるものにあらず」と云ふキリストの言は、永遠の真理性を有するものとして、何人と雖も異論のある筈がない。只「パンのみ」と云ふこと、即ち物質条件にのみ、経済は限定せられてゐるのであるか、それとも「パン以外」に、即ち物質条件の外に、精神条件も亦経済の必須条件であるか、更に進むで精神条件が根本であつて、物質条件は寧ろ之に附随するものではあるまいか、と云ふことすら考へられる。
斯ふなると、生命科学の根本命題から解決しなければならないことゝなる訳であるが、先づ第一に人間の生命は、此の肉体か、それとも肉体以外の或る存在であるかと云ふことを考へて見よう。之に関連して、レニンは人間生命を何処までも唯物的に説明を試みた。彼は人間頭脳の働きを唯物的機械的にまで説いてゐる。然し彼の説明以上に百万言を費すとも、物質をして機械的に働かしむる其の原動力に就ては、到底科学的には説明出来るものでない。之に対して古来厳として侵すことの出来ない学説は、ソクラテスの霊魂不滅説であるが、之は所謂直観であつて、今日の意味に於ける科学的説明では結局不可解に終るであらう。然しながら、手や足や顔は確かに田村なる人間生命の一部を構成するけれども、田村それ自体でないことは明白である。これと同様に田村の肉体全部も亦確かに田村なる人間生命の一部には相違ないけれども、田村の生命それ自体ではない。仮りに造化の神が、田村と全然外貌及性質を同じうする人間を造つたとしても、それは田村とは全く別の人間である。故に田村の生命は、田村のこの肉体にあらざる、それ以外の「アルモノ」であると云ふことは、科学的検討を以てしても異論はあるまい。田村は此の「アルモノ」の上に肉体を以て築き上げられたる田村なる生命体である。此の「アルモノ」の存在が永遠であり、然も大宇宙と共通し、それと一如を為すところの小字宙であると云ふことは、茲には直接関係がないから論外とするも、人間は現世的なる限りに於て、「アルモノ」と肉体との関連を有するものなること、即ち死によつて、此の関連が切断せられることは云ふまでもないことである。果して然らば人の経済行動なるものは、人間の現世的行動の一部であると云ふことも亦明白であるが、此の田村なる生命をして、真に田村としての生命目的を完全せしめ、以て真に幸福なる現世を送らんとする場合に於ける行動の基調は、決して肉体的満足を齎すべき物質的条件ではないのであつた、「アルモノ」それ自体の要求を満足せしむべき精神的条件でなければならないことゝなる訳である。故に物質的条件なるものは、「アルモノ」と之を根元として附随したる肉体とによつて田村なる生命体の存在あるが如くに、精神的条件を根元としで之に附随すべき生成発展の一作用なるに過ぎないのである。即ち精神的条件の上に建築せられたる物質的条件、之れが凡ゆる経済層でなければならない。「従つて人はパンのみにて生くるものにあらず」と云ふキリストの真理は、人間行動一切に律せらるゝのであつて、「パンのみ」と云ふ限界は存在しないのである。即ち人間行動の範囲一切は、凡て精神的条件が基調となるのであつて、物質条件のみの行動は存在すべからざることゝなるのである。
ユダヤ主義経済学は、前述の如き、貴重なる先聖の教を無視して出発した所に凡ゆる経済罪悪の根元を培つたのである。それは恰も天の王を宣言せるキリストを十字架に懸けて、地上の王たることを妨げんとしたるユダヤ人が、後世永く、世界の大罪悪を犯しつゝあることゝ能く似てゐる。然らば其の経済的罪悪とは何であるか。
第一に純正経済学の出発を誤り、従つて之に基く、経済政策をも亦誤らしめた。即ち純正経済学に於では、人間経済行動の動機を、人の物質的欲望において、価値を論じ、交換を説き、労働及び分配を講じたるが為め、然も之れが最人類の弱点に触れて人心を引付くるが為めに、一般大衆をして唯物主義化せしめ、遂に共産理論の出現にまで及び、又凡ゆる経済政策をして、物質本位、金本位の政策としてしまつたのである。之が為に一般社会に及ぼせる罪悪は、物質欲を満さんとする大衆に物質苦を味はしめ、物質的利福を齎さんとする経済政策に於て、却つて逆効果を具現するに至らしめてゐるのである。
