イスラーム経済論

ムハンマド・バーキルッ=サドル
(http://www.ummah.org.uk/Rahmat/person.htmより)
ムハンマド・バーキルッ=サドル
ムハンマド・バーキルッ=サドル(Muhammad Baqir as-Sadr)は1935年、イラクのバグダッドで生まれた。早くも10歳のときに、イスラームの歴史のレクチャーしはじめ、11歳で論理学の勉強を開始したと語りつがれている。このように驚くべき早熟で、20代半ばにして、すでに学者としての地位を確立した。
Iqtisad-naのほか、イスラーム哲学、イスラーム法学をはじめ、論理学、政治学、社会学と極めて幅広い学術的成果を残した。
サドルは、イランのホメイニとならぶシーア派の指導者としても活躍し、革命後のイラン経済に、サドルの経済論は取り入れられた。だが1980年、敵対するバース党のフセイン政権によって処刑され、45年の短い生涯を閉じた。
イスラーム金融システムは、イスラーム経済の一側面に過ぎない。それは、イスラーム経済全体の中で位置づけられる必要があるのだ。
ところで、国際金融システムの限界に直面し、資本主義システムの問題点が改めて指摘されるようになっている。すでに、物質至上主義による精神的退廃・人間性の喪失、各国内部における経済格差、国家間の経済格差(南北問題)、自然環境破壊といった問題が指摘されて久しい。マルクス主義は、資本主義の問題を鋭く指摘したが、実際のマルクス主義経済体制は別の弊害を生み出した。こうした中で、イスラーム経済論の果たす役割は小さくないと指摘されている。
ところが、イスラーム経済論は日本には未だあまり紹介されておらず、日本語で読める体系的イスラーム論は限られている。
黒田寿郎教授によるムハンマド・バーキルッ=サドルの著作の邦訳が、体系的なイスラーム経済論の日本語テキストの唯一のものとも言われている。
ここでは、サドルの『イクティサードナー』(Iqtisad-na)の邦訳『イスラーム経済論』(未知谷)をもとに、イスラーム経済論のポイントについて紹介しておきたい。

直接性の観念
 今村仁司氏が指摘する通り、サドルのイスラーム経済論は必ずしもイスラームにのみ見られる主張とは言いがたい。イスラームは不労所得を禁ずるが、こうした主張は欧米の経済学者の間でも見られたのである。今村氏は「スミスやリカードのような、いまだ『穏健な』自由主義経済学者も、『危険な』初期社会主義者たちも、不労所得的、『賎民的(パーリア)』資本主義(ウェーバー)を批判する点では、共同歩調をとっている」(「イスラーム経済思想における直接性の観念」)と書いている。
また「労働は信仰」であるという主張もまた、イスラームにだけ当てはまる考えではない。未開社会の「労働」は信仰であった。
そこで今村氏は、「直接性」こそがイスラーム特有の観念だというのである。
いずれにせよ、サドルの『イスラーム経済論』には既存の経済学に対する明確なアンチテーゼが含まれている。

神の所有
 サドルの理論を支える第一のポイントは、「神の所有」という考え方であろう。
すべてを所有するのは神であり、人間は絶対的な所有権を持たないのだ。

「したがって所有権に関する道徳的説明は、すべてのムスリムが日常的にイスラームからそれについて学び、それに基づいて自らを知的、精神的に統制し、感情、活動を規制するこの所有権の観念を正当化する。
この観念の基礎となるものは、すでに指摘した代理の概念である。富とはアッラーの富であり、アッラーこそは真の所有者である。人間は地上における彼の代理人であり、大地とそこにある富、資源の管理者にすぎない」(317ページ)
イスラームの所有は、資本主義の所有の観念とは根本的に異なるし、またマルクス主義のそれとも異なる。
サドルは、次のように書いている。
「資本主義においては、自由経済の原理に基づき、あらゆる個人に天然資源の所有が認められている。つまり個人の支配下にあるあらゆる富は、他人に許される所有の自由と衝突しない限り、彼の所有と認められる。万人に与えられる私的所有の範囲は、所有の自由に関する個人の権利の保護と関連によってのみ、決定される」(308ページ)
「…つまりマルクス主義は、理論的な面から交換価値は労働によって生み出されると認識しており、また思想的な面からは、労働者が労働の対象とした物資に対して所有権をもつことを、彼の労働が物資の中に生産した交換価値に基づいて正当化している。その結果いかなる労働者であれ、物質に新しい価値を与えれば、その中に実体化されているこの価値を所有する権利を持つことになる。  マルクス主義と異なって、イスラームは所有と交換価値を分離し、労働者が物資にもたらした新しい価値に基づいて彼に所有権を与えることはしない」(350-351ページ)
人間は「所有」によって、神の代理として「責任ある管理」をする役目を担うのである。したがって、所有物が放置され、経済的に活かされる必要があると考えられる。そうでなければ、所有は認められないのである。
ここから、退蔵の禁止という考えが生まれる。ザカートもまた、退蔵を避け、常に生産、流通に回るよう促進するための制度ということができる。

