坪内隆彦 のすべての投稿

鈴木大拙「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)

鈴木大拙は「東洋思想の特殊性」(『禅文化』昭和34年8月)において、次のように書いている。
「さて、東洋思想の特殊性ですが、西洋の人は客観的にものを見る。客観的に見るから知的になる。たとえば、ここに一つの紙片があるとする。西洋の人のやり方についていふと、この紙片は、白いとか、字が書いてあるとか、薄いとか、四角いとか、あるいはかう二つに折ってあるとか、そして科学的に見ると、この紙が何から出来てをるのか、──炭素がはひつてるだらうな、燃えるから。水素はないでせうね、水気がないから。──とにかくそんなことで、この紙がわかったことになるんですな。ところが東洋の人のやり方は、さうではなくて、特に老荘や、仏教の云ひ方は、さういふ紙を外から見た話でなくして、紙そのものになれといふのですね
そして、西洋の人が東洋のことを研究する、ことに仏教や老荘を研究するとき、これがどうしてもわからぬ。紙になれといふと、どうして人間が紙になれようかと、まあ、そんなやうに考へるですね。
鈴木大拙
お前が紙になれ、紙になれば紙がわかる。蜜柑になれば蜜柑がわかる。蜜柑の形容をいくら外から持ってきても、物理的、科学的に、今日はアトムの時代だから、原子的に考へてみたところが、蜜柑はわからぬ。蜜柑と一つになれば、それで蜜柑全部がわかる、といふやうなことを、欧米の人にいふと、蜜柑をどうしても外におく。どうして蜜柑になれようかと云ふ。客観的に、分析的にものを考へるくせのある人は、それが容易でない。東洋の人のはうは割合にやりやすい。さういふ伝統があるからですね。欧米の人はさういふ伝統を持たんですね。
欧米の人の考へにすると、ものになるといふその証拠が出ないといかんと云ふ。その証拠といふのが、客観的な証拠になるのですね。つまり研究をして、それを実験して、実験がその人の云ふ通りになれば、それで証拠が立つたといふわけです。ところが東洋の人、ことに仏教や老荘的な人は、証拠なんてことをいふから駄目なんで、証拠も何もないといふこと、そのことが証拠だ。このことのほかに証拠を求める必要はないと云ふ。いはゆる「肯心自ら許す」といふことでたくさんだ、と。
証拠を求めるとか、証拠を出すとかいふことが第二義におちいつてをるんだから、いらない話だ。かう云うても、西洋の人ではどうしてもその通りにならないのです。すべてが論理的にいかないと承知ができない。論理的にいくといふことが、また大きな力なんです。
客観的にものを処理していくところには、それだけの特色がある。それはどういふ特色かといふと、ものを概念化するといふことが、その特色の一つですね。
ところが、この分析的な客観的な見方をすると、蜜柑が一つ二つ、三つ四つと、いくつでもあるわけです。ところが主観的な見方といふか、東洋的な見方にすれば、一つの蜜柑になりきれば、その一つの蜜柑が、二つにも三つにもなりうるんだとするですね。西洋的の見方にすれば、二つ三つになったその蜜柑から、どの蜜柑にも通用する特質を抜き出してきて、これが蜜柑だといふのです。この蜜柑は少し青い、その蜜柑は黄色い、ことちは酸とぱい、そつちは甘いが、しかしながら、その蜜柑たるにおいては同じであるといふ。その蜜柑たる特殊性を抜き出してこれが蜜柑だと、かういふ。つまり抽象的な考へ方ができる。抽象的に考へることができるといふことも、また大切なことなんですがね。
しかしながら、抽象になると、個人の生きたものはなくなるですね。みな型にはまつてしまふ」

ブルース・リーと陰陽の理論

 世界にアジア人俳優の存在を知らしめた武道家ブルース・リーが32歳の若さで亡くなってから、今年(2023年)7月で50年が経つ。
 ブルース・リーは1940年11月27日にサンフランシスコで生まれた。広東演劇の役者だった父李海泉は中国系、母何愛瑜は白人と中国人のハーフ。彼は生後まもなく、イギリス植民地下の香港に帰国し、子役を務めるようになる。ところが、喧嘩に明け暮れるブルース・リーに手を焼いていた父の意向で、18歳のときにアメリカに渡る。
ブルース・リー

