著者 | タイトル | 雑誌名 | 巻・号 | ページ | 出版時期 |
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先崎 彰容 | 「日本」のナショナリズム : 会沢正志斎『新論』を読む | 新日本学 | 30 | 46-57 | 2013 |
桐原 健真 | 『新論』的世界観の構造とその思想史的背景 | 茨城県史研究 | 91 | 68-84 | 2007-02 |
桐原 健真 | 東方君子国の落日─『新論』 的世界観とその終焉 | 明治維新史研究 | 3 | 1-15 | 2006-12 |
イサム R.ハムザ | 日本における「アジア主義」 | 史学 | 75(1) | 128-139 | 2006-06 |
倉持 隆 | 『新論』2巻 会沢正志斎(安)著 安政4年刊 安政5年正月 松平慶永(春嶽)自筆書入本 | Medianet | 13 | 69 | 2006 |
子安 宣邦 | 国家と祭祀(3)祭祀的国家の理念─『新論』と危機の政治神学(2) | 現代思想 | 31(11) | 8-15 | 2003-09 |
子安 宣邦 | 国家と祭祀(2)「天祖」概念の再構築─『新論』と危機の政治神学(1) | 現代思想 | 31(10) | 26-34 | 2003-08 |
安蘇谷 正彦 | 会沢正志斎の国家思想(中)の下─わが国初の国防論『新論』の神髄 | 日本及日本人 | 1632 | 76-86 | 1998-10 |
安蘇谷 正彦 | 会沢正志斉の国家思想< 中>─わが国初の国家防衛論『新論』の思想と意義 | 日本及日本人 | 1631 | 50-60 | 1998-07 |
三谷 博 | 「新論」覚え書き─〈「忠孝」の多重平行4辺形〉を中心に | 歴史学研究報告 | 22 | 1-26 | 1994-03 |
栗原 茂幸 | 「新論」以前の会沢正志斎をめぐって | 日本歴史 | 506 | 84-88 | 1990-07 |
栗原 茂幸 | 「新論」以前の会沢正志斎─註解「諳夷問答」 | 東京都立大学法学会雑誌 | 30(1) | 181-231 | 1989-07 |
前田 勉 | 「新論」の尊王攘夷思想─その術策性をめぐって | 日本思想史研究 | 19 | 15-32 | 1987 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-5- | 相模女子大学紀要 | 49 | 41-54 | 1985 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-4- | 相模女子大学紀要 | 48 | 33-44 | 1984 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-3- | 相模女子大学紀要 | 47 | 41-52 | 1983 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-2- | 相模女子大学紀要 | 46 | 37-49 | 1982 |
長尾 久 | 会沢正志斎の「新論」-1- | 相模女子大学紀要 | 45 | 31-41 | 1981 |
前田 光夫、安田 耿雄 | 「新論」における国家観 | 茨城大学教育学部紀要 人文・社会科学 | 27 | 17-28 | 1978 |
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『新論』の著者が知られるまで
『新論』を書き上げた会沢正志斎はその一部を丁寧に浄書し、文政九(一八二六)年、藤田幽谷の手を通して、藩主哀公(斎修)に献じました。これを見て驚いた哀公は、
「この書の内容には、見るべきものがあるが、時事を痛論して、論旨余りに激烈に過ぎるから、幕府の忌諱に触れる恐れが十分にある。したがって公刊は見合せるが宜しからう」
と注意したのでした。
そのため『新論』は、当初一部の人々の間に伝写されるにとどまっていたのです。
弘化年間(一八四四~一八四七年)になって、烈公が幽囚生活を余儀なくされ、正志斎もそれに連座する形で禁固されました。その間、正志斎の門人は、『新論』を無名氏箸として上木したのです。
こうして、『新論』は世の中の注目を集めることになりましたが、誰もがその著者が正志斎であるとは知らないままでした。
例えば、『新論』から深い感銘を受けた川路左衛門尉は、「これは、無名氏とあるが、水戸人の手になったものに違いない。これ程の論文を書く人物は、当今藤田東湖のほかにあるまい」と言ったそうです。
しかし、やがて『新論』が拡がるにつれて、それが正志斎の著書であることが理解され、彼の名は日本中に広まっていったのでした。