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五十嵐智秋「忘れられた日中友好に取り組んだ政治家・木村武雄」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー、令和4年10月29日)

 戸川猪佐武の『小説 吉田学校』には、四十日抗争(大平正芳と福田赳夫の派閥争い)を仲介する役として、田中(角栄)派の木村武雄(「元帥」のあだ名を持つ)が出てくる。それだけ永田町では「円満」な人柄として慕われていたのだろう。評者もその程度しか認識が無かった。
 今回、坪内氏が「木村武雄の日中国交正常化」に焦点を当てた事で、自民党内の派閥争いを調停する長老役としてだけでなく、西郷隆盛から石原莞爾へと続く「王道アジア主義」を木村武雄が体現しようとしていたことが理解できる。それは昭和47年の田中角栄内閣における日中共同声明が木村武雄の「影武者」的活躍があったればこそである。
 しかし、明治以降・戦前の時代背景も有るが、どうしても大陸(中国・支那)との友好が強調され、台湾(国民党)との関係性があまり出てこないのが残念であった。田中角栄の日中共同声明における台湾問題については、田口仁氏の「田中角榮と中国ー日中共同声明と台湾問題」(『維新と興亜 創刊号』)に譲りたい。また、概要的な台湾問題については小林よしのり氏の『台湾論』などもあるので、今後も研究を深めたいと思っている。

アジア主義に関する新聞記事(2015年~)

 近年、新聞がアジア主義に関連する記事を掲載することは滅多にない。
 以下にその僅かな記事を紹介する。

見出し 発行日 新聞名
<時評 論壇>中島岳志*国際秩序貢献の「アジア主義」を 2022.04.26 北海道新聞朝刊全道 6頁
アジア主義の可能性探る 2022.02.04 沖縄タイムス朝刊 24頁
大アジア主義講演会の地」プレート 今も重い、孫文の言葉 2018.10.08 毎日新聞地方版/兵庫 25頁
孫文国際会議 神戸で 生前「大アジア主義」講演 2018.09.12 読売新聞大阪朝刊 27頁
弘前 28日にシンポジウム「明治アジア主義と東北・津軽」 2018.04.24 東奥日報朝刊 15頁
きょうの歴史 孫文の「大アジア主義」講演 1924(大正13)年11月28日 2015.11.28 東京新聞朝刊 31頁
経済、文化、タイと蜜月 日本人「兄貴分」と頼りに [第4部]「アジア主義の虚実」 2015.09.08 熊本日日新聞朝刊
中国、怒とうの経済支援 アジア太平洋 盟主への道へまい進 [第4部]「アジア主義の虚実」 2015.08.14 熊本日日新聞朝刊
日本中心の「夢」に限界 大川周明の理念 解放掲げ侵略正当化 [第4部]「アジア主義の虚実」 2015.07.23 熊本日日新聞朝刊
生き続けた謀略の人脈 対ミャンマー「利用」と「協力」 [第4部]「アジア主義の虚実」 2015.07.09 熊本日日新聞朝刊
アジア主義の虚実(4) 盟主を狙う中国 経済力で勢力を拡大 2015.06.22 信濃毎日新聞朝刊 4頁
アジア主義の虚実(3) 荒波かわし日韓で起業 無言貫くロッテ創業者 2015.06.08 信濃毎日新聞朝刊 4頁
アジア主義の虚実(2) 欧米から解放唱えた支配 2015.06.01 信濃毎日新聞朝刊 4頁
アジア主義の虚実(1) 戦時から「利用」と「協力」交錯 2015.05.25 信濃毎日新聞朝刊 4頁

アジア主義関連文献(雑誌記事、2015年~)

