「日本文学の伝道師キーン」を生んだ角田柳作

 コロンビア大学唯一の「先生」
 半世紀以上にわたって日本文学を研究してきたドナルド・キーン氏が、二月二十四日に東京都内の病院で亡くなった。九十六歳だった。彼は東日本大震災をきっかけに日本国籍を取得していた。
 日本文学の伝道師キーンの誕生に、ある一人の日本人の存在があったことはあまり知られていない。昭和三十九年にホノルルで生涯を閉じた日本人・角田柳作である。
 司馬遼太郎が『街道をゆく ニューヨーク散歩』で角田を紹介して以来、忘れ去られていた彼の名は徐々に知られるようになってきたものの、未だ一般的認知度は低いし、その全貌は未だ明らかになってはいない。角田がいなければ、今日の欧米の日本文化理解、アジア文化理解はこれほど進んでいなかったかもしれない。そして、キーンの活躍もなかったかもしれない。
 日本文化の普遍性を伝えるという重い課題を背負い、角田がアメリカ大陸へ渡ったのは、大正六年のことである。彼はニューヨークのコロンビア大学で広範な知識の修得に乗り出した。哲学者デューイ、教育学者モンロー、歴史学者カールトン・レイズなど、極めて多くの授業を聴講した。マサチューセッツ州のウエター・クラーク大学でも学んでいる。
 そして昭和七年、角田はコロンビア大学・日本学研究所講師に就任し、日本思想史の講義に全力を尽くした。しかし、日米開戦に至る時代の激流に角田は翻弄されていく。日本人である角田の講義はアメリカ社会で敬遠されるようになっていくのだ。
 日米開戦直前の昭和十六年九月、角田の日本思想史の講義の受講を登録したのは、わずか一人になってしまった。その一人こそが、キーンだった。
 「自分一人のために講義するのはもったいない。やめましょう」というキーンに対して、角田は「一人だけで十分だ」と言って、講義に入った。講義は毎週二回、二時から四時までであったが、定刻に終了したことは一度もなく、五時か五時半まで続くほどの熱の入れようであった。
 昭和十六年十二月八日、日米開戦の日、キーンはいつものように角田の講義を聞くために教室に行った。ところが、いくら待っても角田は現れなかった。
 同日、角田は敵性外国人として警察に拘留されていたのである。現地時間十二月七日夕方から八日夜にかけて、ニューヨークでは百名以上の日本人が拘留されたとされている。
 角田は、ハドソン河畔を頻繁に散歩していたという理由で、不審人物とされてしまったのである。裁判では、彼のアパートがニューヨークからニュージャージーにわたるワシントン・ブリッジの近くにあったため、彼がこの橋を破壊する動機をもっていたかが問われた。コロンビア大学の教授や弟子たちが法廷につめかけていたという。裁判において、角田は長年にわたってアメリカで生活している外国人の義理と責任について発言し、裁判官も感動させたという。
 角田は無罪の判決を受けて大学に戻ったが、アメリカ側に立って戦争協力をすることは拒否し続けた。日米関係が危機的状況に陥る以前には、角田は酒もタバコもやり、時には酔いつぶれるようなこともあったという。ところが、戦争がはじまると、彼は酒もタバコもやめてしまったのである。このことについて、晩年の角田と交流を深めた永井道雄は、「日本とアメリカとの平和、また祖国の発展を願う彼の心のしるしであったのだろう」と書いている。
 戦時中キーンは海軍に入ったが、戦争が終わるとコロンビア大学に戻り角田に師事した。俳句のことを「民主主義の詩」と説明するなど、日本文化の真髄を伝える角田の講義はユニークなものだったという。キーンは、角田の指導の下、わずか三カ月間で、『源氏物語』、『徒然草』、『枕草子』、西鶴、芭蕉などを集中的に学んだともいう。
 キーンは、「江戸時代の日本の思想家たちは独自の思想体系を持っていて、中国に源を発する哲学を無条件に受け入れてはいなかった」との持論を角田が持っていたと語っている。特に、角田は日本思想史の中で、三浦梅園、富永仲基、本多利明、安藤昌益といった江戸時代の思想家を重視していた。ここには、内藤湖南の日本文化論の影響を見ることができる。『近世文学史論』(明治三十年)において、江戸三百年間で創見発見の説をなしたのは、富永仲基の『出定後語』と三浦梅園の『三語』と山片蟠桃の『夢の代』の三書だけだと喝破したのが、湖南であったからである。
