明治維新への胎動は、それに遡ること100年以上! 先覚者・竹内式部とは?

徳川幕府の専横に対する皇室の嘆き
 徳川幕府成立からおよそ百五十年後の宝暦六(一七五六)年、崎門学派の竹内式部は、桃園天皇の近習である徳大寺公城らに講義をし、熱く訴えかけました。
 今の世の中は、将軍がいるのを知っているが、天子様がいるのを知らないありさまである。これは、つまり関白以下の諸臣が学に暗く、不徳であったためにほかならない。もし、諸臣が学問に励み、徳を磨いたならば、天下の人心は朝廷に集まって、将軍も政権をお返しするであろう、と。
 式部の言葉を聞いた公卿たちは、ハッと目が覚める思いで、自らの使命を改めて考えたことでしょう。公卿たちが皆、公城のような姿勢であったなら、すでにこのとき王政復古に向けた静かな運動が開始されていたかもしれません。しかし、王政復古が実現する慶応三(一八六八)年まで、徳川幕府はその後百十年も続いていくのです。
 いまだ式部の時代には、彼の講義が幕府の忌憚にふれる危険なものだと考え、自己規制してしまう公卿が少なくなかったのです。それほど徳川幕府の朝廷対策は徹底されていました。幕府は、彼らに反感を抱いた大名が朝廷を中心に事を挙げることを強く警戒していたのです。
 徳川幕府は、慶長十八(一六一三)年に公家衆法度を出し、行儀、法度に背く公家を流罪に処すことなどを定めました。同年に出された「勅許紫衣の法度」も、朝廷の権限を制限するものでした。「紫衣」とは高僧だけが着用できる紫色の袈裟で、古くからその着衣の許可は朝廷によって下されていました。ところが幕府は、この法度によって、大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・栗生光明寺の七カ寺に対して、「紫衣」の勅許を得る場合には、事前に幕府へ願い出て幕府の許可を得るようにと定めたのです。
 幕府は元和元(一六一五)年七月十七日に、禁中並公家諸法度を発布しました。この法度は十七条にわたり、その第一条は「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」と定めました。第十一条には、「関白・伝奏並びに奉行職事など申し渡す儀、堂上地下の輩相背くにおいては、流罪となすべき事」と謳われています。関白は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)が就任する朝廷官職のトップですが、その任免は天皇の自由にはならず、すべて幕府との協議と承認を必要とするようになりました。
 幕府は、関白とともに、幕府と朝廷の交渉・連絡役の「武家伝奏」、様々な朝儀を執行した蔵人役の公家「奉行職事」らによる朝廷統制体制を固めたのです。さらに、直接朝廷を統制、監視するために京都所司代を置きました。
 徳川幕府の専横に対する皇室の嘆きは、例えば、後水尾天皇(在位:一六一一~一六二九年)がお書きになった『御訓誡書』の冒頭にはっきり示されています。
 「むかしこそ何事も勅定をばそむかれぬ事のやうに候へ、今は仰出し候事さらにそのかひなく候、武家は権威ほしきままなる時節の事と候へば、仰にしたがひ候はぬも、ことはりと申べく候歟」
 宝暦事件に至る朝幕関係において特筆すべきは、霊元天皇(在位:一六六三~一六八七年)による大嘗祭再興です。学習院大学教授の高埜利彦氏は、霊元天皇が目指した朝廷復古の動きは伏流し、「宝暦事件」に際して顕在化したと書いています。
 大嘗祭は、文正元(一四六六)年に室町時代の後土御門天皇即位に伴って挙行されて以来、霊元天皇が貞享四(一六八七)年八月十三日に大嘗会を簡略な形で復興するまでの二百四十年間、中断されていたのです。