著者 タイトル 雑誌名 発行日
関 智英 孫文大アジア主義演説再考―「東洋=王道」「西洋=覇道」の起源 竹村民郎著作集完結記念論集 2015
木村 実季 孫文の「大アジア主義」講演をめぐる解釈論について 中日文化研究 2015
尹 虎 1919年前後における日中「アジア主義」の変容と分極の諸相 国際日本学 2015-01-30
佐々 充昭 近代日本の大アジア主義と大同思想-満州国の「王道主義」を中心に- 韓国宗教 2016
劉 金鵬 アジア主義における「平和」の発見 : 戦時中竹内好のアジア主義的活動に関する考察 ぷらくしす 2016
嵯峨 隆 宮崎滔天とアジア主義 国際関係・比較文化研究 2016-03-01
三浦 周 近代仏教学とアジア主義 大正大学綜合佛教研究所年報 2016-03
堀田幸裕 東亜同文書院の「復活」問題と霞山会 同文書院記念報 2016-03-31
李 長莉 宮崎滔天と孫文の広州非常政府における対日外交 —何天炯より宮崎滔天への書簡を中心に— 同文書院記念報 2016-03-31
安井 三吉 孫文「大アジア主義」講演と神戸 孫文研究 2016-06
クライグ・A スミス、団 陽子 王道 : 孫逸仙のアジア主義と東アジアの民族主義への応用 孫文研究 2016-12
木村 実季 近衛文麿「東亜新秩序」と孫文「大アジア主義」との接点 中日文化研究所論文集 2017
土佐 昌樹 日韓関係とナショナリズムの「起源」(3)夢野久作と「狂気」の萌芽 AJJ 2017
大堀 敏靖 頭山満・大アジア主義 : その現代的意義を探る 群系 2017
武内房司 大南公司と戦時期ベトナムの民族運動 : 仏領インドシナに生まれたアジア主義企業 東洋文化研究 2017-03
クリストファー・W・A・スピルマン アジア主義の起源とそのイデオロギー的位置付け EURO-NARASIA 2017-03
山之城有美 「煩悶」の源流としてのアジア主義:『順逆の思想-脱亜論以後-』を素材として 日本女子大学大学院人間社会研究科 2017-03-22
松浦 正孝 財界人たちの政治とアジア主義 : 村田省蔵・藤山愛一郎・水野成夫 立教法学 2017-03-25
野村 幸一郎 大川周明のアジア主義 : 国際検察局尋問調書を起点として 言語文化論叢 2017-09
峯 陽一 「南」の地政学 : アジア主義からアフラシアの交歓に向かって 現代思想 2017-09
宮本司 竹内好「アジア主義の展望」における“民族”について -林房雄の“民族”観を媒介として- 教養デザイン研究論集 2017-09-08
福家 崇洋 帝国改造の胎動 : 第一次大戦期日本の国家総動員論とアジア主義 社会科学 2017-09-11
福井 紳一 反逆のメロディー(第5回)橘樸と左翼アジア主義 : 「東亜」の新体制を提起する廣松渉の絶筆に寄せて 出版人・広告人 2017-10
高埜健 近現代日本のアジア主義に関する一考察――征韓論から東アジア地域主義まで(一) アドミニストレーション 2017-11
福井 紳一 反逆のメロディー(第6回)尾崎秀実と世界革命 : 東亜協同体論と左翼アジア主義 出版人・広告人 2017-11
渡辺 新 方法としての大アジア主義 : 東亜研究所時代の平野義太郎 政経研究 2017-12
橋本 順光 英国公文書館所蔵の大川周明「日本における汎アジア主義の精神」翻訳及び解題 阪大比較文学 2018
加納 寛 東亜同文書院生の香港観察にみる「アジア主義」:対イギリス認識を中心に 文明21 2018-03-25
田中 希生 アジア主義について : 武士と大陸浪人 人文学の正午 2018
梶原 英之 アジア主義のロゴスとカオス 日本主義 2018
笠井 尚 アジアの解放のために日本の変革を説いた大川周明 日本主義 2018
小野 耕資 思想としての「アジア主義」を考える 日本主義 2018
