今度岡倉一雄氏の編輯で『岡倉天心全集』が出始めた。第一巻は英文で発表せられた『東洋の理想』及び『日本の覚醒』の訳文を載せてゐる。第二巻は『東洋に対する鑑識の性質と価値』その他の諸篇、第三巻は『茶の書』を含む筈であるといふ。岡倉先生の主要著作が英文であつたため在来日本の読者に比較的縁遠かつたことは、岡倉先生を知る者が皆遺憾としたところであつた。今その障害を除いて先生の天才を同胞の間に広めることは誠に喜ばしい企てであると思ふ。
岡倉先生が晩年当大学文学部に於て「東洋巧芸史」を講ぜられた時、自分はその聴講生の一人であつた。自分の学生時代に最も深い感銘を受けたものは、この講義と大塚先生の『最近文芸史』とである。大塚先生の講義はその熱烈な好学心をひしひしと我々の胸に感じさせ、我々の学問への熱情を知らず知らずに煽り立てるやうなものであつたが、それに対して岡倉先生の講義は、同じく熱烈ではあるが然し好学心ではなくして芸術への愛を我々に吹き込むやうなものであつた。勿論先生は芸術への愛を口にせられたのではない。ただ美術史的にさまざまの作品について語られたのみである。然し先生が或作品を叙述しそれへの視点を我々に説いて聞かせる時、我々の胸にはおのづからにして強い芸術への愛か湧きのぼらずにはゐなかつた。一言で云へば先生は我々の内なる芸術への愛を煽り立てたのである。これはあの講義の事実的内容より遥に有意義なことであつたと思ふ。
先生の講義が右の如く我々を動かしたのは、先生が単に美術品について事実的知識を伝へるに留まらすして、更にそれらの美術品を見る視点を我々に与へ、美術品の味ひ方を我々に伝へたがためであつたと思ふ。この点に於て先生は実に非凡な才能を持つてゐた。今でも自分は昨日のことのやうに思ひ起すことが出来る。支那の玉についての講義の時に、先生は玉の味が単に色や形にはなくして触覚にあることを説かうとして、適当な言葉が見つからないかのやうに、だゞ無言で右手を挙げて、人さし指と中指とを親指に擦りつけて見せた。その時あのギョロリとした眼が一種の潤ほひを帯び、ふてぶてしい頬に感に堪へぬやうな表情が浮んだ。それを見て我々は成程とが合点が行つたのである。
また奈良の薬師寺の三尊について語つたとき、先生はいきなり、『あの像をまだ見ない人があるなら私は心からその人を羨む』といふやうなことを云ひ出した。さうして呆然に取られてゐる我々に、あの三尊を初めて見た時の感銘を語つて聞かせた。特に先生が力説したのはあの像の肌の滑らかさであつたやうに思ふ。あの像も亦単に色や形をのみ見るのではなくして、まさしく触感を見るといふべきものである。それらもたゞ銅のみが与へ得るやうな、従つて大理石や木や乾漆などには到底見ることの出来ないやうな、特殊な触覚的の美しさである。しかもそれが黒青く淀んだ、そのくせ恐ろしく光沢のある、深い色合と、不思議にぴつたり結びついてゐる。さういふ味はひに最初に接した時の驚嘆──『あの驚嘆を再びすることが出来るなら、私はどんなことでも犠牲にする。』この言葉は今でも自分の耳に烙きついてゐる。先生は別にそれを強めて云つたわけでもなければまた特に注意をひくやうな身振りを以て云つたわけでもない。がその言葉には真実が籠つてゐた。さうして我々はまざまざとその味はひを会得することが出来たのである。
かういふ風な仕方で我々は色々の味を教はつた。自分はその時の印象によつてのほか岡倉先生を知らない。秘かに思ふに、あれが岡倉先生の最も本質的な面であつたのであらう。先生が印度に於てどういふ風に独立を鼓吹したか、或は美術院の書家たちにどういふ風に霊感を与へたか、更にまた五浦の漁師たちをどういふ風に煽動して新式の網を作らせたか。それらのことに就ては自分は何も知らない。然し先生が最も好き意味に於て『煽動家』であつたといふことは右の印象からも推測せられるであらう。
先生が明治初年の廃仏毀釈の時代に如何に多くの傑作が焼かれ或は二束三文に外国に売り払はれたかを述べ立てた時などには、実際我々の若い血は湧き立ち、名状し難い公憤を感じたものである。があの煽動は決して策略的な煽動ではなかつた。我々のうちの眠れるものを醒まし我々のうちの好きものを引き出すのが、煽動の本質であつた。
これらの回想に耽るとき、岡倉先生の仕事が再び広く読まれることは、心から願にしいことに思はれる。
和辻哲郎「岡倉先生の思ひ出」『帝大新聞』昭和11年1月
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