 皇室再興と独自の政策展開を目指した霊元天皇は、幕府と距離をとり、左大臣近衛基煕ら「親幕派」の公卿による統制を退けようとしました。
 ここで注目すべきは、霊元天皇と崎門学派との関係です。藤田覚氏によると、闇斎から垂加神道の奥義を伝授された正親町公通は、霊元天皇に山崎闇斎の『中臣祓風水草』を献上していました。また、近藤啓吾先生が指摘している通り、徳川光圀(義公)は延宝八年、平安時代から江戸初期までの各種古典の序・跋・日記などを収録した『扶桑拾葉集』を、後西上皇と霊元天皇に献上しましたが、そのとき水戸から上京した使者は、闇斎の門人だった鵜飼錬斎でした。さらに、中院道茂、土御門泰福らの闇斎門下もこれに協力していました。
 近藤先生は、さらに一条兼輝が垂加神道の相伝を得ていた事実や後西天皇の第八皇子、八条宮尚仁親王に師としてお仕えしたのが闇斎高弟の桑名松雲や栗山潜鋒らだった事実を挙げています。潜鋒については、第三章で改めてふれることにします。


崎門派・竹内式部に入門した公卿たち─朝権回復への期待

 正徳二(一七一二)年に新潟で生まれた竹内式部は、享保十三(一七二八)年頃に上京、徳大寺家に仕えました。享保十六年には若林強斎門下の松岡仲良(雄渕)に入門しています。式部は四年間程、雄渕に従学した後、雄渕の師でもあった玉木正英(葦斎)に就いたとされています。また、式部は強斎の望楠軒に出入りしていました。
 皇學館大学教授の松本丘氏は、元文四(一七三九)年の『日本書紀第一講義』を分析し、当時すでに式部が神道の諸秘伝を伝授され、門弟に神書を講ずるまでになっていたと指摘しています。
 昭和十八年に『竹内式部』を著した大久保次夫は、式部の学問は、國體を重んじ、大義名分を明かにし、皇室に帰一する思想を敷衍することにあったので、彼は単なる書斎的な学者ではなく、むしろ教育家的学者と呼ばれるべきだったと述べています。そして、式部の面目はこのような学説や思想を超えた人格、教育者としての感化力だったと説いています。宝暦八年までに、式部の門人は七、八百人に上っていました。
 式部の名声が広がると、公家衆の入門が相次ぐようになり、延享二(一七四五)年には徳大寺公城が、寛延二(一七四九)年には坊城俊逸が、同三年には西洞院時名が入門しています。さらに、宝暦年間に、高野隆古、正親町三条公積らが入門しています。
 さて、寛保元(一七四一)年二月二十九日に桜町天皇の第一皇子として誕生された桃園天皇は、延享四年九月二十一日、わずか七歳にして即位されました。桃園天皇の周辺には、関白に一条前左大臣道香、左大臣に近衛内前、右大臣に九条尚実、内大臣に鷹司輔平、武家伝奏に柳原前大納言光綱、廣橋前大納言兼胤らがいました。徳川将軍は九代家重、京都所司代は松平右京太夫輝高でした。
 式部は、皇室の式微を嘆き、なんとかしてかつての正しい姿に政治の形式を復さなければならないと考え、公卿に熱心に講義をしました。公城らは、桃園天皇が成長されるにつれ、皇室再興への期待感を高めていったのです。大久保次夫は次のように書いています。
 「徳大寺公城等の近習は、桃園天皇によつて、年来の懸案である王政復古の大業を成就せんものとの希望に燃え、垂加流の学説をば一心に天皇に対し鼓吹し奉つてゐたのである」
 しかし、関白道香らは公卿に対する式部の講義が幕府を刺激することになると考え、講義を中止させようと自ら動いたのです。
 公家に対する式部の期待の大きさは、現実の公家社会に対する鋭い批判となり、彼は「今の公家には真の公家は一人もいない」とさえ講じていました。平泉門下の鳥巣通明は、こうした式部の講義が、公家社会の保守的な感情と衝突したことは想像に難くないと書いています。