 コロンビア大学時代に角田は著作を残さなかったため、当時の彼の思想の全貌を把握することは難しい。ただ、永井道雄は「孔子やキリストのばあいがそうであるように、私たちは、彼に教えられた人々を通じて彼を知ることができる」と書いている。角田はまさに教祖的感化力を持っていたのである。アメリカ中国学会の重鎮でもある、弟子のセオドア・ド・バリー氏は、「この世には、無数の先生がいます。でも、コロンビア大学にはただ一人の『先生』しかいなかったのです」と語っている。

古代精神に立ち返った独自の文学論
 角田は、明治十年一月二十八日、群馬県勢多郡津久田村(現在の渋川市赤城町津久田)で生まれた。父庄作は角田が五歳のときに亡くなっている。それ以降、彼は祖父金造と母ぎんに育てられた。幼い頃から優秀だった彼は、周囲からも期待されていた。兄保太郎は、次のように振り返っている。
 「弟は、一寸群を抜いている、幼少の時から偉物で、正に鶏群の一鶴の観があった。……吾も妹も弟も順々に小学校即ち津久田の不動院を仮校舎とした鳩杖小学校へ入学した。弟が一番好成績で大概主席で通した」
 学問で身を立たせてやりたいと願った保太郎は、鳩杖小学校の卒業を待たずに、明治二十三年正月に角田を群馬県尋常中学校に入学させた。同校卒業を前に、彼は東京専門学校(早稲田大学の前身)文学部に入学する。角田は官学を嫌い、東京専門学校の気風を慕っていたという。
 角田が入学した年、東京専門学校は、哲学が大西祝、小屋保治、立花銑三郎、史学が三上参次、斎藤阿具、関根正直、坪内逍遥、今泉定介、英文学が磯野徳三郎、夏目金之助、坪内逍遥、国文学が関根正直、畠山健、漢文学が三島中洲、斎藤木、森槐南という錚々たる教授陣を擁していた。
 角田は坪内逍遥に英文学を学んだが、その専攻は哲学で、担当は大西祝であった。角田の日本文化史のトータルな切り込み方、とらえ方に対する、大西祝の影響の大きさを強調する見方もある(柳井久雄『角田柳作先生 : アメリカに日本学を育てた上州人』上毛新聞社、平成六年、二十二頁)。
 明治二十九年七月に東京専門学校を卒業すると、徳富蘇峰を中心とする言論・思想グループ「民友社」に入った。この時代に角田が著したのが、『井原西鶴』である。同書の自序において、彼は「扨て我と我身を顧る時我情欝勃として意志も之がためにあやうく、我見たる西鶴と、其折の我との間に、いみじふ似通ひたる節のある様思はれて来ぬ(中略)、決して故人を辱しめんなどの意志にはあらで、我と我身に引きあてたればなり」と書いている。
 これについて、鹿野政直氏は、角田は過去・未来の観念なく、現在のみを念頭におく快楽主義の徒、主我的な人間として、西鶴を批判しようとしたが、その批判はそっくりそのまま自分自身に対する批判であったととらえ、現世的とみられる西鶴に対して、角田は非現世的な境地を目指す青年だったと指摘している。その上で、鹿野氏は、こうしたところにも角田の求道的青年だったことが示されていると書いている(鹿野政直「角田柳作 その歩みと想い」『早稲田大学史記要』平成九年、百七十三頁)。
 しかし、これだけでは『井原西鶴』の著者としての角田と、その後の日本学の父としての角田の関係について、十分な説明ができない。この空白を埋めるべく、電気通信大学教授の島内景二氏は、文体論的考察と思想的な共通点から、『井原西鶴』と同時期に民友社から刊行された『紫式部』『清少納言』『詩人西行』『雲井龍雄』『兼好法師』『日本文学梗観』の著者(緑亭主人、中龍児、緑亭生)が角田柳作であると推定し、その独自の文明史観を評価した。
 島内氏は、「古代」の日月星辰・山川草木に霊性を見出す日本人の本性から説き始め、古代・王朝・中世・近世の大文学者の心を抉り出すという、角田の文明批評の方法を高く評価する。キーンも、角田がコロンビア大学での講義で、古代人の太陽や山などに対する尊敬の念を強調してやまなかったと回想している。
