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ハイブリッド戦時代の「総力戦的虚々実々の戦法」─「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」②

 高嶋辰彦は、天地人の広漠複雑性に注目して西欧兵学の科学技術万能の限界を次のように説いた。
 「西欧の世界は天地人共に東洋に比して矮小である。其處に発達せし尖鋭なる科学と技術とが、武力戦に於いて特に絶大の決戦力を有つことも亦当然である。ドヴエーの空軍万能論の如き其の最も極端に趨りて稍々迷妄に堕したる一例である。
 東洋の武力戦に於ても、尖鋭なる科学、卓越せる技術に基く所謂近代的兵器の威力の重要なるは言を俟たない。併し此処に於ける天地人の広漠複雑性は、幾多の制約を西欧的科学、技術兵器の上に課するのである。自動火器の故障、火薬の燃焼躱避、戦車、自動車、飛行機の速かなる衰損の如き其の一例である。
 東洋兵学兵制に於ける科学技術は独特の大自然に即し、西欧流のそれに対し厳密なる検討を遂げ、独自の境地を開拓して自ら完成すべきであろう」
 続けて高嶋は、後方業務の重要性を次のように指摘する。
 「西欧兵学に於てすら或は集中を以て戦略の主位とした。東洋戦場に於ける武力戦の困難は後方に在る。作戦兵力の輸送、集中、転用、軍備の補給、守備、治安等に関する複雑困難さは西欧と同日の比ではない。従つて之を克服することに寧ろ戦勝の決定的要素を見る。蒙古軍即ち元軍が常に其の補給点を前方に求めたるが如きは多大の示唆を含むものである。後方業務を重視し、東洋独自の新原則の確立と共に、有事に際して必ず之が圓滑を期することは東洋兵学に於ける重要課題である」
 さらに高嶋は、武力偏重の西欧兵学に対して、総力戦的虚々実々の戦法の優位性を説く。
 「西欧は地域矮小、民族単一、国家の総力的団結比較的鞏固である。此処に発達したる兵学が武力偏重の強制的色彩を帯ぶるは止むを得ない所である。然るに東洋の実情は大いに之と異り、前諸項と関連して総力的見地に於て到る処に虚隙を呈し、普く之を塡むることは殆んど不可能に近い。
 此の処に乗じて敵の意表に出で、総力戦的優勢の発揮を、在来兵学の原則に準じて行ふの余地は東洋に於て最も大である。斯かる総力戦運用の原理は、又武力戦内部に於ける思想手段、経済手段等を以てする総力戦的虚々実々の戦法に於て多大なる開拓の前途を有して居る。正に東方兵学の高次性を発揮すべき好適の一面である」
 ハイブリッド戦の時代が到来したいま、「総力戦的虚々実々の戦法」こそ、東方兵学の高次性を発揮すべき分野なのではなかろうか。

佐藤堅司が注目した武学資料─大関増業『止戈枢要』

 下野国黒羽藩主・大関増業(ますなり)(1781~1845年)が編述した兵学書が『止戈枢要(しかすうよう)』である。増業は、水戸の烈公(水戸斉昭)とも交流があった。
 「止戈」は「武」の字の解体。増業は、文化11(1814)年から文政5(1822)年の8年間を費やして、編述に当たった。
大関増業像(小泉斐筆、東京国立博物館蔵)
 その内容は、武芸・兵法などにとどまらず、測量・医学・機織・組紐・染色・衣服・書法・茶事などあらゆる分野に及ぶ。特に甲冑などの武具類については、素材となる皮革・繊維・染料などから製作技法の工程までが詳述されている。
 大田原市(旧黒羽町)芭蕉の館(大関文庫)には、増業の著書が保管されている。
止戈枢要