 宝暦六年には、式部が軍学、武術なども指南しているという風評が広がり、京都所司代が式部を審問するに至ります。ただ、この背景には吉田神道の存在がありました。吉田神道は、後土御門天皇の信任を受けて以来、その勢力を伸ばしていました。徳川幕府は神社・神職統制を強めるため、寛文五(一六六五)年に「諸社禰宜神主法度」を発布し、吉田神道の道統継承者、吉川惟足をその中心人物として起用しました。これにより吉田家は神職管掌の根幹と位置づけられました。この吉田家と主導権争いを演じていたのが、代々神祇伯を世襲し、宮中祭祀を司ってきた白川家です。
 吉田家当主の吉田兼雄は、朝廷内で垂加神道の名声が高まるのを苦々しく思い、式部批判を関白道香に吹き込んでいたのです。しかし、審問の結果、式部に特段問題なしとされ、第一回式部攻撃は宝暦七年正月二十三日に落着しました。

桃園天皇を脅した関白・近衛内前
 事件が簡単に落着したことから、式部の名声はますます高まっていったのです。式部の教えを受けた近習たちは、桃園天皇に対し奉り、さらに『日本書紀』神代巻の御進講を奏上したのです。神書御進講が実現したときの公城の感激は、彼の日記(宝暦七年六月四日)に鮮明に記されています。
 「四日主上日本紀を読ましめ給ふ。公城、(坊城)俊逸卿、(高野)隆古朝臣、(西洞院)時名朝臣等これを講ず。其の発端大意委細言上の処、天気特に快然。公城等誠感誠喜、感涙堪へ難く、各自其の手足の措く所を忘れたり。嗟呼上古神聖の伝ふる所、舎人親王の編する所、我が垂加霊社(山崎闇斎)の発揮、師翁(竹内式部)の親授、今日一日に天聞に達す。吾輩寸咫の精神空しからず、其の歓喜踊躍、豈に筆舌の能く尽すところならんや」
 公城らの心が高揚したこの時期に、式部は『奉公心得書』で次のように書いていました。
 「楠正成のことばに、君を怨むる心起らば、天照大神の御名を唱ふべしとあるも、天照大神の御恩を思ひ出さば、則其御子孫の大君たとひ如何なるくせ事を仰せ出さるゝも、始めより一命をさへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや」
 まさにこの言葉は、若林強斎が書斎を「望楠」と名付けた境地と同一のものです。近藤啓吾先生は、式部のこの言葉が、第一回の糾問では難を逃れたものの、再び御進講の志が挫折することも考え、自らその際の覚悟を固めるとともに、諸朝臣にも、その際の態度のいかにあるべきかを告げようとしたものであることが察せられると書いています。
 式部の懸念は現実のものとなりました。道香は再び神書御進講を問題視し始めたのです。宝暦七年三月に道香は関白職を辞し、近衛内前がその後任に就いていましたが、道香は同年七月には、公城らの処分に向けて動きを強めたのです。
 道香のほか、九条尚実も垂加流の御進講に反対の立場を明確にしていました。さらに、桜町天皇の女御、桃園天皇の嫡母である青綺門院は、垂加神道の「仏教排斥の傾向」を嫌っていたこともあり、御進講が垂加流だと知ると、神書御進講反対の意思を表明されました。
 関白内前は、当初弾圧に対して慎重な姿勢をとっていましたが、周囲の強硬論に押され、やがて高圧的姿勢に転じざるを得なくなっていきます。こうして同年八月、公城らに神書御進講中止が命じられたのです。ただ、神書御進講自体を不可とするのではなく、卑屈にも神書御進講を式部に漏洩したことが問題だという理屈をつけて中止を命じたのです。
 しかし、桃園天皇は神書御進講を続けようとされました。御進講に反対していた青綺門院に対面された折、「神書の儀は日本の根源に候。日本の主として日本のふみ御覧ならで、唐土の書のみ御覧候事如何に思召」と述べられています。翌宝暦八年に入ると、桃園天皇は、公城らによる進講が悪いならば、関白内前自ら神書を学び、関白から進講すればよいと述べられました。御進講反対派が狼狽したのは言うまでもありません。