 島内氏によると、角田は王朝・鎌倉時代・室町時代・近世というそれぞれの時代に、「古代」を復活させようと苦闘した文学者たちをテーマとした。例えば、清少納言を古代社会から王朝にかけての歴史の一大変革期に、古代精神の復活を企図したととらえ、また、西行を古代精神の部分的な復活ととらえる。これに対して西鶴は時代に埋没したとして、批判したのである(島内景二「緑亭生・緑亭主人は、角田柳作か」『電気通信大学紀要』平成十六年一月)。
 こうした文明史的問題意識を持ちながら、角田は、明治三十二年には翻訳書『社会之進化』を発表している。これはイギリスの社会学者ベンジャミン・キッドの『Social Evolution』を訳したものである。佐藤能丸氏は「角田の、思想という原理的にものに対する関心、進化論と同時に宗教に対する強い関心の現われ」がキッドの翻訳に向かわせたと推測している(佐藤能丸「角田柳作と早稲田大学」『早稲田大学史紀要』平成八年九月、百八十三頁)。
 角田の関心は、道徳、倫理の問題に向っていたのである。『六合雑誌』に「神話と宗教」(明治三十五年十月)、「道徳的理想としての神」(同年十一月)、「宗教と道徳的世界秩序」(同年十二月)などを書くとともに、明治三十七年八月には、道徳的生活、道徳的世界観などを問題とした、ウイルヘルム・ヴントのEthikを翻訳して『倫理学史』を刊行している。

アメリカ社会の中での葛藤
 その後、角田は仏教に対する関心を強めていく。鹿野政直氏は、角田が終生深く宗教性を求め続けたと結論づけている。
 『角田柳作先生』を著した柳井久雄氏は、京都の貧民窟を踏査して大きなショックを受けたことが、仏教の勉強に打ち込む要因になったかもしれないと推測している(『角田柳作先生』二十六頁)。
 そもそも、角田が仏教研究に向ったのは、東京専門学校時代に習ったインド生まれのイギリス人宣教師アーサー・ロイドの影響による。ロイドは、明治二十七年から東京専門学校に在職し、英語、韻語学、ミルトンの失楽園講読を担当していたが、ドイツのテュービンゲン大学でサンスクリットを修めた彼は仏教研究に多くの時間を費やしていたのである。特に、親鸞に関する著書を多数発表している。
 また、角田は、浄土真宗本願寺派の勧学だった足利義山の薫陶を受け、仏教について深い関心を抱くようになったともいう。さらに、彼は、仏教に理解のあった、教育官僚の沢柳政太郎からも可愛がられていた。これらが相まって、彼を仏教研究へと向かわせることになった。
 角田は明治三十二年から明治三十五年まで、高野山で真言宗を学び、かつ京都の真言宗高等中学林で英文学と社会学を教えるようになったのである。その後、明治三十六年から福島中学校と仙台第一中学校で教鞭をとった(英語と倫理学)後、明治四十二年にハワイ中学校長としてハワイへ渡ることになる。この転身もまた、仏教が機縁となっている。
 ハワイへは、すでに明治元年に日本人百五十人が移民として送られていた。これら移民の出身地は、和歌山、広島、山口、福岡、熊本の各県で、真宗西本願寺の勢力の強い地方だった。西本願寺は明治三十年以来、ハワイを開教地と定め、布教師を派遣していた。明治三十二年、開教使としてハワイに渡り、明治三十三年に開教監督となり、昭和七年まで当地で布教につとめたのが、今村恵猛である。アメリカ市民として永くハワイに留まる日本人のための教育機関を作ってほしいという要請を受け、今村はハワイ中学校の設立に動いたのである。このとき、彼が校長を任せようとしたのが、角田であった。
 すでにこのとき、角田は日本の精神について、確固たる考えを持っていた。現地紙『日布時事』(明治四十四年八月十七日)において、彼は次のように書いている。
 「元来余輩の信ずる日本の精神は福澤先生と二宮尊徳翁とによりて顕はれたる自労自活、勤労分度の精神、儒教に顕はれ居る義理人情の精神、武士道に顕はれ居る克己奉公の精神、仏教に顕はれ居る無我慈悲の精神及び祖先教たる神道に顕はれ居る忠孝の精神等にして余輩は之等のものを『日本の精神』なりと信ず」(内海孝「角田柳作のハワイ時代再論」『早稲田大学史記要』平成十一年、百十一頁)
 角田は、この「日本の精神」を持つ人を「真正の日本人」とし、こうした人間をつくることがハワイ中学校の主眼だと考えていた。しかし、一方でハワイに定住しようとする日本人が増えつつある中で、アメリカ社会に順応できる教育が求められていた。