李 彩華 頭山満のアジア主義 哲学と現代 2018-02
原田 敬一 東学農民運動と日本メディア 人文學報 2018-03-30
中野 聡 アジア主義 : 記憶と経験 現代思想 2018-06
馬場 毅 問題提起 : 東亜同文書院,アジア主義,対日協力政権 現代中国研究 2018-07-21
嵯峨 隆 樽井藤吉と大東合邦論 : 日本の初期アジア主義の事例として 法學研究 2018-09
劉 争 竹内好のアジア主義からの再発見 : 現代日中知識人の思考 神戸山手大学紀要 2018-12-20
嵯峨 隆 思想 第一次世界大戦と日中アジア主義 近代中国研究彙報 2019
王 美平 小寺謙吉の大アジア主義についての一考察 -その中国観を手掛かりに- アジア太平洋討究 2019-01-31
李 彩華 梁啓超と章炳麟のアジア主義言説 : 近代日本のアジア主義への対応の視点から 哲学と現代 2019-02
深町 英夫 同文同種? 孫文のアジア主義言説 孫文研究 2019-03
邱 帆 榎本武揚のアジア主義と対東アジア外交 日本歴史 2019-04
楽 星 帝国日本の大乗的使命 : 大正期における大谷光瑞とアジア主義 近代仏教 2019-05
李 凱航 高山樗牛と人種・黄禍論 : アジア主義への接近 史学研究 2019-10
戴 國煇 アジアの中の日本 : 「脱亜論」と「大アジア主義」を重ねて読み直し、再考したら!? myb 2019-10
滝口 剛 東方文化連盟 : 一九三〇年代大阪のアジア主義 阪大法学 2019-11-30
浦田 義和 オリエンタリズムとアジア主義 比較文化研究 2020
呉 舒平 孫文のアジア主義と新中国(1)日中提携の模索と中国興業会社の設立 法学論叢 2020-06
呉 舒平 孫文のアジア主義と新中国(2)日中提携の模索と中国興業会社の設立 法学論叢 2020-09
高埜 健 近現代日本のアジア主義に関する一考察 : 征韓論から東アジア地域主義まで(2・完) アドミニストレーション 2020-11
呉 舒平 孫文のアジア主義と新中国(3・完)日中提携の模索と中国興業会社の設立 法学論叢 2020-12
川上 哲正 日中の狭間にアジア主義を考える 初期社会主義研究 2021
シナン レヴェント 戦後日本の対中東外交にみる民族主義 : アジア主義の延長線 国際政治 2021-03
モルヴァン・ペロンセル 日清戦争以前の政教社の言説におけるアジア主義 ―国粋主義との関連について― 中京大学国際学部紀要 2021-03-19
アドム ゲタチュー アジア主義からナショナリズムへ : アジアにおける革命運動の変遷 Foreign affairs report 2021-09
呉 舒平 辛亥革命前の犬養毅のアジア主義(1)中国保全と経済的日中提携論 法学論叢 2021-12
劉 金鵬 1960年代における革命理想とアジア主義 : 竹内好のアジア論を中心に 広島大学文学部論集 2021-12-25
玉置 文弥 「宗教統一」とアジア主義 : 大本教と道院・世界紅卍字会の連合運動「世界宗教連合会」の活動実態から 宗教と社会 2022
何 金凱 近代日本アジア主義とその中国における受容と再解釈 ─李大釗の「新アジア主義」を中心に─ 愛知論叢 2022-02-01
呉 舒平 辛亥革命前の犬養毅のアジア主義(2)中国保全と経済的日中提携論 法学論叢 2022-02
呉 舒平 辛亥革命前の犬養毅のアジア主義(3・完)中国保全と経済的日中提携論 法学論叢 2022-03
劉 重越 大阪アジア主義の理想と現実 : 1934年清水銀藏の中国旅行を中心に 東アジア文化交渉研究 2022-03-31
堂園 徹 中華からの風にのって(224)アジア主義 Verdad 2022-05
小野 耕資 風土と共同体に基づく経済(30)古神道の歴史(5)田中逸平の信仰とアジア主義 国体文化 2022-07