 21歳になった1961年、ブルース・リーはワシントン大学哲学科に進学し、勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始めた。1963年にブルース・リーは『基本中国拳法』を出版し、截拳道(Jeet Kune Do/ジークンドー)を創始している。
 そして、1971年に主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットとなった。そして、第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)、第3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)によって不動のトップスターの地位を築く。
 わが国でも、ブルース・リー主演映画の影響でカンフー・ブームが巻き起こった。筆者も小学生時代にヌンチャクで格闘ごっこをしたことを記憶している。
 ここで筆者が注目するのは、アジア人のアイデンティティにも基づいたブルース・リーの反植民地主義的な意識と、東洋哲学への深い理解である。
 ブルース・リーは『基本中国拳法』で、次のように書いている。
 「グンフーは、健康促進、精神鍛練、自己防衛の技術である。その哲学は、道教、禅、易経に基づくものであり、その理念とは、マイナスをプラスに変えることである。最小限の力で最大の効果を得ることを目標としており、そのためには敵の動きに調和し、無理せず相手に逆らわず適応することである。グンフーの技術は、力に頼るのではなく、エネルギーを最小限に抑え、陰あるいは陽のどちらか一方には偏らないということを目指している」(松宮康生訳)
陰陽
 「グンフーの基本的理念とは、陰陽の理論に基づくものである。このお互いに補足し合う力は、連続的であリ途切れることがない。この中国の思想は、あらゆる事柄に当てはめて応用することができるが、ここではグンフーのことに限って説明していくことにしよう。
 まず、円の中の黒い部分であるが、この部分は陰と呼ばれている。この陰と呼ばれる部分は、消極性、受動性、穏やかさ、空虚、女性、月、暗さ、夜などの意味を表している。それに対しもう片方の白い部分は、陽と呼ばれている。この部分は、積極性、能動性、堅固さ、実存性、男性、太陽、明るさ、昼などの意味を表している。
 よくある間違いは、この陰陽のマークを、二元論の太極のマークと混同することである。太極のマークでは、陰は陽に相反するものとだけ教えている。もし我々が陰陽の思想を この太極のマークの示すように2つあるものの一方に過ぎないという様に考えるなら、いつまでたっても真実を知ることはできないだろう。
 実際すべてのものは、補い合う部分というものを持っている。それは人間の心の中に、相反するものの中に存在しているのだというものの見方によるのである。太陽は月の正反対のものという考えは間違っているのである。それらは、お互い相関関係にあり、どちらか一方が欠けてもお互いが存在し得ない。同様に男性という存在は、単に女性という存在を補うだけのものではない。男性がいなくては、女性はこの地球上に存在し得ないのである。また、その逆もしかりである。 続きを読む ブルース・リーと陰陽の理論

はぐらめい「木村武雄という稀有な政治家を、政治の泥沼からすくいあげた書」(令和5年2月1日、『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』のアマゾン・レビュー)