労働の優位

次に注目すべきは、「労働」についての独特の考え方である。
いわく、「イスラームは思想的に労働と生産を奨励し、それらに高い価値を認め、それらを人間的名誉、信仰の質、はては知性の高さとまで結びついている。これによりイスラームは、生産促進と富の開発にとって好ましい人間環境を創り上げ、それ以前には知られていなかった労働と怠惰に関する道徳的尺度と、特定の評価を生み出した。このような尺度、評価で計られる労働は、人間がそれによって報われる信仰箇条となったのである。そして自らの糧を求めて働く労働者は、働きのない信者よりも神のもとでは上位に立ち、怠惰に身をまかせ、労働を侮る者は、人間性を欠く者と見なされ蔑視の対象となった」(417-418ページ)

イスラームでは、資本に対して労働は優位に立つのである。労働を伴わない利益は許されない。不労所得はだめなのである。ここから、利子の禁止という考えが出てくるわけだ。
サドルのこう書く。「イスラーム法は、労働に基づかない種々の利得を拒絶する労働利得権の原則の否定的側面を適用して、これを禁止している」(386ページ)
「イスラームは、利子付きの貸付けを禁止し、他方で不動産や生産用具の貸与から発生する利得を許可することで、貨幣資本と生産用具、不動産の間にある理論的差異を明らかにする。この差異は、イスラーム的理論にのっとり、われわれが検討している労働利得権の原則に立脚して、説明されなければならない。それによってわれわれは、イスラームの経済思想が資本の報償を無効とする、換言すれば、貨幣資本の所有権から発生する保証された利得を無効とし、他方で生産用具の報償を許可し、その所有権から発生する保証された利得を認めている理由を知ることができる」(389ページ)
ちなみに、サドルは資本主義の利子正当化を以下のように理解している。
「資本主義は、何人かの学者たちの手をかりてついに利潤(利子)に対するもっとも強力な正当化を行なうにいたった。すなわち時間が価値の形成に関して積極的な役割を果すと信じて、利潤(利子)を商品の現在の価値と、未来の価値の差を表現するものと解釈したのである(中略)このような資本主義的正当化の考えは、誤った基礎の上に成り立っている。」(402ページ)

この点は、イスラームの「直接性」重視という立場からも説明されうる。労働という直接的な関係による利潤だけが肯定され、間接的な利益は否定される。
所有の基礎に労働がおかれるのも当然である。
「これらの法規定には、すべてに妥当する一つの共通点が見られる。それは人間を取り囲む天然の資源について、労働こそが私的所有その他の権利の基礎であるということである。ところでこの法的特質はあらゆる規定に認められるが、それら自体、ならびにその原典、証拠等を厳密に検討してみると、この共通点には一つの不変な要素と、富の種類、性質に応じて互いに異なる二つの変化する要素が認められるのである。不変な要素とは、未加工の天然資源に対する私的権利と、労働との関連である。ひとは労働を提供しない限り、なに一つ所有しえない」(283ページ)

ここでいう労働として、私たちは、まず「製造・生産」を連想しがちである。では、商品・製品を販売、流通する「商業」に対して、イスラームはどう考えているのか。低い評価をしていると想像しがちだが、決してそうではない。
「流通に関するイスラームの見解を規定している思想的典拠の一つとして、アリーがエジプト太守マーマリ・アル=アシュタルに宛てた書簡がある。アリーは彼に仕事のあり様を示し、イスラームの概念を明らかにしている。『つぎに商人と技術者に十分な配慮を寄せ、彼らの世話をすることだ。彼らのうち成功している者も、財産に困っている者も、口腹を満たしている者も、有用の徒、便宜の提供者であり、人が寄り集まったり、敢えて行くこともできない遠隔地や人里離れた場所から、陸路、海路、平地、山地を通って商品を輸入するのである』。
この典拠から、商人たちが技術者、つまり生産者と同列に置かれ、彼らすべてが有用の徒と見なされていることは明らかである」(450ページ)