日本兵法の永久的大指針─佐藤堅司『日本武学史』より

 佐藤堅司は『日本武学史』において、日本兵法の永久的大指針について次のように記している。
 〈私は日本兵法の特質考察の重点を『日本書紀』神武天皇巻(『神武紀』)」に置きたいと思ふ。『日本書紀』は皇国万代の綱紀を闡明した最初の正史であるが、同時に日本兵書(『武書』と呼ぶのが適切である)の最古のものである。少なくともそれは最も古い武学資料を包蔵する史書である。私は山鹿素行の『中朝事実』武徳章と玉木正英の『橘家神軍伝』と跡部良顕の『神道軍伝』とが『日本書紀』の抜粋並びにこれに対する武学的解説であつたのを知り、夙くそれらに対して大なる関心をもつてゐたのである。然るに私はさらに大関子爵家秘蔵の『止戈枢要』といふ厖大なる編纂兵書を拝見した時、そのなかの圧巻と思はれる『六史兵髄』が『日本書紀』を根本とした六国史の兵髄であり、貴重な武学資料であることを知り、抜粋大関増業に対して深甚な敬意を表する気持になつた。従つて私が『神武紀』を選んだ理由は、同記における 神武天皇の兵法の特質を最もよく確認することが出来ると信じたからである。
 私は『神武紀』を武学史研究者としての新たな観点において熟読した結果、神武天皇の陸海平等戦略と神策と神仁の戦法と攻撃戦法とが日本兵法の永久的大指針であつた事実を発見して、日本必勝の理法と日本が世界無双の兵法国である事実とを確認することができた〉

「肇国の大精神を世界に顕現実践することが皇戦の目的だ」

高嶋辰彦は、昭和十三年十二月に著した『皇戦 皇道総力戦世界維新理念』(戦争文化研究所)で、次のように皇戦の目的を説いている。
「(支那)事変を体験するに伴ひ逐次認識を明にせる事項の一つは、我が国の戦争即ち皇戦の目的は、我が國體の保護宣揚、即ち我が国ごころを内外に宣べ行ふこと、更に換言すれば我が肇国の大精神を世界に顕現実践して、建国以来の真生命を達成するに在るといふことである。国防に関する一般通年たる人民、国土、資源等を外敵に対して護るとか、その危険を未然に防ぐため、予め脅威を取り除くとか、乃至は自ら力を養ふために国防力要素の不足を獲得するとかいふが如き在来の考へ方では、不知不識の間に皇戦の本義を没却するが如き重大過誤に陥る処が多いのである。……こゝで特に大切なことは、此の国ごころは決して外に対して宣揚するだけではなく、国内に対して同様の作用を必要とするといふことである。国内即ち日本全国民が先づ世界に実践の模範を示し得るだけの国ごころの体得者、実践者とならなければ、対外宣揚の資格と力とがない……」

敵将兵を味方とするような東洋兵学

支那事変以降、高嶋辰彦は東洋兵学の重要性を説くようになった。東洋兵学に対する高嶋の思いは戦後も持続した。例えば彼は、昭和三十(一九五五)年七月に「アジア政策における日本の体験と日米相互安全保障の将来」(『月刊自衛』)を著し、東洋では統率即ち人の掌握と統御指導とが兵学の第一義だと説いた。
彼は、ジンギスカンが親兵一万人の姓名を記憶していたという伝説を紹介し、兵の掌握は下士官級、でき得れば兵まで貰かれていなければならないと説いた。その上で高嶋は精神指導、心理掌握のための教育の重要性を指摘した。
さらに高嶋は、戦場や駐留地附近の現地住民の心を味方とすることが必要だと説き、朝鮮戦争に参加した際の中共軍の例を挙げる。高嶋によると、中共軍の「抗美援朝教育」は、現地住民を味方とするために徹底的な教育を行った。
そして高嶋は、東洋においては、敵に向う前に敵地の住民、敵軍の将兵、敵将の側近までみ、できる限り味方にするように工作し、敵将が孤立し、崩壌する寸前に、敵住民に歓迎されながら進軍して行くのが名将の術とさえ言われていると述べ、次のように書いている。
「これらの点でソ連や、中共の戦略、手法はアジア、東洋兵学の真髄をつかんでいる点がある」
本来、日本でもこうした兵学が維持されていたが、明治以降の兵学は多くを西欧に学んだため、現地住民、敵地住民、敵将兵を味方とする様な兵学は後退してしまった
さらに高嶋は、西欧兵学はアジアにおける地上戦や、駐留勤務に困難を来す盲点が存するのではないかと指摘する。この高嶋の指摘は、アジア各地での反米機運の効用、ベトナム戦争でのアメリカの敗北というその後の歴史を予見しているかのようである。

富塚正輝「真の日本近代史の見方 示す」(『山形新聞』令和4年12月14日付朝刊)

エッセイストの富塚正輝氏が『山形新聞』(令和4年12月14日付朝刊)に拙著『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』の書評を書いてくださいました。誠にありがとうございます。