 こうした中で、彼は、狭い忠君愛国主義でなく、若い世代がハワイ側の教育機関に適応できるような制度的措置をとり、こうした教育についてハワイ社会の理解を得るとともに、日本人社会がハワイ社会への理解を深めるよう求めた(鹿野「その歩みと想い」百七十九頁)。
 大正二年十一月には、有田八郎がホノルル総領事代理として来布、日本の国定教科書の使用をやめ、ハワイの実情に合致した教科書編纂に着手、角田もそれに参画した。国定教科書にハワイ色を盛り込みつつ、露骨な愛国主義的な記述を避ける方向で編纂作業は進められた。こうした方針を象徴するように、完成した教科書『日本語読本』の巻頭には、日米の国旗が交叉する図柄が採用されたのである。しかし、内海孝氏が指摘しているように、角田らが手がけた新しい教科書に対しては、「忠君愛国の観念がない」との非難が浴びせられた(内海孝「角田柳作と『日本語読本』の編纂」『草思』平成十二年九月、四十六、四十七頁)。
 「真正の日本人」の養成とアメリカ社会への順応という課題の葛藤に悩みつつ、角田は日本文化の普遍性を外国人に理解させることを自らの使命と考えるようになっていったに違いない。
 この時期、ハワイでの仏教布教も新たな発想が求められるようになっていた。まず、仏教に対するアメリカ人の偏見を正し、アメリカ人に理解しやすい説明をすることが必要だった。この目的のため、今村の依頼に応え、角田は大正三年に『英文真宗大意』を刊行する。同書序文で、今村は仏教を迷信じみた偶像崇拝であるとか、偏狭な日本のナショナリズムと一緒になった宗教であるとする批判や猜疑心を取り除いて、仏教についての正確な理解を促したいと書いている(守屋友江「二〇世紀初頭ハワイにおける国際派仏教徒たち」『近代仏教』平成十二年三月、七十四頁)。

「日本文化の一番いいものを与える」
 大正六年に渡米した角田は、コロンビア大学で広範な知識の吸収しつつ、大正九年にはニューヨークの日本人会幹事に就任している。排日移民法が制定されたのは、その四年後の大正十三年のことである。日本国内に目を向けると、この年大川周明らが行地会(翌年、行地社に改称)を旗揚げするなど、日本主義、興亜主義に基づいた対米主張も強まっていた。
 角田の背負った課題は、ますます切実なものとなっていたのである。しかも、当時アメリカの大学では、中国語や中国文化がかなり広く教えられていたのに対して、日本学は美術に限られていた。ついに、昭和二年角田は日本文化の価値を外国人に知らせることを目的として、アメリカに「日本文化研究所」を設立することを決意する。当初の構想では、以下のように三つの部門を想定していた。
(一)図書館 英語その他の外国語で書かれた日本関係の図書、日本語の典籍を蒐集閲覧する
(二)歴史館 宗教を中心とし、日本の歴史を五区分し、その時代々々の文芸、その他の史料を連ね、文化を読書以外に味解色読する途を開く
(三)現代館 新日本建設に貢献した人々の伝記資料を備え付ける。
 昭和二年一月、角田は構想実現のために日本に帰国、寄付金や書籍収集を開始した。三月十二日に上野東照宮前の梅川亭で催された角田の歓迎会には、早稲田大学の先輩旧友が参集している。大隈重信の信任が厚く、第四代総長・第二代学長を務めた塩沢昌貞や恩師の坪内逍遥らが、日本文化研究所構想に参考になる話をしたと記録されている。彼は、約一年間を費やして、早稲田大学のほか、各新聞社、東西の本願寺などの協力を得て、日本文化に関する数万冊の図書を集めた。宮内省からも貴重な書籍が寄贈された。
 角田が各方面に協力を要請した際の発言には、彼の「日本文化研究所」設立の真意が明確に示されていた。『早稲田学報』(昭和二年六月)に載った記事の中で、彼は、文化交流は互恵的でなければならないと強調し、日米文化交流において常にアメリカは与える側に立ち、日本は求める側に立ってきたと指摘した。そして、「日本文化の一番いいものを彼に与える運動」の不在を嘆いている。彼はまた、「文化といふものが、国家民族の歴史に根を張つてゐながら、その精華は国境を超え、世界的の性質を帯る」とも書いていた。