 桃園天皇の固い意志を理解した青綺門院も態度を変え、ついに三月十五日、神書御進講再開が決まり、同月二十五日から西洞院時名が御進講を開始しました。当初、この事実は道香、尚実らの反対派には知らされませんでしたが、やがて彼らの知るところとなり、五月二十九日、道香は尚実、輔平らを率いて内前を訪問、厳重に詰問します。この結果、再び内前は御進講中止に向かいます。宝暦八年六月六日、内前は道香、尚実らによる中止奏上委任の一通を持って参内しました。
 天皇は、反駁されましたが、重臣挙っての反対とあっては、中止せざるを得ませんでした。六月七日、内前らは再び参内し、近習七名を「退けられ然る可き」旨を言上しました。天皇は、その理由はないと強調されましたが、宮廷内の大勢はもはやいかんともし難かったのです。
 内前は式部を追放するために、いよいよ幕府を動かそうとしました。先伝奏廣橋兼胤、柳原光綱は、内前の命によって京都所司代の松平輝高を訪れて、式部を糾問してもらいたいと頼みました。ところが、幕府側の反応は鈍かったのです。所司代は式部を召喚し、さらに家宅捜索をしたものの、武器調達などの証拠は見当たりませんでした。
 何としても式部の糾問を続行させたい摂家にとって幸運なことに、式部の門人だった右中弁日野資枝が式部糾明の材料を用意したのです。資枝は、式部を裏切り、式部門人や式部の講義内容などに関する情報を提供しました。
 道香が、垂加神道の相伝を得ていた兼輝の孫であったこととともに興味深いのが、正親町家の家督を継いだ正親町実連の立場です。彼は、式部と同様に松岡雄渕、玉木葦斎に教えを受け、若林強斎にも学んでいました。さらに式部の儒書講義を聴いたこともありました。そんな彼が、宝暦事件の際には、道香と同様に公城らの行動を批判し、処分を当然だと考えていたのです。
 これに関して、磯前順一・小倉慈司両氏は『近世朝廷と垂加神道』において、朝幕間の圧倒的な政治力の差をかんがみれば朝幕協調路線の上に立った「聖俗分掌論」を朝廷上層部が是とするのは、ごく当然の冷静な現実認識であろうと述べていますが、式部と公城らを排除した朝廷上層部の卑屈なやり方は、崎門の学風とは相容れないと思います。
 筆者には公城の生き方こそ、崎門にふさわしいものだったように感じられます。神道研究者の小林健三は、公城が妻を亡くしたり、持病に悩まされたりといった辛苦を重ねながら、信ずる道を進んだことについて、次のように書いています。
 「彼が地位、名誉を投げすてゝ道の為めに奮闘したことは、明かに遊戯的な立場からではなく、その信ずる道のために最も敬虔に自分を忘れて敢為行動したのである」
 だが、無残にも公城は敗北することになります。宝暦八年七月二十四日、内前らは参内し、公城らの処分案を捧呈し、陛下の御承引を強要したのです。畏れ多くも天皇から「せう事がない(仕方ない)」との言葉を無理やり引き出したのです。結局、公城らは永蟄居となりました。この処分を聞いた公城は「姦臣の朝家を誤る、このごとき、その甚だしきか」と書き遺しています。
 桃園天皇は宝暦十二(一七六二)年に、わずか二十二歳で崩御されました。それからおよそ百三十年後の明治二十四(一八九一)年十二月十七日、公城の名誉は回復され、従一位の追贈を受けました。

時の権力が危険視する國體思想

 一方、式部は宝暦八年六月二十八日から京都町奉行所で糾問され、翌九年五月六日に京都追放という厳しい処罰を申し渡されます。この申し渡しを前に、宝暦八年十月、松平輝高は老中に転じ、京都所司代には井上正経が就いていました。
 式部自身が残した「糾問及第」には講書として「四書・五経・日本紀・小学・近思録・家礼・靖献遺言」が挙げられていました。