 木村武雄(米沢市出身)といえば「元帥」という愛称で知られ、戦後田中角栄内閣では建設大臣として、また日中国交正常化の黒子として活躍した政治家である。昭和史の裏側が主な活躍の場だったせいか、まだ正常な評価が得られていない。本書は木村武雄の生涯を追ったものである。
 木村は戦前、満州事変の首謀者であった石原莞爾(鶴岡市出身)の薫陶を受け、日本・満州・支那(現中国)の対等な連携を謳う「東亜連盟」立ち上げに尽力した。これで西洋のアジア侵略に対抗しようとしたのだ。これを著者は王道アジア主義とし、西欧列強とともにアジア大陸での眼前の利益や果実をむさぼり食らうことに精いっぱいで、日本をアジアの盟主と思い上がった東条英機や武藤章ら統制派陸軍軍人らと、それらに阿諛追従(あゆついしょう)していた思想家やマスコミ人のことを覇道アジア主義として峻別する。しかし、それらは終戦とともに連合軍によって一緒くたに解体させられた。
 そうした中でも、木村は王道アジア主義思想を受け継ぎ、日中国交正常化を成し遂げた。しかし、日中接近を嫌うアメリカの逆鱗に触れ、田中はロッキード事件で葬り去られた。
 実は明治維新以降、王道アジア主義的な思想こそ日本近代の精神史の象徴であり、主流であった。しかし覇道アジア主義者により換骨奪胎され、大きな誤解を生んだ。現代の戦後教育の現場では、これらの事象はことごとく隠蔽されてしまっているので、日本近代史の本当の姿が見えてこない。本書は木村を通して、真の日本近代史の見方を提示する。
 また面白いことに、王道アジア主義の系譜として「置賜アジア主義」という言葉が存在するという。その源流は、幕末維新期に活躍した宮島誠一郎(米沢藩士)に発し、その息子・宮島詠士(大八)へと連なり、石原莞爾を経て、その末端に木村武雄がいるのだ。
 残念なのは、本書での木村の行動の言及の中で、蓋然性が高いとはいえ、想像や推測が多いこと。最も歴史の裏の裏を語る時にはつきものなのだが。ともあれ、現在の日中関係の現状を木村は天国からどう見ているのだろう。
富塚正輝「真の日本近代史の見方 示す」(『山県新聞』令和4年12月14日付朝刊)

高嶋辰彦「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」①

令和四年十二月に策定された国家安全保障戦略には、「サイバー攻撃、偽情報拡散等が平素から生起。有事と平時の境目はますます曖昧に。安全保障の対象は、経済等にまで拡大。軍事と非軍事の分野の境目も曖昧に」と書かれている。軍事的手段と非軍事的手段を組み合わせた、いわゆる「ハイブリッド戦」の時代が到来しているということである。
まさにいま、西欧兵学兵制の限界を克服し、皇道に基づいた日本独自の兵学兵制を活用する時がきているのではないか。そこで浮かび上がってくるのが、戦前に皇道兵学兵制を説いた高嶋辰彦の思想的価値である。
同時に、わが国は欧米列強の覇道主義に抵抗する過程で、自らが覇道主義に陥り、日本軍は皇軍としての誇りを失ってしまったかに見える。それが日支事変の戦局にも暗い影を落としていたのではあるまいか。日本を取り巻く安全保障上の環境が厳しさを増す中で、自衛隊は防衛力の強化の前に皇軍としての誇りを取り戻す必要がある。そのためにも、高嶋が唱えた皇道総力戦思想に学ぶべき時である。
高嶋は、昭和十三年十月に、「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」(『偕行社記事』)を著し、次のように指摘した。
「今次支那事変の体験は、東洋における於ける戦ひが、其の質に於て欧州大戦をも凌ぐ複雑多岐の一面を有し、高次なる我が皇道総力戦を以てして始めて克く之が解決を期し得べきことを明かにした。是れ此の事変の有する世代的、世界史的重大意義と、東洋の実情、我が国の特性等との然らしむる所である。
是に於て近世世界を風靡せるの感ありし西欧流の兵学、兵制も亦更に遥かに高次なる新興兵学兵制の前に、縦横に批判せられ、嶮厳なる栽きを受けざるを得ない趨勢となつて来た」
高嶋は東洋の実情と我が国の特性と西欧兵学兵制とを対比する。自然現象の活用という観点については、次のように指摘している。
〈西欧の自然は単一である。其処に発達したる兵学が地形主義万能に堕し、自然現象の活用に於て幼稚なるは言を俟たない。之に反し東洋のそれは実に千変万化、其の複雑多岐なる点に於て世界に冠たるものがある。所謂「天の時」が古来の東洋乃至日本兵挙に於て重要視せられた所以であらう。
炎熱、大旱、酷寒、氷結、大雨、颱風、洪水、飢饉、黄塵等の大規模周到なる兵学的活用は、正に東洋兵学者の究明創設すべき重要課題である〉
高嶋はこう述べて、大地の活用を指摘する。
〈西欧の大地も亦単一である。其処に発達した兵学が地形主義万能とは謂へ、尚甚だ単純なる地形を基礎としあるも亦止むを得ない。然るに東洋に於ける大地の変化は又世界に冠たるものがある。所謂「地の利」の高唱は之に因するのであらう。
大規模なる山岳、密林、濕地、湖沼、河川、平原、沙漠等及其等の内に生成する幾多の動植物は限り無き多元性を展開して居る。乃ち之に関する大局的兵学上の運用原理の開拓も亦東洋兵学の見逃すべからざる重大任務と謂ふべきであらう〉
次に高嶋は大海洋の活用を説く。
「日本を繞る海洋の広大にして複雑なるは之れ亦到底西欧の比ではない。唯々此の方面に於ては英国及最近の米国が類似の戦場を予想して居る。故に我等の努力としては、大海と複根なる小海との関連、海洋と大陸との連鎖、之に伴ふ陸海空三軍の有機的協同運用に兵学研究上の重点が指向せらるべきであらう。
次に「人の統御と操縦とに依る思想手段の重要化」についてこう述べる。
「西欧陸地上の人性は単純である。一見理窟多きが如く見ゆる徒等は、強権強力の前に、又は思想的指導の前に案外単一従順なるは歴史の示す所である。此処に発達したる兵学が「人」の統御と操縦とに関する取扱ひに於て、比較的あつさりして居ることは当然である。然るに東洋大陸に於ける人は全く之と其の選を異にする。柔なるが如くにして靭、屈したるが如くにして実は然らず。単純なる強権強力は動もすれば意外の反発に遭ひ、向背離合容易に予想すべからずして、今日の主従朋友忽ちにして明日の敵味方となる。所謂「人の和」が重要視せらるゝ所以であらう」