唐崎家を支えた吉井家の歴史

 唐崎定信は闇斎が「道は大日孁貴の道、教は猿田彦神の教」と説き、猿田彦神を祭ることとした教えにしたがい、竹原市本町にある長生寺に庚申堂を建てた。その時、定信に協力したのが、吉井半三郎当徳(まさのり)であった。
庚申堂(長生寺)
 吉井氏の先祖は、豊田郡小泉村に住んでいた小早川氏の家臣吉井肥後に遡る。寛永の初め頃、その子源兵衛が竹原下市に移住し、米屋を営み、さらに質屋も営んで財を蓄えた。源兵衛は、慶安三(一六五〇)年、竹原に塩田が開かれると、いち早く塩浜経営に乗り出し、吉井家の基盤を築いたのである。明暦三(一六五六)年には、二代目米屋又三郎が年寄役に任ぜられている。これ以降、吉井家は代々年寄役を務めることとなる。
 唐崎定信が闇斎に学び、竹原に戻った延宝四年頃、吉井家の当主は三代目の当徳であった。唐崎家と吉井家は、定信・当徳の時代から崎門学を通じた深いつながりがあったということである。しかも、定信の後を継いだ清継の妻は吉井家から嫁いでいる。
 清継の子の信通や彦明、さらに孫の赤斎の遊学費用を、吉井家が負担していた。唐崎家は代々師について崎門学を学んだが、それは吉井家の支援があったからこそ可能だったのである。例えば、信通は、谷川士清や松岡仲良の塾に入門し、彦明は三宅尚斎の門に入り、赤斎もまた長期間に亘って谷川士清や松岡仲良に学んだ。
 吉井家もまた、唐崎家を支援するだけではなく、崎門学を学んだ。一族の吉井正伴(田坂屋)は玉木葦斎に学び、葦斎の歿後は松岡仲良に学んでいる。また、同族の吉井元庸(増田屋)も松岡仲良に学んでいる。六代目米屋半三郎当聰は、十五歳の時から闇斎の高弟植田艮背に従学していた。だからこそ、当聰は赤斎の精神を理解し、庇護者として彼の活動を助けたのである(金本正孝「唐崎赤斎先生碑の建立と吉井章五翁」)。

唐崎赤斎が刻印した「忠孝」の二文字

 唐崎定信が闇斎から授けられた「忠孝」の二字は、唐崎家の宝として受け継がれ、赤斎は、明和三(一七六六)年頃、礒宮八幡神社境内の千引岩(ちびきいわ)に、この「忠孝」の二文字を刻印したのである。
忠孝石碑(礒宮八幡神社)
 赤斎が自決する前年、寛政七(一七九五)年八月に仲村堅は「忠孝石碑並びに銘」と題して次のように書いている。
 宋南遷の後国勢稍(やや)蹙(しゅく)す有り。天驕(てんきょう)(匈奴)日に横たう当に此時なるべし。恢復を欲し王室を張皇(ちょうこう)す。而して能く其事をする者。李綱・岳飛・文天祥・張世傑の数人の輩のみ。然(しかれ)ども其の義気忠烈は天祥の右に出る者無し。其の行状史書に載在(さいざい)す如し。是に以て贅(ぜい)に及ばず。我芸(げい)の鴨郡竹原。応皇の別廟有り。五十宮(礒宮八幡神社)と称す。前面は海。後は山を負う。巍々(ぎぎ)とした宮殿なり。鬱々(うつうつ)とした林木。真に以て奇勝と為す山麓に一巨石有り。信国公文天祥書す所忠孝二大字を刻む。祠官唐赤斎石工を使わして刻ましむ也。字大三尺許り。端厳遵勁後人(たんげんしゅうけいこうじん)の及ぶ所に非ず。蓋し信国公の忠烈然りと之使う所となすか。初め赤斎氏の祖父隼人京師に遊学し、闇斎先生の門に業を受く。高第の弟子に為る。先生嘗て某侯の門に遊ぶ。席上夫(か)の忠孝二字の真を観る。乃ち請う之の影書を。以て其家に蔵すと。隼人君師資の誼を以て、又請う之が影書を。扁額を作り、以て家珍に為す。既にして赤斎氏以為(おもえ)らく扁額之壊れ易し。石に刻めば之に勝りたるに如かず。是に於いて上石を遂ぐ。永(とこし)えに子孫に伝えて不朽ならん。嗚呼赤斎氏の挙。上(かみ)は志に父祖を継ぎ、下(しも)は謀 子孫に貽(のこ)す。延べば他人に及ぼし、是詩の謂う所の、孝子匱(とぼし)からず永く爾(それ)類(たぐい)を錫(たま)う者(こと)か。旦其端厳遵勁(たんげんしゅうけい)。覧者(みるもの)をして信国公の人となりを髣彿せしむ。千万世の下(もと)。則ち其功亦偉ならず哉。余郡の耳目官(じもくのかん)と為す。拝謁五十宮。此に於いて寓目に与る実感す信国公の忠烈を。且つ嘉(よみ)す赤斎氏の盛挙を。是に於いて記し以て贈と為す。作を遂げ銘し曰く。
 応皇の鎮まる所 維(こ)れ海の浜 魚塩(ぎょえん)(海産物)利有り
 茲に民聚(あつま)る 賈舶(こはく)岸に泊す 巨室(きょしつ)比隣す
 維(これ)山の麓なり 盤石嶙峋(りんしゅん) 石工鐫(せん)する所
 筆勢絶倫なり 此文公に況(たと)えん 宋の名臣に有り
 遵勁(しゅうけい)にして飛動 端厳(たんげん)なる精神 名下(なのもと)に虚(むなし)からず
 佳手珎なるべし 維れ此の唐氏 祖親の志を継ぐ
 胎厥(たいけつ)(子孫)不朽 延べば他人に及ぼし 華表(鳥居)直立す
 神宮奐輪(かんりん) 幾千万世 奉祀明神(ほうしめいしん)