『木村武雄の日中国交正常化─王道アジア主義者・石原莞爾の魂』のレビューを、はぐらめい氏が書いてくださいました。

 〈木村武雄は私が住む地域選出の代議士だった。しかし、木村の思想的バックボーンへの関心は「金権的」イメージによってすっかり曇らされてしまっていた。木村武雄が私にとって身近であったはずの高校時代までは、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)がしっかり浸透した教育環境だった。それゆえ、石原莞爾に連なる木村武雄像は闇の中でしかない。木村武雄vs 黒金泰美という、この地の保守を二分した激しい選挙のみが印象に残る。黒金泰美は1962年第二次池田内閣で官房長官を務めるが、1964年「黒い霧」として騒がれた吹原産業事件の中心人物として『金環食』(石川達三1966)という小説にまでなり、その後仲代達矢主演で映画化もされる。そうしたあおりで大成を期待されていたはずの黒金は政界から消えてゆく。梶山季之の『一匹狼の唄』(実業之日本社 1967)も黒金泰美は悪役だ。木村との暗闘がうかがえる。一方の木村は、1967年に第2次佐藤内閣の行政管理庁長官兼北海道開発庁長官、その後1972年第一次田中角栄内閣で建設大臣兼国家公安委員長を務めることになる。私の中での木村武雄の実像はそうした記憶の中で曇らされていた。坪内氏はその曇りを吹き飛ばして、本来の木村武雄像をくっきりと浮かび上がらせてくれている。
 この書の「はじめに」はこう始まる。《令和4年9月29日、日中国交正常化50周年を迎えた。しかし今、対中強硬派の間では日中国交正常化の評判は決して良くない。国交正常化は、日本が政府開発援助などを通じて中国の経済発展を後押しし、中国を大国化させた元凶だと捉えられているからだ。/しかし、本書の主人公、木村武雄に光を当てるとき、日中国交正常化の評価は一変するかもしれない。木村は、石原莞爾の王道アジア主義体現の一歩として、日中国交正常化を位置づけていたのだ。/王道アジア主義とは、覇道の原理でアジアに迫る欧米の勢力を排除し、王道の原理に基づいたアジアを建設することにある。王道とは道徳、仁徳による統治であり、覇道とは武力、権力による統治だ。王道アジア主義の基本原則は、「互恵対等の国家間関係を結ぶ」、「アジア人同士戦わず」である。》(10p)戦後木村は石原の遺志を頑なに引き継ぐ。《木村は、「自分の後継には福田赳夫を」という佐藤(栄作)の意向に反して、田中派結成を主導、田中政権を見事に誕生させたのである。その過程で、木村と田中の間には、田中政権誕生の暁には日中国交正常化に動くという固い約束が交わされていたのである。》(11p)この書の意義はその経緯をつぶさに辿ったことにある。
 なぜこれまでこのことが見えなかったのか。ひとつは木村武雄自身が「政界の影武者」に徹するという意志を持っていたことにあるが、そこにはアメリカの影がある。《田中政権の日中国交正常化はアメリカの警戒感を掻き立てた。しかもアメリカは、田中の背後で動く木村武雄に石原莞爾の影を見ていたのではないか。占領期の言論統制によって壊滅したかに見えた石原の王道アジア主義は、生き残っていたのである。》(11p)田中を葬る画策としてロッキード事件が起こされる。《キッシンジャーの謀略だったとの説もある。》(12p)木村は木村で交通事故が因となって、復帰を果たすものの命を縮めることになる。《親父の事故は田中総理の動きを止めるための謀略だったと言う人もいます》(木村莞爾談 195p)。
 この書は、金にまみれ、行き着くところ殺し合いにも至る凄惨な政治の泥沼から、木村武雄という稀有な政治家をすくいあげた。あらためて、木村武雄に学ぶべきことは多いと思わされている。〉

『維新と興亜』令和5年3月号(2月28日発売)

『維新と興亜』令和5年3月号(2月28日発売)

【特集】國體と政治 守るべき日本の価値
日本の価値基準を国際標準に(城内 実)
哲人政治が日本を救う!(神谷宗幣)
既成政党に國體は守れない(福島伸享)
日本人の「助け合いのDNA」(立花孝志)
旧宮家養子を実現せよ(百地 章)
國體弱体化政策の恐怖(金子宗德)
知られざる社会主義者の國體観(梅澤昇平)
【巻頭言】岸田総理よ、日米地位協定抜本改定を求めよ(坪内隆彦)
【時論】地方議会における政党政治を打破せよ!(折本龍則)
【時論】政治に道義を、新自由主義に葬儀を(小野耕資)
【新連載】石原莞爾とその時代 ① オリジナルな思想家であり哲学者(山崎行太郎)
【新連載】高嶋辰彦─皇道兵学による文明転換① 天日奉拝によって感得した神武不殺(坪内隆彦)
【新連載】日本文明解明の鍵〈特攻〉① 日本異質論と奇跡の国日本論をこえて(屋 繁男)
神詠と述志からなる日本の歴史⑤ 古事記が今に伝えるもの(倉橋 昇)
誠の人 前原一誠 ③ 仁政、そして王道(小野耕資)
世界を牛耳る国際金融資本④ 自給自足は巨大防衛力だ(木原功仁哉)
「維新」としての世界最終戦  現代に甦る石原莞爾 ⑧ 統制主義(金子宗德)
台湾を全面支援します。その④(川瀬善業)
高風無窮⑦ 道心と無道心と(森田忠明)
いにしへのうたびと⑨ 山部赤人と笠金村 上(玉川可奈子)
在宅医療から見えてくるもの⑩ 軽んじられてしまう、ケア(福山耕治)
崎門学に学ぶ 『白鹿洞書院掲示』浅見絅斎講義 ③(三浦夏南)
竹下登論④ 政治改革と選挙制度改革の混同が起こした悲劇(田口 仁)
【一冊にかけた思い】鈴木貫太郎著『ルポ 日本の土葬』
【書評】荒谷卓・伊藤祐靖『日本の特殊部隊をつくったふたりの異端自衛官』/村尾次郎著・小村和年編『小咄 燗徳利 昭和晩期世相戯評』
昭和維新顕彰財団 大夢舘日誌(令和4年12月~令和5年1月)
活動報告
読者の声
編集後記

