昭和皇道維新の断行
昭和8年7月の神兵隊事件は、斉藤実を首班とする内閣を妥当し、一挙に国家の現支配機構を破壊し、帝都を動乱化して戒厳令下に導き、大詔渙発を奏請して皇族を首班に推戴する臨時非常内閣を樹立し、これを中心に新政治機構を組織し、日本主義皇道を指導原理として帝国憲法をはじめ法律、政治、経済その他諸般の制度を根本的に改廃することを狙って行われようとしていた。その目的は、皇国本来の一君万民・祭政一致の天皇政治を擁立し、神武肇国の皇政に復古し、明治維新の追完たる昭和皇道維新を断行することであった。
当初7月7日の決行を予定していたが、一旦延期されて、7月11日の決行となり、前日の10日夜明治神宮講会館その他で待機中に首脳部の前田虎雄らが検挙され、未遂に終わった(日高義博「神兵隊事件の裁判の経緯と争点」(専修大学今村法律研究室編『神兵隊事件(2)』1985年)、107頁)。
計画の中心人物は、天野辰夫、前田虎雄ら愛国勤労党(ただし、中谷武世、下中弥三郎、半田敏治ら愛国勤労党の主力は参加していない)と鈴木善一ら大日本生産党系の維新派である。天野は、昭和4年に愛国勤労党を組織、全日本興国同志会の中谷武世、高畠系の神永文三、欠部周、急進愛国党の津久井龍雄、伊知地義一の結集を目指していた(石村修「神兵隊事件と国体明徴運動」(『神兵隊事件(2)』)、132頁)。前田は、大正14年10月頃、井上日召、本間憲一郎、本島完之とともに新日本建設同盟を結成していた。
五・一五事件後、政党が斥けられるようになったものの、完全になくなることはなかった。斉藤内閣は、政党・軍部・官僚の妥協内閣であり、五・一五事件の鎮静作用を主要目的とするものであった。事件は未遂に終わったが、法廷闘争によって、その思想の普及に努めた意義は大きい。中谷武世は、次のように書いている。
「深い造詣から来る彼の国体観、皇道の真義、国体本来の真姿とは似ても似つかぬ現実の政治、経済、社会及び国民思想の面に於ける荒亡乱離の現状の精密な分析とこれを克服打開するため同志を提げて決起するに至った皇道維新計画の真意等について、多年の弁護士生活で鍛えた彼の優れた弁舌力も手伝って彼の大審院法廷に於ける陳述は、傍聴人のみならず彼に従って此の事件に参加した若い同志達に対する啓蒙的な再教育の効果さえ生んだのである」(『昭和動乱期の回想―中谷武世回顧録 下』泰流社、1989年、458頁)