闇斎が唐崎定信に与えた文天祥「忠孝」の二文字

 蘇峰は、唐崎赤斎顕彰碑撰文をきっかけに崎門学に傾倒していった。大きな転機となったのが、竹原を訪問し、崎門学と竹原のゆかりを目のあたりにしたことである。
 唐崎赤斎の祖先定信は礒宮八幡神社神官だった。定信は万治元(一六五八)年に、磯宮八幡宮を古宮山から現在の竹原市田ノ浦に移転建設した中興の祖と言われている。
 この定信こそ、竹原に垂加神道を広めた最初の人であつた。定信は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に上京し、山崎闇斎に師事し、垂加神道を学んだのである。定信が闇斎に宛てた誓文が残されている。
 一 神道御相伝の御事誠に有難き仕合せ恩義の至り忘れ申す間敷事
 一 以て其の人に非ざれば示すべからず堅守し此の訓を御許可無きに於いては猥りに口を開き人に伝へ申す間敷事
 一 畏国の道習合附会仕る間敷事
 右三ヶ条の旨相背くに於いては
 伊勢八幡愛宕白山牛頭天王、殊に伊豆箱根両所権現、惣て日本国中大小神祇の御罰相蒙る者也
  延宝三年乙卯十一月十九日
        柄崎隼人藤原定信
 山崎加右衛門様

 定信は闇斎に自ら織った木綿布を贈った返礼に、闇斎から文天祥筆の「忠孝」の二大文字を授けられた。木綿布に対する闇斎の礼状も残されている。
 「見事木綿壱疋御送給、遠路御懇意之到、過分二存候、我等弥無事可被心安下被」(見事な木綿壱疋御送り給い、遠路御懇意の到り、過分に存じ候、我等いよいよ無事、安心下さるべく候)
 金本正孝は、闇斎のこの書状(縦十四センチ・横三十センチ)は、延宝四年に書かれたものと推定してゐる(「世に知られざる唐崎士愛の生涯」『芸林』第四十五号第二号)。
闇斎が唐崎定信に送った礼状

「アジアとの関係を最も重視した政治家」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー、令和4年11月8日)

 以下、「アジアとの関係を最も重視した政治家」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー、令和4年11月8日)を紹介します。

 本書は木村武雄氏が日中国交正常化にどのように尽力したかが描かれていますが、個人的にはインドネシアとの関係の深さ、とりわけスハルト大統領(当時)との関係が印象に残りました。御子息の莞爾氏が中断されていた陸軍第三十六師団の遺骨収集再開スハルト大統領に直訴し、すぐに実現したのは、武雄氏とスハルト大統領との間に深い信頼関係があったからこそだと感じました。
混沌とする世界の中で、「王道アジア主義」とは何か、そして21世紀におけるアジア主義をどのように構築していくか、考えさせられる一冊です。

広沢安任氏「永久平和の先駆」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー、令和4年10月22日)

以下、広沢安任氏の「永久平和の先駆」(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』レビュー)を紹介します。