藤本隆之さん、ありがとう

 藤本隆之さんが令和4年9月16日に永眠されました。謹んで哀悼の意を表します。
 寂しいです。いまも藤本さんの顔を思い浮かべると、あの独特の口調で話す彼の声が聞こえてきます。
 「ボクはボクですから」
 「俺はやるどー」
 「急ぐべからず、慌てるべからず」
 「お主も、〇〇だね」
 「ラジャー」
 「あいよ」
 そして、酔えば「酒の一滴は血の一滴」……。

 藤本さんと最初に直接お会いしたのは、平成10(1998)年前後だったと記憶しています。新嘗祭で小田内陽太さんから紹介していただいたのが、最初だったと思います。以来、親しく付き合わせていただきました。死ぬほど飲みましたね。周囲は、「致死量を超えるほど飲んでいる」と呆れていました。
 いつも最後は、「原宿に行くぞー」と言って、馴染みのロック・バー「ハーフムーン」に連れていかれました。若い頃は、とことん付き合いました。
 私が藤本さんの寿命を縮めたA級戦犯であることは間違いないところでしょう。私は、藤本さんから「お前、飲みすぎだよ」と真顔で言われた人間ですから。

 最初の頃は、酔って意見が対立すると、いきなり頭突きをしてきました。5回ほど頭突きをされたことがあります。
 『月刊日本』副編集長の尾崎秀英君を、藤本さんに紹介したときのことです。やはり議論が白熱し、いきなり藤本さんは尾崎君に頭突きを食らわせました。ところが、尾崎君も引きません。思いっきり頭突き仕返したのです。以来、藤本さんが頭突きをする頻度は次第に減り、やがてしなくなりました。尾崎君も酒を飲み過ぎたことが発端で病気になり、40歳の誕生日を前に亡くなりました。藤本さん、あの世で尾崎君とはもう対面しましたか。