 佐藤能丸氏は、「『文化』というものを皮相な現象から見てこれを伝えるのではなく、その根源を問うことによって把握しようとする彼の研究態度は、けっして特殊主義を固守するものではなく、普遍的な文化認識の方法を生み出していったに違いない」と評している(「角田柳作と早稲田大学」百九十六頁)。
 一年の準備期間を経て、角田の夢はついに実現した。昭和三年、コロンビア大学内にアメリカ初の日本文化研究所が創設され、角田は所長に就任した。日本文化研究所は、昭和六年にコロンビア大学の公式機関として引き継がれ、日本資料館と改称された。現在、日本資料館を引き継いだコロンビア大学の「C・V・スター東アジア図書館」は、ハーバード大学イェンチン図書館と並び、東アジアコレクションでは全米屈指の図書館として知られる。

アジア的価値観の擁護者ド・バリー教授
 角田の弟子には、キーン、ド・バリーだけではなく、『源氏物語』の完訳を成し遂げたサイデンステッカーなどの優れた学者が多数おり、角田の講義内容の価値は、キーン、ド・バリーらが編纂した角田の講義録『日本思想の源泉』(Sources of Japanese Tradition)によって知ることができるのである。同書が「日本最古の記録 上代神道」から書き起こされていることに注目したい。島内景二氏は、この講義録こそ、角田が若き日の著作で用いた、「アニミズム的信仰に満ちた古代精神から説き始め、王朝・中世・近世という各時代の歴史哲学に言及する」という手法の完成されたスタイルだと主張している。
 永井道雄は、「日本の仏教・美術、総じて日本文化のなかにひそむ普遍的なものをつきとめ、これを思想として表現することが生涯のねがいであった」ととらえ、角田の弟子たちは「戦前と戦中、彼らの敵であった日本の文化と歴史のなかにすぐれた価値がひそんでいる事実にめざめた」と書いている(永井道雄『異色の人間像』講談社、昭和四十年、百四十二頁)。
 角田は、昭和三十年に一旦コロンビア大学を引退したが、昭和三十八年まで講義を続けた。この間、昭和三十五年には日本政府から勲三等瑞宝章を、昭和三十七年にはコロンビア大学から名誉文学博士号を授与されている。昭和三十九年、癌に冒され、余命いくばくもないと悟った角田は、最後の生活を日本で送ろうと考え、日本に向かった。しかし、ハワイで急性肺炎になり、十一月二十九日に八十六歳で逝去した。
 日本文化の普遍性への角田の想いが、その弟子たちに継承されたことの意味は、計り知れないほど大きい。戦前、興亜論者たちが称揚した日本文化、東洋文化は、欧米においては誤解されたまま、価値の低いものとして扱われていた。戦後、欧米社会で日本文化の価値に対する理解が促進されたのは、キーンらに負うところが大きい。しかし、依然として日本異質論、アジア異質論はアメリカの論壇では根強い。東西冷戦終結と前後して欧米からは、いわゆる修正主義者の日本論が台頭した。ウォルフレンの「日本問題」(昭和六十二年)、ジェームズ・ファローズの「日本封じ込め」(平成元年)などである。欧米と日本の異質性が強調される一方、冷戦に勝利したアメリカはアメリカ型の自由と民主主義を絶対視してそれを世界に押し拡げようとする姿勢を強めてきた。平成九年のアジア通貨危機後には、アジアの経済システムを支えるアジア的価値観が批判の対象となった。
 こうした価値観を巡る攻勢に対する防波堤となってきたのが、キーンやド・バリーである。ド・バリーは、昭和五十八年に刊行した『The Liberal Tradition in China』(邦訳は『朱子学と自由の伝統』)において、宋代以降の近世儒学思想史の中にリベラリズムの伝統があると主張した。さらに、平成十年には『Asian Values and Human Rights』において、儒教に見られる共同体志向を積極的に評価するなど、アジアの伝統文化の普遍性を主張した。角田の思想と行動がなかったならば、日本異質論・アジア異質論に対する防波堤は極めて脆弱なままだったに違いない。


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