 木村武雄という有力な代議士がいたことを知っている人は決して多くない。木村は石原莞爾の王道アジア主義の継承者である。同じ山形県の出身でもあり、木村は戦前より東亜連合の思想に惹かれ、石原の門下生となっている。木村は、歴史の方向性を変える変革者として、石原をナポレオン、レーニンと並ぶ逸材と評している。石原没後暫くした後に著作として世に問うている(木村武雄著 ナポレオン レーニン 石原莞爾 近世史上の三大革命家)。
 石原莞爾ほど誤解されている人物は珍しい。満州事変の謀略を実行した張本人とされている為だが、死去する際には永久平和の実現に進むべきことを提唱している。
 石原には有名な「世界最終戦論」という著作があるが、多くの評論などでは真実が正しく伝えられていない。終戦後、山形県庄内地方の鳥海山麓で石原と共に農場を創設した武田邦太朗は次のように骨子を適切に纏めている。
「世界を二分する大勢力が領土や資源を目的とせず、主義の勝敗をかけ、開戦と同時に勝敗の決まる徹底した決戦戦争を、人類の最後の戦争として戦う時期は切迫している。最終戦争なしに、永久平和が実現すれば、これに越したことはないが、世界の現実を直視すれば最終戦争不可避の公算が大きい。故に日本は最終戦争の一方を担うという発想の元に、東亜諸国と心から手を握り、国土計画を始め一切の準備を整え、戦争の悲惨さに耐えつつ公正な世界平和の実現を期すべき時である」
 しかし、その目論見は外れ、日本は敗戦国となり、石原が述べた最終戦争は米国とソ連の間で行われるであろうと予測した。日本はそのどちらにも加担せず、国際世論をリードして、世界最終戦争を回避しつつ、平和へと導く役割を担うべきとした。そして、石原は戦後の日本復興を見ることなく、「身に寸鉄を帯びず」という言葉を残して昭和24(1949)年に亡くなった。其の最後を看取った一人が武田邦太朗だった。戦後は現実政治にも携わったが、晩年は石原の郷里の山形県庄内地方に戻り、石原の墓守として静かに過ごした。
 世界は石原の予測の通りに米ソの冷戦時代に突入した。ところが、その一方であったソ連は、自ら崩壊した。残念ながら、その過程において石原が求めたような日本が大きな役割を果たすことはなかった。石原は21世紀の初頭には永久平和が訪れる旨を予言したが、その兆しは全くない。米ソの冷戦構造が崩壊したことによって、それまで均衡を保っていた国家間のバランスが崩れ、民族主義や原理主義、国家主義が台頭して今日を迎えている。そして現在は、ソ連に代わって中国が経済的も軍事的にも肥大化して、米国との新たな冷戦構造を作ろうとしている。
 最近は中国に対しては、厳しい眼差しが向けられている。香港における民衆運動の弾圧や台湾有事の懸念、中国国内の人権弾圧などを考えれば当然と言えよう。しかし、この混迷極まる状況下であるからこそ、日中関係の歴史を俯瞰してみる必要性があるのではないか。日中国交正常化における裏方での木村武雄の尽力を知る人は少ない。坪内氏は王道アジア主義を基盤とした視点に立ち、丁寧に石原莞爾と、その思想の継承者である木村武雄を描き切っている。本著は一人でも多くの人に読まれるべきである。

山崎行太郎氏「石原莞爾と木村武雄。……坪内隆彦著『木村武雄の日中国交正常化』を読む」(令和4年11月7日)