 平成24年(2012)年5月15日、岐阜護国神社で五・一五事件80周年大夢祭が開催されました。前日の14日、廣瀬義道さんらとともに、東京から車で岐阜に向かいました。
 藤本さんは、焼酎の水割りを水筒に忍ばせて後部座席に座り、こっそり飲り始めました。途中、飲み過ぎて手洗いに行きたくなった藤本さんは、高速道路走行中に、運転していた廣瀬さんに「止まれ」「おい、止まれよ」と、繰り返し叫びました。廣瀬さんは、やむを得ず路肩に停車。藤本さんは、車から飛び下り、慌てて用を済ませた瞬間、足を踏み外して崖から転落。皆、櫨本さんは崖底まで転落し、逝ってしまったと思ったことでしょう。皆、言葉を失いました。
 それでも「生きているかもしれない」と思った私は、「藤本しゃちょーーー」と大声で叫んでみました。すると20メートルほど下の方から「おー」という声が聞こえてきました。枝に引っかかって、下まで転落するのを免れたようです。崖から這い上がってきた藤本さんは、「悪い」と言って、何事もなかったように車に乗り込みました。
 その1年後の平成25(2013)年のある日。新宿で散々飲んで泥酔。「次行くぞ」と言ってフラフラと中華料理店に入ろうとして、ガラスに向かって突進。その瞬間、ガラスが粉々に割れました。そこに藤本さんは倒れ込みそうになりました。それを助けたのが私です。以来、「お前は俺の命の恩人だよ」と言ってくれるようになりました。
 その後も、お互いに酒の失敗を繰り返しつつ、飲み続けました。やがて、藤本さんのホームグラウンドは、下北沢のバー「トラブルピーチ」になりました。酔っぱらって携帯を頻繁になくすため、奥さんに携帯の所持を禁じられました。そのため、連絡を取り合うのが、面倒でしたね。
 平成28(2016)年10月29日に大アジア研究会主催で、山下公園において、フィリピンの英雄アルテミオ・リカルテ生誕百五十年記念祭を開催した時には、二日酔いのまま、東京から横浜までタクシーで駆け付けてくれました。令和元(2019)年10月26日に、富士霊園で開催した三上卓先生墓前祭にも参加してくれました。この時もやばかったですが。

 ただ、私と藤本さんは酒を飲んでいただけではありません。国を憂いて真剣な議論もしました。何よりも、藤本さんからは、酒を介して、多くの方をご紹介いただきました。その事を何よりも感謝しています。
 藤本さんは、交流が深まるにつれ、私が書いたものにも注目してくださいました。ただ、遠慮なく言い合える仲でしたので、厳しいことも言ってくれました。「文章に艶がないね」「文章は下手だね」と。
 「だけどお前もブレずに書いてるね」ということで、『月刊日本』に書いた連載をまとめて、平成20(2008)年11月に、展転社から「アジア英雄伝ー日本人なら知っておきたいに十五人の志士たち」を出版していただきました。
 翌平成21(2009)年4月2日に、文京シビックセンターで出版記念会を開いていただきました。深く感謝しています。その後も、展転社から『維新と興亜に駆けた日本人―今こそ知っておきたい二十人の志士たち』(平成23年)と『GHQが恐れた崎門学─明治維新を導いた國體思想とは何か』(平成28年)を出版していただきました。
 やがて、藤本さんは展転社を退職。私は月刊日本を退職。
 ちょうど2年前の令和2年12月12日、藤本さんは福永武さんの協力を得て、大東会館を借りて壮行会を開いてくださいました。そこで、同志を集めて私を励ましてくれました。『維新と興亜』が本格稼働を始めた時でした。深く感謝しています。
 藤本さんは体調を崩していましたが、『維新と興亜』の顧問にも就任してくださり、営業面でも編集面でも的確な助言をしてくれました。書店取次のJRCにも同行していただき、『維新と興亜』の書店販売の道を開いてくれました。
 また、オンラインで開催している『維新と興亜』塾「橘孝三郎を読み解く」(講師:小野耕資)や維新と興亜懇談会には欠かさず参加され、議論を盛り上げてくださいました。
坪内隆彦壮行会

 藤本さんは、『維新と興亜』が今年7月22日に敢行した外務省前抗議街宣(日米地位協定改定要請)にも参加し、街宣車に上って堂々たる主張を訴えました。久々に街宣車からの演説をして闘志に火がついたのか、また街宣をやりたいと言い始めました。しかし、残念ながらそれが実現することはありませんでした。
 藤本さんは、今年10月22日に還暦を迎えるはずでした。そこで、8月に入ると私は稲貴夫さんたちと相談し、還暦のお祝いを企画しました。ところがその矢先、藤本さんは逝ってしまいました。
 最晩年、肝硬変について尋ねると、藤本さんは「大したことねえよ。医者も飲んでいいって言ってる」と言い張りました。「そんなはずはない」と思ってましたが、それでも藤本さんに、「一切飲むな」と言うことはできませんでした。私がもっと強く止めていればと悔やまれます。しかし、藤本さんは最後まで自分らしい生き方を貫かれました。酒は全力で走るためのガソリンだったのですね。
 藤本さん、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。いずれ、そちらで一献やりましょう。