労働が信仰であるのと同様、富はまた、それ自体が目的ではあり得ず、信仰の手段なのである。
「富は、天が地上のイスラーム的人間に課した基本的な目的ではなく、イスラーム的人間が神の代理人(ヒラーファ)としての役割を果たすための手段であり、人間のあらゆるエネルギーを開発し、精神的、物質的分野で人間の内に宿る人間性を喚起するために利用される手段である(中略)イスラームがイスラーム的人間の前にかかげ、その方向に彼を促す目的としての富とその開発は、次のようなものである。それは、イスラーム的人間と彼に祝福を与える主との結びつきを強固にし、安寧と満足のうちに信仰にいそしむ機会を与え、彼の才能とエネルギーが成長し、完成する機会を開き、彼が公正、博愛、寛容の中に自らの理想を実現する助けとなるようなものである」(436-437ページ)

資本主義を厳しく批判
 こうしたイスラーム経済論が、資本主義を厳しく批判するのは当然でもある。
サドルは、資本主義における利己心を批判してこう書く。
「クルアーンははかない感情的基準のみでは測れない利益、損失に眼を向ける視点と、そのような基準しか持たない資本主義の狭隘な視点とを比較している。それは常に貧困の影におびえ、私的所有を貪欲と利己心の衝動に基づくより広く、大きな目的に利用することだけに心を煩わせているのである。なぜならば恐ろしい貧困と損失の亡霊はこの種の考えの背後から姿を現わすのだから。クルアーンは、このようなに狭隘な資本主義的観点を、悪魔に例えて述べている。『悪魔は汝らを貧困で脅かし、恥ずべき行為を命ずる。アッラーはそれに対して許して恵みを約束し給う。アッラーこそは広大にして、全治におわします』(クルアーン、第2章268節)」(323ページ)
また、富が信仰の手段だと言いきるサドルは、富の配分における資本主義の弱点を明確に指摘する。
「資本主義が、歴史的にその代表的な経済イデオロギーの役割を果してきた近代の物質文明においては、富の開発はしばしば、基本的な目的、目標と見なされる。この文明に属する人間の生の尺度からすれば、物質こそすべてなのである。彼は背後にある目標を理解せず、それゆえ富そのもののために、また可能なかぎりの物質的満足を実現するために、富の開発の努力に従事する。
また資本主義は、この目的を実現するさいに、富の開発を配分から切り離された総体的な相から考察する。そして社会の総体的な富が増大すれば目的は達成されたとし、この富が社会に行き渡る過程や、それがもたらす安寧や繁栄の個人のとり分といった問題については一切考慮しない。(中略)富の増大は、イスラームにおいては目的の一つであっても基本的なものではない。またイスラームは、富の増大を配分から切り離されたものと見なさず、総体的な富といった観点もとらない」(433-434ページ)

イスラーム経済論の3潮流
 ところで、岡野内正氏によれば、イスラーム経済論は大きく3つの潮流に分類できる。
(1)イスラームの教義に内在してそこでの経済原則を確定しようとするもの
(2)イスラーム経済体制論
(3)現代のミクロ、マクロの経済学の諸理論を前提にしたうえで、リバー禁止、ザカートなどのイスラーム的原理にたった前提を導入した場合に、それがどのような体系的な変容を受けるかを数学的にも洗練して示す努力を傾注するもの、また直接役に立つ政策指向の経済学とすることを目指したもの
(1)には、イスラーム法学からのSaleh,N.A.,Unlawful Gain and Legitimate Profit in Islamic Law: Riba,Ghrar and Islamic Banking,Cambridge, 1986、経済学からのQereshi,A.I.,Islam and Theory of Interest,1946、歴史学からのHaque,Z.,Islam and Feudalism:The Economic of Riba,Interest and Profit,Lahore, 1985などが挙げられる。
(2)としては、サウジアラビアの通貨庁経済顧問のチャプラ(Chapra,M.U.)によるにIslam and the Economic Challenge,Leicester,1992が代表的。この潮流は、すでに両大戦間期に遡るもので、インドネシア、パキスタンなどで研究が進められていた。サドルのイスラーム経済論は、この潮流に属する(岡野内正の「国際経済とイスラーム」(板垣雄三監修『講座イスラーム世界 別巻』、悠思社、1995年)。

坪内隆彦