肇国の理想を現代において実現しようとした先駆者

筆者が『維新と興亜に駆けた日本人』で取り上げた人物は、(ちょう)(こく)の理想を現代において実現しようとした先駆者である。彼らは、幕末から明治・大正期を中心に活躍した。わが国が西洋列強に対峙したこの時代、肇国の理想に添って生きるとは、維新の続行・貫徹と興亜に尽くすことを意味したのではないか。彼らは欧米型の外交路線に抗い、藩閥支配、有司専制に対して民権を唱え、国権、自主独立の立場から列強との不平等条約に異を唱えた。興亜の立場から列強の帝国主義路線とは異なるアジア合邦を模索する一方、列強の植民地支配から脱しようとするアジアの民族独立運動を支援した。より具体的に言えば、朝鮮開化派のリーダー金玉均、辛亥革命を成功させた孫文、インドの志士ビハリ・ボースらを支援した。
彼らの中には、国体に合致した経済のあり方を模索し、大化の改新以来の王土王民論・奉還論によって資本主義の克服を目指した者も少なくなかった。
国体の理想の追求はまた、物質至上主義、人間中心主義、競争至上主義といった西洋近代文明のあり方を乗り越えようとする文明戦でもあった。それは、「文明とは、道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず」と語った南洲や、西洋近代の価値に「美」の価値を対置した岡倉天心の思想などに象徴的に示されている。そもそも、肇国の理想の中に西洋近代文明を乗り越える文明原理がある。
むろん、欧米列強の進出に対抗するために、わが国は富国強兵策を必要とした。この路線を推進する上で大久保利通らの指導者は大きな功績を果たした。だが、欧米型の近代化路線を推し進めるだけでは、国家の生存は図れても、国体の理想は実現できない。大東塾塾長を務めた影山正治は、「幕末尊攘派のうち、革命派としての大久保党は維新直後に於て文明開化派と合流合作し、革命派としての板垣党は十年役後に於て相対的なる戦ひのうちに次第に文明開化派と妥協混合し、たゞ国学の精神に立つ維新派としての西郷党のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶対絶命の戦ひに斃れ伏したのだ」と書き、西南戦争を尊攘派最後の決戦であったとともに正統国学派最後の決戦であったと位置づけた(影山正治『大西郷の精神 増補改訂』大東塾出版部、昭和十八年、二百八頁)。
南洲らが、「維新の純粋道」に徹することができたのは、彼らが肇国の理想を把握し、それを実践しようという強い志を抱いていたからにほかならない。肇国の理想は神武創業の詔勅に示されている。『日本書紀』は次のように伝える。

「我(あずま)を征ちしより茲に六年になりぬ。(あまつ)(かみ)の威を(かゝぶ)りて、(あだ)(ども)就戮されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ清らず、(のこりの)(わざはひ)、尚(あれ)たりと雖も、中洲之地(なかつくに)(大和地方=引用者)(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都を(ひろめ)(ひら)き、大壮(みあらか)規摸(はかりつく)るべし。而るに、今(とき)此の屯蒙(わかくくらき)(あひ)て、(おほみたから)の心朴素(すなお)なり。巣に棲み穴に住み習俗(しわざ)惟常となれり。夫れ大人(ひじり)(のり)を立つる、(ことわり)必ず時に随ふ。苟も民に(さち)有らば、何にぞ聖造(ひじりのわざ)(たが)はむ。且当に山林を(ひらき)払ひ、宮室を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮め、上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫の(ただしき)を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)(おほ)ひて(いえ)と為むこと、亦可からず乎。夫の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原の地を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か、可治之(みやこつくるべし)

この詔勅の重要性を、民族派指導者の中村武彦は三つの観点に整理し、以下のように書いている。
「第一に民生本位の原則、日本的民主主義とでもいおうか。国政の運営、制度の改廃が、民の利福を主として大胆になさるべきであり、時の変化にしたがい維新が行われなければならぬという闊達な民本思想の表明である。
第二に国家統治の基本原理は、もっぱら祖宗の遺訓を奉じ、天業を弘めるにある。もろもろの神勅や神器にこもる、神秘なる御教訓のすべてを綜合して『授国之徳』『養正之心』を奉じ、地上に神ながらの道義国家を建設して行こうとされるのである。ここに国民のことを『元元』と記し『おほみたから』と読ませることにも、注目を要する。
そして第三に堂々たる(はっ)(こう)()()の宣言である。まず神意が日本の国に実現したならば、『然る後に』進んで国の外に向っても、この真理と正義を広め、人類を友とし、家族としなければならぬ。四海同胞、世界一家。侵略でも何でもない世界平和の宣言である」(『現代維新の原点』古神道仙法教庁、昭和五十一年、百十頁)
ところが、戦後、占領下において私たちは八紘為宇という言葉を封印された。その後も、八紘為宇は日本の膨張主義を正当化するスローガンとして否定的に理解されている。しかし、神ながらの道義国家を建設した後、それを世界に広げようという考え方は、私たちが誇るべき肇国の理想にほかならない。その発想は古く、すでに日清戦争後には明確に唱えられていた。例えば、興亜の先覚者・荒尾(せい)は『対清弁妄』(明治二十八年)において「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也」と語っていた。
『維新と興亜に駆けた日本人』で取り上げた人物は、この荒尾と同様に、興亜の使命を肇国の理想の体現として位置づけていた。それは、欧米列強の帝国主義の対極にあるものである。

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