稲村公望氏による『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』紹介(令和4年12月6日)

 郵政関係者に読まれている、いわゆる専門紙の「通信文化新報」に令和4年1月31日号から、「石原莞爾の理想を体現した男・木村武雄」の連載が始まったが、このたび、一冊の単行本としてまとめられた。本書の主人公、木村武雄という山形県米沢出身の政治家が、もう日本人の記憶から忘れられかけようとしている軍人の石原莞爾が主張した「王道アジア主義」を具体化する第一歩として、日中国交正常化を位置付けたことを詳細に後付けている。本年9月29日が日中国交回復50年の節目の年にあたり、しかも、米中がそれぞれ覇権を求めて激しい対立関係に陥り、日中関係では、中国が拡張独裁の帝国化したのは、日本が国交を正常化して、大々的に援助して経済発展を後押しして、それが、結局中国を軍事大国化させたのではないかとの批判がある。著者は、「王道アジア主義とは、覇道の原理でアジアに迫る欧米の勢力を排除し、王道の原理に基づいたアジアを建設することにある。王道とは道徳、仁徳による統治であり、覇道とは、武力、権力による統治だ。王道アジア主義の基本原則は「平等互恵の国家関係を結ぶ」「アジア人同士戦わず」である。」と定義している。日中国交正常化を、客観的に滔々と流れる歴史の時間軸のなかで検討して再評価する、日中関係史の必須の文献として時宜を得た出版となった。木村武雄は、中国側の交渉相手、廖承志と共に、日中国交正常化の実質的な裏方の役割を果たしたが、政治の世界では、裏方の「影武者」に徹したために、これまで見るべき評伝もなかった。一読すれば「かつては、このような立派な政治家がいたのか」との感懐を持つに違いない。
 著者は、「王道アジア主義は、西郷南洲を源流として、宮島誠一郎、宮島大八、南部次郎、荒尾精、根津一、頭山満、葦津耕次郎というった人物に継承されていた。」と、明治以来の日中関係の歴史を概観する。日本と中国との外交に係る思想史の文献ともなっている。木村武雄が、大陸国家の中国とばかりではなく、潜在的海洋大国であるインドネシアのスハルト大統領との間にも深い信頼関係があったことにも驚かされる。現代日本の政治家のなかに、胸襟を開いて外国の政治指導者と電話一本かけられる関係をもつ政治家がちゃんといるだろうか、あるいは、クリスマスカードや年頭の挨拶状等を外国に100枚以上出している国会議員がいるだろうか、と心配する向きも出てこよう。
 木村武雄の出身地の米沢では、「どんなに損をしようが、貧しい思いをしようが、自分の意志を頑なに貫き通すという一徹さを持った人のことを「そんぴん」という。もともと「損貧」と書いたらしい。」木村武雄は、名君、上杉鷹山公の生きざまも継承した人物のようだ。
 本書全213ページの構成は、次のとおりである。まえがき、第一章 政治家・木村武雄の誕生、第二章 石原莞爾と東亜連盟、第三章 王道アジア主義の源流、第四章 執念の日中国交正常化、第五章 田中角栄失脚の真相ー王道アジア主義を取り戻せ、あとがき。

新刊紹介『通信文化新報』令和4年11月21日付)(『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』)

 9月29日に日中国交正常化50周年を迎えた。日中国交正常化は両国首相の田中角栄と周恩来が実現したが、影の主役は木村武雄と指摘す
る。正常化に邁進した木村の原動力は王道アジア主義。
 アジアを直視し、アジアの独立と繁栄が日中の調整に始まるとしたのが戦前からの王道アジア主義。その実現として日中国交正常化を位置づけた。木村は佐藤栄作首相を動かそうとした。しかし「笛吹けど踊らず」。木村は諦めず、田中角栄に期待した。
 これまで、日中国交正常化における木村武雄の役割に光が当てられなかったのは、彼が「政界の影武者として生きる」と決めていたことという。さらに大きな理由は、アメリカにとって不都合な人物と認定されたからとする。黙殺されてきた木村の日中国交正常化の役割と王道アジア主義について明らかにしている。
『通信文化新報』令和4年11月21日付