教学の中心的指導精神を神道に置いた北条氏長─河野省三『近世の国体論』より

 教学の中心的指導精神を神道に置いた北条氏長の兵学について、河野省三は『近世の国体論』(日本文化協会出版部、昭和十二年)で次のように書いている。
河野省三
 〈氏長の兵学が神道精神を中心として展開し来り、素行の兵学が國體観念に結合して所謂武士道としての学的体系を取つて進展し行くことは、日本精神発展史の上からも深く注意すべきことである。……有馬成甫氏の『北条氏長とその兵学』には、彼の行動を支配した精神の中心は天照大神の信仰であつて、深く神道に帰依して居つたことを明かにし、又吉田家の唯一神道に於いて重んじた三社託宣に対する尊信が其の日常行為に著はれ、後学松宮観山等の思想にも深い感化を与へたことを一言し、更に進んで、氏長の兵学に於ける特徴として、師伝を体系化したこと、其の本質が教学であること、其の教学の中心的指導精神を神道に置いたこと、その兵学が、実学であることの四点を挙げてをる。此の中で、特に注意すべき点は、氏長の教学としての兵学が、その中心的指導精神を神道に置いた点であつて、其の神道思想の中心が天照大神であることである。北条流の兵法三ケ条の大事として、人事の乙中甲伝、地理の分度伝、天理の大星伝といふことがあるが、大星伝といふのは、当時、兵家の問に尊重された心魂鍛錬の秘法である。氏長には『大星伝口訣』といふものがあるが、「兵家相承天理ノ大事大星ニ止レリ」といふ重要性を有するものであつて、「当流日本流」の立場から、大星を以て.日輪として天照大神に配し奉り、大神の分身たる自家の心魂に大光明を見出し、此に道徳の本体.武道の本源を定めようとする法である〉

「木村武雄の日中国交正常化への執念」(『米沢日報』令和5年1月1日付)

 令和4年は、日中国交正常化50年の節目の年だった。南シナ海や尖閣諸島周辺での覇権的な動きを強め、台湾の武力統一を掲げ経済力と軍事力を強大化させる中国に対して、トランプ前大統領は、米国の対中戦略は大きく変化し、封じ込めに動き出した。現在の日本人の中国観も日中国交正常化当時から見ると隔世の感がある。50年という節目の年としては盛り上がりに欠けた。
 米沢市出身の政治家で、建設大臣を務めた木村武雄は、自分の息子に、石原莞爾の名をとって「莞爾」と名付けるくらいに、戦前から石原の思想に共鳴し、石原の王道アジア主義の体現として、日中国交正常化を位置づけた。
 王道アジア主義とは何かだが、アジアに対して覇道の原理で進出する欧米を排除し、王道の原理に基づきアジアを建設することで、王道とは、道徳、仁徳による統治を指し、覇道とは武力、権力による統治をいう。
 その王道アジア主義の基本原則は、「互恵対等の国家間関係を結ぶ」、「アジア人同士戦わず」である。
 木村は、支那事変拡大に反対し、昭和14年に東亜連盟協会を設立、東条政権の覇道に反対した。戦後、木村は石原の魂を守り抜き、日中国交正常化に執念を燃やすが、時の佐藤栄作総理大臣は動かなかった。そこで目をつけたのが田中角栄で、田中派結成を主導し、昭和47年田中政権が生まれた。それは同年9月の田中首相訪中によって、「日中国交正常化」へと歴史を動かしていった。
 本書では、政治家木村武雄の誕生、石原莞爾と東亜連盟、王道アジア主義の源流、執念の日中正常化、田中角栄失脚の真相─王道アジア主義を取り戻せ、という5章から構成されている。木村武雄の子息である木村莞爾、孫の忠三の両氏への取材をした。
 著者は王道アジア主義の源流として、西郷隆盛、米沢の宮島誠一郎、宮島大八などを挙げている。これまで日中国交正常化における木村武雄の役割が知られてこなかったのは、木村が「政界の影武者として生きる」と決めていたからと著者は述べている。

