星条旗の下の祖国を拒否した男─アルテミオ・リカルテ

以下、『アジア英雄伝』に収録した、フィリピンの志士アルテミオ・リカルテの評伝です。


「星条旗の下には帰らぬ」
フィリピンの志士アルテミオ・リカルテは、長期間日本に潜伏し、普遍的思想としての皇道を深く理解し、独自のフィリピン国家像を描いた人物であった。その壮絶な反米闘争は、急進的政治結社のカティプーナンの精神を実現しようという姿勢で貫かれていた。
リカルテは、一八六六年一〇月二〇日、ルソン島最北端のバタックで生まれた。父エステバンは、義侠心に富み、親分肌の人で、常に公益のために私財を投じ、近隣の人々から厚い信望を集めていた。母は敬虔なカトリック教徒で、朝夕厳粛な祈りを捧げることを日課としていた。両親ともに、教育には極めて熱心であった(太田兼四郎『鬼哭』フィリピン協会、一九七二年、八頁)。リカルテは、一八八四年サン・ファン・デ・レスラン学院に入学、その五年後には文学士の学位を取得して卒業、ただちに名門校サント・トーマス大学に入学、一八九〇年に卒業している。
当時、独立運動の先駆者ホセ・リサールに刺激された有能な青年たちはスペイン留学を望んだが、リカルテはスペインに留学することは結局植民地主義者によって洗脳されることになると信じて祖国に止まり、一生を民族主義教育に捧げる決心をした。こうして彼は、カビテ州のサンフランシスコ・デ・マラボンの小中学校の校長になった。 Continue reading “星条旗の下の祖国を拒否した男─アルテミオ・リカルテ” »

興亜論者・波多野烏峰と『靖献遺言』

『亜細亜合同論』、『印度独立戦争』などの著者として知られる波多野烏峰が、『靖献遺言』の訓戒を刊行していた事実は、崎門学派、特に浅見絅斎学派と興亜思想の特別な関係を考察する材料だと言える。
なぜか国会図書館には所蔵されていないが、波多野烏峰訓解『靖献遺言』大正7年の存在が明らかになった。これとは別に、波多野春房訓解『靖献遺言』文会堂書店、明治43年があり、波多野烏峰と波多野春房とは同一人物である可能性が濃厚であると考えられる。

明治期興亜論と崎門学─杉田定一の民権論と興亜論

近世国体論の発展において極めて重要な役割を果たした、山崎闇斎を源流とする崎門学派は、明治維新の原動力となった。その維新の貫徹と興亜論に崎門学派が与えた影響もまた、極めて大きい。
拙著『維新と興亜に駆けた日本人』において、明治17年8月に上海に設置された東洋学館に、植木枝盛らとともに参画していた人物として杉田定一の名を挙げた(146頁)が、杉田こそ崎門学の系譜に当たる人物として注目すべきことがわかった。
杉田は、嘉永4(1851)年6月2日に越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市)で生まれた。明治8(1875)年、政治家を志し上京、『采風新聞』の記者として活動、西南戦争後は自由民権運動に奔走した。彼の自由民権思想は国体思想と不可分であったし、また彼の興亜思想もまた国体思想に支えられていたと推測される。熟美保子氏は「上海東洋学館と『興亜』意識の変化」で杉田は興亜論を、概要次のように説明している。
杉田は、東洋学館開校1年前に「興亜小言」、それを修正した「興亜策」を著していた。これらの中で、杉田は、欧米は自由を求める国といいながらも実際にはアジアの自由を奪っていると非難し、「自由の破壊者」と批判している。また、アジアの現状について、それぞれがバラバラであり、互いに助け合うという事がなく、欧米人に侵略されつつある状況を嘆いている。そして、日本と清国の関係について「唇歯相依輔車相接スル」と記述していた。
こうした主張を展開した杉田は、三国滝谷寺の道雅上人とともに、崎門学派の吉田東篁(とうこう)に師事していたのである。近藤啓吾先生の『浅見絅斎の研究』は、以下のような杉田の回顧談を引いている。
「道雅上人からは尊王攘夷の思想を学び、東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなった。後年板垣伯と共に大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのである」

