坪内高国と愛国交親社①(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』から「坪内高国と愛国交親社」に関わる記述を引く。
 〈愛国交親社は、内藤魯一の指導下にあった自由民権結社の愛知県交親社から荒川定英の発起で「尾張組」が離脱して、創立されたのである。明治一三年(一八八〇)四月五日で、この日、平島村士族坪内高国も入社して美濃組幹事長となった。
(明治一三年)
 旧二月廿六日(新四月五日)坪内高国尾州愛知郡名古屋愛国交親社ヘ入社ス、交親社美濃組ノ幹事長(本部尾張国交親社、美濃組三河組合併)以上三ケ国也(尾州交親社ノ社長・尾張荒川弥五右衛門定英御一新ノ初年坪内三家ニ取成シ、東山道惣督府ヨリ本領安堵ノ御書付ヲ当国揖斐ニ於テ、家臣岩塚らい輔へ御渡シ被成候御方也、当今一名ニ付荒川定英ト云也、同副社長庄林一正元富永孫太夫忠良家来御一新ニ付士族ト成ル、初名松之助後森之助ト云、当今一名ニ付実名ヲ通称トス、日本国中惣名ヲ愛国社ト云、国ノ為ニ成ス故也、当時日本国中十四万四千余人、旧七月末ニ至テ凡七十五万人ト云、日本国中社名百五、六十社ト云)
 愛国交親社は、尾張国交親社に美濃組・三河組が合併したものであった(『坪内高国日記』)。愛国交親社の本部は、各古屋門前町天寧寺(のち同町大光院)に所在し、毎月一五日に同志のものが集会し、毎月三、八の日に撃剣会を催した。当時の愛国交親社の社長は荒川定英、副社長は庄林一正であった。
 愛国交親社は、人間の本来の義務を尽し、愛国主義を拡充して、国権を挽回することを目標としてかかげた民権政社である。主として尾張藩草莽隊員であった者の主導のもとに、都市細民、農村の貧農が参加している。
 松方正義の緊縮財政と増税政策によって民衆生活の窮乏化がはげしくなった明治一四年(一八八一)から明治一七年(一八八四)において、社員が増加して、明治一三年(一八八〇)一一月に、尾張九郡、美濃一〇郡、三河一郡で推定社員一〇〇〇名、明治一四年(一八八一)一一月、尾張・美濃・三河全で推定社員一万五〇〇〇人、明治一五~一六年(一八八二~一八八三)に、尾張・美濃・三河・飛騨・遠江・信濃・伊勢七か国で同二万八〇〇〇人であったという(博徒と自由民権)。坪内高国は彼の入社のころの社員は、二五〇〇人と記している。
(中略)

 愛国交親社美濃組の活動について、坪内高国は次のように、記している。
  美濃国厚見郡加納町六町目浄土宗西方寺ニ於テ取締所、明治十四辛己年(旧五月廿五日、新六月廿一日)初会日也、尤三日以前ニ御届済也、毎月届跡ニテ撃剣也、毎月新暦一日、十一日ハ撃剣計リ也、是ハ初ニ届置申候テ一々不届也、同年(旧九月卅日、新十二月廿日)迄ニテ、翌月ヨリ岐阜誓安寺え転出、尤門前ニ大看板立ツ、愛国交親社ト書ス(堅五尺廿六寸巾一尺二三寸位ナリ)
  同年(旧十月廿四日、新十二月廿日)ヨリ岐阜桜町(稲葉ナリ)壱番地浄土宗西山派誓安寺、俗ニ藤ノ寺ト云、今日ヨリ愛国交親社支店 会ノ始ノ也、毎十五日、跡ニテ剣術有之、毎月三日前ニ御届、表ニ高張大挑燈交親社四半幟立、毎月五日、廿五日は撃剣計リ、是ハ初ニ一度届置也
 右記事は、愛国交親社美濃組の取締所=支社が、明治一四年(一八八一)に、加納町六丁目(現岐阜市加納新本町一丁目)の西方寺に設けられ、後に岐阜桜町一番地(現伊奈波通一丁目)の誓安寺へ移転した模様が記されている。当時岐阜桜町界隈は盛り場であって、人目につくところに進出して、社勢の拡大を狙ったのであろう。誓安寺はその後若宮町へ移転して、俗に弥八地蔵といっている。
 愛国交親社社則では、毎月一回の「本部定例会議」と、各地で開く「政談演説会」と「其ノ筋ヘノ建言」の三つに限定されていた(『博徒と自由民権』)。しかし、社則にない剣術指導が、美濃組においてもなされていた。
 荒川定英は、旧尾張藩の岐阜奉行をつとめた人物で、美濃一帯の勤王誘引に功績があり、賞典禄一〇〇石を下賜されている。維新後は名古屋権大参事に任ぜられ、馬術の名手でおり、武張った性格の持ち主であった。副社長の庄林一正は、世禄八石の尾張藩下級士族で、富永孫太夫の家来として、戊辰戦争に参加した。その後名古屋門前町で宿屋を営み、興行撃剣に力を入れていた。多分に教祖的風貌をもった人物であった(『博徒と自由民権』)。庄林一正は坪内高国の室千勢の里方の用人であった。この二人と荒川定英の長男である太郎が、左にかかげた記事のように、明治一四年(一八八一)一一月に、加納、岐阜へ遊説にきた。
 (明治一四年)(旧閏七月二日、新七月廿六日)尾州愛国交親社ノ社長荒川定英、同副社長庄林一正・荒川太郎(定英長男)右三名人力車ニテ入来社中大勢迎ニ出ル、幹事長坪内高国始メ也、羽栗郡笠松村渡船場南角ノ茶屋ニテ休息、夫レヨリ皆々人力車ニテ厚見郡加納宿荒町橘屋江一泊ス、昼九ツ時頃着也、昼後ノハツ時頃ヨリ加納宿新町北側茶屋愛国交親社ノ社中海老屋坂順助方ニ於テ、正副ノ両社長演説(社長定英云地券書ノ裏ニ政府者地主名前ノ者所有ト可認ト有リ、承和元年天皇ノ御時天子御疲弊ニテヒキガイルヲ御焼物ニテ被成侯位ニテ、其時地所ヲ御払イ下ケニ相成、其後イツ政府へ買上ケニ成タルカ不知、今更申出スモ跡ナリ、地券書渡シノ時申スド宜敷ト云)夕暮六ツ時前頃迄坪内高国室予勢女両社長江面会ス、並ニ演説聴聞ス、翌(旧三日、新廿七日)日朝岐阜ヘ行ク、矢島町喜久平泊昼後九ツ半頃、末広町花角座ニ於テ(芝居大舞台)両社長演説夕碁迄(加納・岐阜共無銭前以岐阜警察署ヘ届置、演説外題モ同断)翌(旧四日、新廿八日)名古屋へ引取侯也。〉
[続く]

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