 以下、山崎行太郎氏の「石原莞爾と木村武雄。……坪内隆彦著『木村武雄の日中国交正常化』を読む」(令和4年11月7日)を紹介します。

 今年は、《日中国交正常化50周年》を迎え、記念式典も開催されたようだが、田中角栄内閣時代に実行された、この《日中国交正常化》という歴史的イベントをめぐっては、その評価は大きく分かれているようだ。本書の著者=坪内隆彦は、《王道アジア主義》という理念の元に、それを高く評価している。王道アジア主義とは、《覇道の原理でアジアに迫る欧米の勢力を排除し、王道の原理に基づいたアジアを建設する》ということだ。この王道アジア主義は、石原莞爾や西郷南洲、頭山満等の思想にも通じる。こういう立場は、現在の日本では、おそらく少数派かもしれない。現在、日本の政治状況は、 安倍晋三や安倍晋三シンパ、あるいは《ネットウヨ》が象徴するように、米国主導の中国敵視政策、中国包囲網作りの渦中にあり、とても《日中国交正常化50周年》を、素直に祝う雰囲気ではない。その意味では、本書は、反時代的な書物ということになるかもしれない。しかし、坪内隆彦は、そういう近視眼的な歴史感覚ではなく、《王道アジア主義》という大きな歴史哲学の元に、 《日中国交正常化50周年》を捉えようとしている。
 そこで、彼が着目するのは石原莞爾と木村武雄である。特に、田中角栄内閣で、《日中国交正常化》に向けて奔走した木村武雄という政治家に着目する。私も、木村武雄という自民党政治家のことは知っていたが、その政治思想としての《王道アジア主義》のことも、田中角栄内閣で、《日中国交正常化》に奔走したことも知らなかった。木村武雄は、石原莞爾と同郷の山形県米沢の出身であり 、若い時から、石原莞爾の《王道アジア主義》に共鳴し、石原莞爾に私淑し、石原莞爾亡き後は、石原莞爾の遺志を受け継ぐべく、あくまでも裏方として、《王道アジア主義》実現に向けて尽力、奔走していたというわけだ。
 実は、坪内隆彦氏は、私も「顧問」として参加し ている民族派右翼の思想雑誌『維新と興亜』の編集長である。『維新と興亜』を舞台に編集長の坪内隆彦氏だけでなく副編集長の小野耕資氏、発行人の折本龍則氏……等も、自民党=統一教会的な《ネットウヨ》とは一線を画した、反米愛国的な、あるいは反統一教会的な《民族派右翼》とでも言うべき立場から論陣を張っている。
 本書は、自民党的保守や自民党的右翼、《ネットウヨ 》的保守、あるいは《ネットウヨ 》的右翼とは、思想的次元の異なる《 保守》や《 右翼 》というものが存在することを、明晰に明らかにしている。《 中国敵視政策》も《中国包囲網作り》も、日本の伝統や文化を守り、日本国民の人権と国益を守る道ではない。

近松家と赤穂義士

■知られざる尊皇思想の発火点・尾張藩
 尾張藩が水戸藩と並ぶ尊皇思想の発火点となったのは、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」が脈々と継承されたからである。
「王命に依って催さるる事」は、事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
 この義直の遺訓は、第四代藩主・徳川吉通(在任期間:一六九九~一七一三年)の時代に復興し、明和元(一七六四)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて十九世紀半ば、第十四代藩主・徳川慶勝の時代に、近松茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。
 ここで注目したいのが、近松家と赤穂義士の関わりである。もともと、近松茂矩が学んだ崎門学においては、赤穂義士の行動を肯定する議論が展開されていた。もちろん、崎門学派の中でも佐藤直方のような否定論はあったが、浅見絅斎は「四十六士論」において、義士の行動を称えていた。そして、勤皇の志士の中には、赤穂義士の行動に尊皇反幕の思想を読み取ろうとする者もいたように見える。
 赤穂事件は、吉通が藩主に就任してまもなくの元禄十四(一七〇一)年三月十四日に起きた。浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で、高家の吉良上野介義央に斬りかかった。将軍・綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹に処せられた。これに対して、翌元禄十五年十二月十四日夜、家臣の大石内蔵助良雄以下四十七人が、江戸の吉良邸に討ち入りしたのだ。
 縁者である近松勘六(行重)が赤穂義士の一人だったこともあり、茂矩にとって赤穂事件は極めて重い意味を持っていた。勘六は、討ち入りの際、表門隊の一員として早水藤左衛門らと屋外で奮戦、泉水に転落したが、ひるむことなく敵を斬り伏せたという。勘六の兄弟の奥田定右衛門も義士の一人であった。