浅見絅斎邸址

2012年8月、『月刊日本』の新連載「明日のサムライたちへ 志士の魂を揺り動かした十冊」の二冊目(浅見絅斎『靖献遺言』)の取材のために、京都市中京区錦小路の「浅見絅斎邸址」を訪れました。錦小路は、かつて浅見先生の私塾があった場所です。錦小路から「錦陌(きんぱく)講堂」と名付けられていました。

弟子の稲葉迂斎による『迂斎先生学話』で描かれた状況を思い浮かべました。
「浅見先生の講釈を聞きにくる者は四十人ほどいる。講釈場の広さは二間(一間=一・八メートル)と八間ほどだ。先生は台所の方から出てこられる。入り口のところに敷物を敷き、そこにすぐ座り、大きな見台(本を読むときにのせる台)を前にしてあぐらをかいて講義なさる。先生が出ていかれるときには、みな平伏して頭をあげている者など一人もいない」
浅見先生は、はじめの名を順良といい、後に安正となりましたが、絅斎と号していました。この「絅斎」もまた、錦小路の「錦」から「錦を衣て絅(うすぎぬ)を尚(くわ)う」という教えに着想を得たものです。
『中庸』の一節「錦を衣て絅を尚う」とは、華々しい錦の着物の上に、絅(うすい上着)をはおって、その輝きを目立たなくするという意味で、自らの輝きを人に見せびらかしたりしないという戒めの言葉です。

角田柳作─欧米における日本学の教祖

角田柳作─欧米における日本学の教祖(『月刊日本』平成21年5月号掲載)

古代精神に立ち返った独自の文学論

司馬遼太郎が『街道をゆく ニューヨーク散歩』で角田柳作を紹介して以来、忘れ去られていた彼の名は徐々に知られるようになってきたものの、未だ一般的認知度は低いし、その全貌は未だ明らかになってはいない。今回、敢えて角田を取り上げるのは、日本文明の普遍性を我々が認識するだけではなく、それを世界に伝えていくことが再び重要な時代に入っているからである。角田がいなかったら、今日の欧米の日本文化理解、アジア文化理解はどうなっていたかという問題意識を念頭に置きながら、彼の生涯を追ってみたい
角田柳作は、明治十年一月二十八日、群馬県勢多郡津久田村(現在の渋川市赤城町津久田)で生まれた。父庄作は角田が五歳のときに亡くなっている。それ以降、彼は祖父金造と母ぎんに育てられた。幼い頃から優秀だった彼は、周囲からも期待されていた。兄保太郎は、次のように振り返っている。 Continue reading “角田柳作─欧米における日本学の教祖” »

対米自立を宣言した初めての首相

 戦後日本の対米従属外交を批判した孫崎享氏の『戦後史の正体』が大きな反響をもたらす中で、いま改めて鳩山由紀夫政権がつぶれた理由を考える必要がある。
 亀井静香氏は、歴代日本の総理大臣で、アメリカと対等にやると宣言したのは鳩山さんが初めてだと言う。
以下、7月27日に放送された「マット安川のずばり勝負」での亀井氏の発言を紹介する。
 亀井静香氏「わきあがる地熱、官邸前脱原発デモが政治を動かす 結党理念を忘れ談合政治に回帰する新自由主義・野田政権」


マット安川 政局ばかりが報じられる中、「野田政権はアメリカの回し者」と言い切った亀井静香さんが初登場。消費税増税の背景や、現在日本が抱える諸問題について伺いました。

脱原発デモは、幕末の「ええじゃないか」と似た民衆運動
亀井 日本の政治は、次の選挙でガラっと変わっちゃうと思いますよ。私も参加しましたが、いまの首相官邸前、国会前の原発再稼働反対・脱原発デモの動きは一過性のものではない。 Continue reading “対米自立を宣言した初めての首相” »