 さらに興味深いことに、「靖献遺言の儀、兼ねて聞及ばれ候。是は垂加流の軍書と聞き及ばれ候故、遺言の趣意大概申し上げ、軍書に無之段申し上げ候へば」とあります。当初、町奉行が『靖献遺言』を軍書と考えていたというのもお粗末な話ですが、引き続き『靖献遺言』講義が問題になったことは間違いありません。事実、『靖献遺言』に「興復」「再復」の文字が度々出てくることが糾問でも問題視され、『靖献遺言』を講義したこと自体が有罪の理由の一つに挙げられました。
 『靖献遺言』が、君のためには一身を捧げ奉らなければならないという道理、つまり君臣の大義を実例で示し、その実践を求める書であるとすれば、そこから皇政復古のための実践が導き出されるのは当然のことです。
 しかも、式部の講義は、崎門らしく実践を促すような性格のものだったようです。大久保次夫は、式部の講義は単なる講釈ではなく、古をひいて今を論じたものであり、これから察しても講義に一段の精彩があったことが察せられると書いています。
 鳥巣通明は、式部と同時代の崎門学者との違いは、熾烈な現実的関心であり、現実を批判する勇気であったとし、この点こそが、式部と山崎闇斎、浅見絅斎、若林強斎との精神的血縁を確認させるものだと書いています。

引き継がれた式部の無念
 式部を糾問した者が彼の講義の本質を理解したとすれば、それが幕府にとって危険思想であることは即座にわかったはずです。しかし、幕府にとっては危険であっても、それは誰も否定できない尊い國體思想だったのです。誇るべき國體思想が時の権力にとって危険思想の烙印を押されることは、わが国においても度々あったことです。この鋭い矛盾に悩むのが、取り調べに当たる当事者です。
 平泉澄は『首丘の人 大西郷』において、「審理に当つた所司代と奉行とは、式部との問答のうちに、その人物学識の高く清きに感動し、尊敬の念を禁ずる事が出来なかつたのであらう。しかも幕府中枢部に於ては、京都制圧の根本方針儼然として動かず、断乎として式部の追放を命じたのであらう」と書いています。
 近藤先生も、審問において、尋問者には式部に対する尊敬の念が生じ、自然その態度も親切丁寧になったが、それでも厳しい処罰が下った理由について、幕府はこの事件が「幕府の存在意義の根本を揺るがすものである」と考え、糾問の責任者所司代(松平輝高)を更迭して、厳重に処罰させたと推測しています。
 さて、京都を追放された式部は伊勢の国宇治へ赴き、なおも講義を続けました。宝暦十二(一七六二)年か十三年頃、伊勢で行われた式部の『中臣祓講義』が残されています。倉田藤五郎氏によれば、皇室の崇敬尊重を説く姿勢は事件前といささかも変わらないものであり、これが幕府としては放置できなかったと考えるしかないとしています。式部は再び弾圧されねばならなかったのです。
 このような中で、明和四(一七六七)年三月に明和事件が起こります。この事件については、次章で詳しく述べることにしますが、式部は明和事件に連座して捕まり、疑いが晴れたにもかかわらず、追放中の身で京都に立ち入ったのは不都合として、八丈島遠島処分とされたのです。そして、護送途中の明和四年十一月二十日、三宅島に上陸したところ、病のため、同年十二月五日死去しました。享年五十六歳。
 式部の無念、そして公城らの無念を知る者たちの魂は絶えることなく引き継がれ、やがてそれは幕末の尊皇討幕運動を支えていくのです。
(坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』より)

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