「医療の社会化」を志す
鈴木は、文久2(1862)年4月26日に、鈴木龍蔵の次男として、長野県上水内郡安茂里村平柴で生まれた。明治20(1887)年に慶応義塾を卒業、時事新報社に入社している。彼は、福澤諭吉の愛弟子として育てられたのである。在学時代には、学費不足を補うために、福澤の紹介で時事新報社でアルバイトをしていた。当時の社長は中上川彦次郎であった。これが縁で、時事新報社に入社したのである。 |
明治24(1891)年には、福澤の推薦で、横浜貿易商組合の顧問となり、機関紙『横浜貿易新聞』の主筆に就任している。鈴木の福澤への傾倒ぶりは、彼が「福澤の手紙には無限の修養実訓がある」と信じ、『福澤先生の手紙』を編んでいることにも示されている。
さて、中上川彦次郎は三井入りし、三井銀行の大改革に着手することになる。そこで、慶応義塾出身者、特に新聞記者経験者を集めようとしたのである。こうした経緯で、鈴木は明治27(1894)年に三井銀行に入行する。その後、各支店長を務めていたが、請われて明治35(1902)年に王子製紙専務取締役に就く。この時代には、苫小牧工場建設など、同社の土台を築く上で大きな貢献をしている。
この王子製紙時代の体験が、鈴木が「医療の社会化」を志すきっかけとなった。当時、王子製紙が持っていた静岡の磐田郡中部工場の医療局の設備は、非常に整っていた。これに対して、交通の便が悪いために、周辺には医師が不足していた。そこで、周辺の住民に対して、工場の医師を往診させることに応じた。これがきっかけとなり、医療局を工場の職工だけでなく、周辺住民にも開放して、通常の半額程度で診療することにしたのである。ところが、経営的には十分に成り立ったのである。
施療済生ノ勅語
明治44年2月11日、明治天皇の「施療済生ノ勅語」が下った。
「朕惟フニ世局ノ大勢ニ随ヒ国運ノ伸張ヲ要スルコト方ニ急ニシテ経済ノ状況漸ニ革マリ人心動モスレハ其ノ帰向ヲ謬ラムトス政ヲ為ス者宜ク深ク此ニ鑒ミ倍々憂勤シテ業ヲ勧メ教ヲ敦クシ以テ健全ノ発達ヲ遂ケシムヘシ若夫レ無告ノ窮民ニシテ医薬給セス天寿ヲ終フルコト能ハサルハ朕カ最軫念シテ措カサル所ナリ乃チ施薬救療以テ済生ノ道ヲ弘メムトス茲ニ内帑ノ金ヲ出タシ其ノ資ニ充テシム卿克ク朕カ意ヲ体シ宜キニ随ヒ之ヲ措置シ永ク衆庶ヲシテ頼ル所アラシメムコトヲ期セヨ」
これを受けて、桂太郎首相は、内帑金150万円をもとにして、恩賜財団済生会を創設し、全国の富豪・官吏などから寄附を集めた。だが、鈴木は、恩賜財団済生会を「聖旨の一半」の救療事業・救貧事業に過ぎないと捉え、明治44(1911)年7月、自ら「聖旨の他の一半であるべき防貧事業」として、実費のみで診療することを目的とする「実費診療所」の設立趣意書を発表したのである。鈴木の趣意書は、51名の名士の賛成を得た。後に、これらの賛同者のうち、玄洋社の杉山茂丸ただ一人が名誉社員(1000円以上の寄付金)になっている。ちなみに、杉山は医学への関心が強く、その長女瑞枝は東京慈恵会医科大学学長であった金杉英五郎の甥に嫁ぎ、次女たみ子は耳鼻咽喉科医の石井俊次に嫁している。
残りの賛同者のうち、池田成彬、飯田義一ら18名が特別社員(100円以上の寄付金)に、鎌田栄吉ら10名が正社員(20円以上の寄付金)に、大隈重信、今村力三郎、高田早苗、矢野文雄ら18名が賛助員(5円以上の寄付金)となった。
鈴木の構想に対する医師会の抵抗は、凄まじいものであった。彼は、独自の社会政策を推進するために、政治力を自ら確保しようとしたのだろう。明治45(1912)年5月に、無所属で衆議院議員選挙に出馬、見事当選を果たしている。同年末には先輩の犬養毅に誘われて立憲国民党に入党している。大正6(1917)年6月には、同党幹事長に就任、厳しく政権を批判し、大正維新を訴えていた。鈴木の目指す「大正維新」とは、「富豪特権者の封建主義を未然に防止すべき仕事」であった。
その後、政府・内務省は、実費診療所の設置申請について、地方自治体からの申請は認めるという態度をとった。そのため、大正8(1919)年頃から地方自治体経営の実費診療所が徐々に増え始め、昭和4(1929)年には全国で41カ所に達した。
この間、大正11(1922)年には健康保険法が制定されたが、鈴木はその矛盾を厳しく指摘、昭和3(1928)年2月には『医業国営論』を著し、「衛生省」を頂点とする医療国営を提唱するに至った。その後、昭和8(1933)年には歳末無料診療を試みるなど、医療の社会化への試みを続けたが、昭和15(1940)年4月15日、急性肺炎のため亡くなった。
皇道思想に支えられた独自の社会政策
鈴木が展開した主張は、医療の分野にとどまらない。食料に関しても、彼は独自の政策を唱えていた。例えば、大正8(1919)年には、『日本に於ける社会政策の基礎』において、「国民の主要食料たる米籾の価格を出来得る限り低廉に保ち其急激なる変動を防ぐことにより、生産者と消費者の利益を調節して、国家存立の根柢に動揺なからしむるにある」と主張している。また、義務教育の延長と義務教育費全額国庫負担、庶民銀行と公立質屋の設立を提唱している。当時、鈴木は大正8(1919)年8月に長島隆二、永井柳太郎、中野正剛らを中心として結成された革新的超党派政治グループ「改造同盟」にも参加していた(伊藤隆『大正期「革新」派の成立』塙書房、1978年、178~183頁)。いずれにせよ、鈴木はこうした陣営の影響を受けつつ、信奉する皇道思想に支えらた独自の社会政策を打ち出していた。
そのことをはっきり示しているのが、鈴木が大正7(1918)年に著した『皇室社会新政』(実生活社出版部)である。ここで彼は、「我国に於いては皇室と人民との関係が親子の如き親しみに在り、外国の歴史に於いて見るが如き圧政若しくは虐殺の事実は見られない。加之、人民の疲弊は直ちに皇室の式微を意味するので、皇室は其利害の上からも人民を其大御宝として愛撫賑恤された」と書いている。
しかも、鈴木は皇道思想に根ざした興亜論を提唱していた。実費診療所常務理事を務めた清水喜三郎は、「鈴木梅四郎先生を語る」において、鈴木が大正11(1922)年に世界を遍く視察した後、皇室を中心としての王道の世界統一を志し、「対外政策としては、世界に真の平和を招来させるには、人口の少ない白人が反対に広大な地域を占有し障壁を設けて有色人種入るべからずといふ実情を撤廃させなければならぬ。それには東洋の民族が打って一丸となり有無相通じさせて白人に示すことである」と説いていたと書いている(田中省三『医療の社会化を実践した人物・鈴木梅四郎』医史研究会、1995年)。