■近松勘六と山鹿素行
 令和二年二月には、大アジア研究会代表の小野耕資氏、樽井藤吉研究者の仲原和孝氏と共に大津に赴いた際、勘六旧邸を訪れたが、残念ながら邸宅内の見学は叶わなかった。
近松勘六旧宅
 令和四年十一月三日の明治節の日、『維新と興亜』同人で泉岳寺を訪れ、勘六のお墓にお参りすることができた。
近松勘六墓
 ここで注目すべきは、勘六が山鹿素行の思想に学び、尊皇思想に目覚めていたことである。素行は、元和八(一六二二)年八月に生まれ、林羅山に朱子学を、小幡景憲、北条氏長らに甲州流兵学を学んだ。寛文五(一六六五)年に『聖教要録』で朱子学を批判し、赤穂藩浅野家預けとなった。
 「聖人の学を志すときは聖人を師とす」(『山鹿語類』)とあるように、素行が志した学問は「聖学」、すなわち「聖人」の学問であった。当初彼は、中国の聖人、孔子とそれ以前の十聖人(伏義・神農・黄帝・堯・舜・禹・湯・文・武・周公)を聖人として崇めた。やがて彼は、聖人たる根拠を求めていく過程で、神を聖人と同一視するようになり、日本の神々こそ「聖人」であり、「往古の神勅」をはじめとする遺教こそ「聖学」・「聖教」の渕源であり、神道こそ「聖道」である、という考え方を固めるに到った。こうして彼は、儒学に匹敵するわが国の「聖教」を導き出すべく、『日本書紀』が伝える神勅と向き合ったのだ。
 そして素行は寛文九(一六六九)年に『中朝事実』を著し、易姓革命のない日本こそが中華であると言い切った。「中朝」とは日本を指している。
 素行は、神武天皇が群臣に詔して、「ここに謹んで天位に即き、国民を統治し、アマテラス及びタカミムスビがこの国を授け給うた御徳に沿い、ニニギノミコトが降臨されて、正道を中心として人民を導かれた御心をさらに天下に弘めたいと考える」と仰せられたことを重視していた。また、第十代・崇神天皇が即位四年の冬十月に下された詔について、素行は、天子が皇位を私有視することを戒められたものであり、永遠の皇室の御繁栄を基礎づけられたものと拝察できると書いている。さらに素行は、「民のかまど」の逸話に示される仁政で知られる第十六代・仁徳天皇について「御身に並々ならぬ節約を守られ、国民を裕福にさせて、頼るべき人のない哀れな者を救って、国民の貧富は、そのまま帝王の貧富だとされた」と述べている。
 勘六が素行の国体思想を継承していたことは、西村豊の『赤穂義士修養実話』に、「原惣衛門(近松勘六)は大石内蔵助の四天王にて義挙に貢献したことは云ふまでもないが、近松勘六の一美事として見るべきは、山鹿素行の遺著なる山鹿語類を愛読した点である」と書かれていることから明らかだ。
 西村は、勘六が郷友に送った手紙に「山鹿語類、武教要録の儀、先其許へ御指置可被下候」とあることを指摘し、こう続ける。
 「義士中にありて山鹿に親炙せしものは原惣右衛門、間喜兵衛の二人のみ、此は山鹿日記に見えて居る、其外大石内蔵助始め四十七士は山鹿の感化を得る所ありしあらんも、其の得し所のもの如何なる順序を以てせるか又如何なる書物に依りて得たるか今明かに之れを知ることが出来ないが、勘六の如きは間接と云ひながら、此の手紙によるときは彼は山鹿の尤も心力を注ぎし語類を蔵すれば、之を愛読したのは明白である」
 一方、『天津日を日神と仰ぎ奉る国民的信仰に就いて』などを著した丸山敏雄は、「大石内蔵助が、その大業成就の最大動因は、その師山鹿素行先生に享けた『中朝事実』にあらはれた国体観念であり、山鹿流軍学にうけた日神の信仰でなければならぬ」と述べている。大星伝を受容していた近松茂矩は、素行から勘六や大石に伝えられた国体思想と不可分の「日神(天照大神)信仰」、そして大星伝に強く共鳴するところがあったに違いない。
『義士四十七図 近松勘六行重』(尾形月耕画)
 赤穂義士十七回忌にあたる享保四(一七一九)年、片島武矩が編纂した『赤城義臣伝(太平義臣伝)』が刊行されている。その首巻には、義士の図像が掲載されているが、勘六の図像の賛を書いたのが茂矩であった。
 また、茂矩は赤穂義士の一人で、名古屋出身の片岡高房(源五右衛門)に対しても特別な思いを抱いていた。茂矩の『昔咄』には、「内匠頭大変の時、源五右衛門、始めから義心鉄石の如くにて、四十七人のなかにて勝れたる者なり」と記されている。