第二は勿論第一の誤つたる見解の本に出発することであるが、資本主義発展に伴ふ弊害の発生に就ては、茲に論ずるまでもないことであるが、此の弊害を矯めんとする修正資本主義、社会政策主義の実行は、其の効果の微温的であるだけに、又之に伴ふ弊害も亦少ないのであるけれども、之を徹底的に改革せんとする、社会主義経済、共産主義運動は、一般社会に対して如何に甚しい害毒を流してゐることであらうか。
第三に物質本位を基調とする人の行動精神は、科学万能主義に共通し、唯理主義に通ずる。其の結果として、人間生活の凡ては科学に根底を有することのみを以て
妥当なりとし、或は表面理論的なれば、其の実質の如何を問はず、之に拠らんとする傾向を強むることゝなる。然し科学は宇宙の問題を解決するに、それが如何に発達してゐる今日にありても、恐らく少部分を占むるに過ぎないだらう。それを全部なりとして、現代人を恰も阿片中毒者の如くに、科学中毒者たらしめてゐる。法科万能思想の如きも亦蓋し以上の事実に原因することであらう。
第四に物質を本位とする行動は利己主義であり、自己中心主義である。従つて斯の如き経済行動は、相剋であり、弱肉強食である。斯の如き社会に於ては、平和なく、結局するところは単なる罪悪の累犯たるに過ぎないことは明白であらう。
斯の如く観じ来るときに於で、ユダヤ主義経済学は、現在世界的排撃を受けつゝある共産社会主義経済学は勿論、それが正統派経済学であつても、更には感違ひしたる統制経済学にあつても、何れも人類経済行動の根本精神を歪曲し、延いて人類生活の上に及ぼせる害毒は、実に甚しきものあることを認めなければならない。之は今日ユダヤ人の全世界革命の陰謀が絶対に拒否さるべきであると同様に、絶対に排斥さるべきものである。
果して然らば吾人は如何なる経済主義を樹立し、之を掘下げて、実に人間生命の目的に相応する経済政策を実行すべきであらうか。問題は極めで困難の様であるが、又考へ様に依つては頗る簡単である。一言にして云ふならば、日本主義経済の樹立がそれである。然らば此の日本主義の本質如何と云ふ問題になるが、詳細は別項に於て論ずることゝするも、要は物質主義に対して精神主義を経済行動の基調とすることである。唯物史観は唯心史観を以て置きかへらるべしと云ふことである。即ち人間生命の本質である「アルモノ」をして完全に顕現せしむることは、理想的社会を出現し、以て人類を至福に導くの絶対的条件であるが、之れが為めには、物質を基調とする人間行動であつてはならない。即ち物質を従とする精神本位の行動たることを必要とする。故にユダヤ主義経済学は自由放任的たらずんば、反対に強制的であるに対して、日本主義経済学は指導的である点に於て、根本的の相違が起るのである。此の点に於て日本主義経済学は、クロポトキンの思想と相通ずるが如き感あるも、内容に於ては雲泥の相違があることは別項に於て明白になるであらう。
精神に基調をおく日本主義経済学は指導的であることを根本とするが故に、社会革命の如き飛躍は到底承認されない。従つてそれより生ずる弊害も亦存在しないのである。又科学を重んじて、然も之を万能視せず、却つて科学を「アルモノ」の完成に利用するに過ぎない。理論を肯定するも、事実を以て最高の理論とするが故に、空理もなく空論もなく、従つて之より発生する社会的矛盾の存在もないのである。更に日本主義経済学は、ユダヤ主義経済学と異なり、精神を基調とするが故に、利己主義、自己中心主義を否定する。従つて相剋なく、弱肉強食も起らないのであつて、和により、中心帰一の真理に依つて、人類の平和利福を招来せんとするのである。
建国の大本を根基となし、万国無比の國體を土台としで、生成発展する日本主義は、国民生活の一切を通じて具現せらるべきことであつて、政治に於て然るも、経済に於て然らずと云ふ唯一つの例外あることをも許されないのである。哲学も宗教も亦然りであり、科学との関係に於てもそうでなければならない。斯して茲に始めて、真に人類の精神的物質的利福を齎さるべき、理想の経済が行はれるのである。而して此の経済は原理として、将又政策としても、単に我国のみならず、横には全世界全人類を通じて、又縦には将来永遠に亘つて遵守せらるべき唯一絶対の真理性を有するのである。故に日本経済の樹立と云ふも、其は気候風上等に適応する様にユダヤ主義経済を修正すると云ふ単なる皮層の問題にあらずして、内面的に掘下げ、根元に遡つて、哲学的にも思想的にも全く相反し相異つたる原理と政策の樹立であることを深く心に留めなければならない。〉