青柳種信と辛島並樹

明治時代になって神祇伯は廃止され、白川家も子爵になった。やがて、第33代の白川資長の代で白川家は絶家となってしまう。しかし、伯家神道はいくつかのルートで伝承されていた。その1つが、第30代の雅寿王によって伝授された青柳種信のルートである。
明和3(1766)年、福岡藩足軽・青柳勝種の次男として生まれた青柳種信は、筑前国学の泰斗として名声を誇った人物である。藩命により『筑前国風土記附録』や『筑前国続風土記拾遺』の編纂にも携わった。雅寿王が秘伝を伝える相手としてふさわしい人物だったと考えられる。
青柳に伝えられた伯家の伝は、辛島並樹に伝えられた。辛島は筑前福岡の人で、世々黒田氏に仕えた家系である。明治元(1868)年に修猷館副訓導、翌明治2(1869)年に訓導となり、専ら皇典を司った。明治7(1874)年には、筥崎八幡宮祀官に任ぜられている。

維新陣営との交流

『生命の甕』山雅房、1991年
明治35(1902)年に、この辛島から伯家神道を伝授された(『生命の甕』270~271頁)のが、鬼倉足日公(おにくらたるひこ)である。鬼倉は本名を重治郎といったが、伝授をきっかけに辛島から足日公の道名を与えられた。
注目すべきは、鬼倉が若い頃から、玄洋社のメンバーとして活動していたことである。彼は、朝鮮、ロシアの情報収集にあたっていた。ここで想起されるのが、朝鮮、ロシア問題に危機感を強め、黒龍会を設立した内田良平との機縁である。内田の母鹿子は、漢学を学ばせるために、内田を辛島の門下に入らせた。そして、内田は18歳の頃、漢籍の学課が完全終了するのを待ちきれず、辛島に懇願して古事記、日本書紀の正式講義を受けることになったのである。やがて、内田は古事記の調べと言霊が持つ不思議な旋律と威力に魅了されるようになった(『国士内田良平伝』25~26頁)。

鬼倉足日公

玄洋社での活動を通じて、鬼倉と内田の間にも深い交流はあったはずであり、内田をはじめとする興亜運動、維新運動陣営への古神道の直接的影響が窺われる。ちなみに、頭山満は鬼倉について「頭脳明晰、識見卓抜、而かも熱列火のごとき実行力を持つ快男児だ。・・・幼にして福岡の碩学・正木昌陽、辛島並樹、瀧田紫城諸先生の門に遊び、特に皇学に造詣深い人物である」と評している(http://www.misogi.org/jingihaku.htm)。
さて、鬼倉は大隈内閣の軟弱外交に憤激し、大正5(1916)年の大隈重信爆殺未遂事件に連座して投獄されている。ちなみに、このとき鬼倉の助命嘆願を行ったのが、川面凡児である。出獄後、鬼倉は伊勢神宮の創設者の斎王・倭姫命を祀る神社が存在しないのを憂い、倭姫宮の創建に尽力する。そして大正12(1923)年、その鎮座を機に、伯家神道の公開研修の場を作るために奔走した(『古神道の本』48頁)。
その13年後の昭和11(1936)年、ついに雅寿王の曾孫にあたる第33代白川資長子爵を会長に迎え、鬼倉を理事長として皇道斎修会が設立された。副会長には、三室戸敬光(伊勢皇大神宮大宮司三室戸和光の孫、子爵、宮中顧問官)と平田盛胤(平田篤胤の曾孫、神田明神宮司)が、顧問には一条実孝、井田磐楠、浜田三郎、頭山満、小笠原長生、小川平吉、大島健一、織田昇次郎、筧克彦、鵜沢總明、山本英輔、荒木貞夫、秋山定輔、水野錬太郎、平沼騏一郎が名を連ねた。また、理事には入江種矩、羽入三郎、田辺宗英、山田照胤、菅野清が就いた(『生命の甕』3、274頁)。
昭和15(1940)年には皇道斎修会を宗教結社皇(スメロギ)教と改名し、全国的組織の展開に乗り出した。
昭和21(1946)年には、熱海に本部を移し、スメラ教が設立された。翌昭和22(1947)年に、すめら教と改称され、今日に至っている。なお、伯家神道の奥伝と道名は、門脇清(稜日公)、長井吉五郎、佐々木精治郎(和日公)の3名に授けられている。

関連書

 

著者 書名 出版社 出版年 備考
青柳種信編著、福岡古文書を読む会校訂 筑前國續風土記拾遺 上下巻 文献出版 1993年
青柳種信著 ; 福岡古文書を読む会校訂 筑前町村書上帳 文献出版 1992年
鬼倉足日公 生命の甕 山雅房 1991年
福岡市立歴史資料館編 青柳種信関係資料目録 福岡市立歴史資料館 1986年
福岡市立歴史資料館編 国学者青柳種信 : 筑前考古学のくさわけ 福岡市立歴史資料館 1979年 福岡市立歴史資料館図録 ; 第5集
青柳種信著 柳園古器略考 文献出版 1976年
青柳種信編輯 筑前国続風土記拾遺 第1~5巻 筑前国続風土記拾遺刊行会 1973年
大熊淺次郎 筑前國學の泰斗青柳種信年譜の梗概 私製 1934年
辛島並樹、尾崎臻著 日本上古略史 磊落堂等 1878年
青柳種信著 筑前國怡土郡三雲村古器図説 全 青柳種信 1823年
坪内隆彦