「木村武雄の日中国交正常化への執念」『米沢日報』令和5年1月1日付

ハイブリッド戦時代の「総力戦的虚々実々の戦法」─「世界に冠絶する皇道兵学兵制の完成」②

 高嶋辰彦は、天地人の広漠複雑性に注目して西欧兵学の科学技術万能の限界を次のように説いた。
 「西欧の世界は天地人共に東洋に比して矮小である。其處に発達せし尖鋭なる科学と技術とが、武力戦に於いて特に絶大の決戦力を有つことも亦当然である。ドヴエーの空軍万能論の如き其の最も極端に趨りて稍々迷妄に堕したる一例である。
 東洋の武力戦に於ても、尖鋭なる科学、卓越せる技術に基く所謂近代的兵器の威力の重要なるは言を俟たない。併し此処に於ける天地人の広漠複雑性は、幾多の制約を西欧的科学、技術兵器の上に課するのである。自動火器の故障、火薬の燃焼躱避、戦車、自動車、飛行機の速かなる衰損の如き其の一例である。
 東洋兵学兵制に於ける科学技術は独特の大自然に即し、西欧流のそれに対し厳密なる検討を遂げ、独自の境地を開拓して自ら完成すべきであろう」
 続けて高嶋は、後方業務の重要性を次のように指摘する。
 「西欧兵学に於てすら或は集中を以て戦略の主位とした。東洋戦場に於ける武力戦の困難は後方に在る。作戦兵力の輸送、集中、転用、軍備の補給、守備、治安等に関する複雑困難さは西欧と同日の比ではない。従つて之を克服することに寧ろ戦勝の決定的要素を見る。蒙古軍即ち元軍が常に其の補給点を前方に求めたるが如きは多大の示唆を含むものである。後方業務を重視し、東洋独自の新原則の確立と共に、有事に際して必ず之が圓滑を期することは東洋兵学に於ける重要課題である」
 さらに高嶋は、武力偏重の西欧兵学に対して、総力戦的虚々実々の戦法の優位性を説く。
 「西欧は地域矮小、民族単一、国家の総力的団結比較的鞏固である。此処に発達したる兵学が武力偏重の強制的色彩を帯ぶるは止むを得ない所である。然るに東洋の実情は大いに之と異り、前諸項と関連して総力的見地に於て到る処に虚隙を呈し、普く之を塡むることは殆んど不可能に近い。
 此の処に乗じて敵の意表に出で、総力戦的優勢の発揮を、在来兵学の原則に準じて行ふの余地は東洋に於て最も大である。斯かる総力戦運用の原理は、又武力戦内部に於ける思想手段、経済手段等を以てする総力戦的虚々実々の戦法に於て多大なる開拓の前途を有して居る。正に東方兵学の高次性を発揮すべき好適の一面である」
 ハイブリッド戦の時代が到来したいま、「総力戦的虚々実々の戦法」こそ、東方兵学の高次性を発揮すべき分野なのではなかろうか。

佐藤堅司が注目した武学資料─大関増業『止戈枢要』

 下野国黒羽藩主・大関増業(ますなり)(1781~1845年)が編述した兵学書が『止戈枢要(しかすうよう)』である。増業は、水戸の烈公(水戸斉昭)とも交流があった。
 「止戈」は「武」の字の解体。増業は、文化11(1814)年から文政5(1822)年の8年間を費やして、編述に当たった。
大関増業像(小泉斐筆、東京国立博物館蔵)
 その内容は、武芸・兵法などにとどまらず、測量・医学・機織・組紐・染色・衣服・書法・茶事などあらゆる分野に及ぶ。特に甲冑などの武具類については、素材となる皮革・繊維・染料などから製作技法の工程までが詳述されている。
 大田原市(旧黒羽町)芭蕉の館(大関文庫)には、増業の著書が保管されている。
止戈枢要

日本兵法の永久的大指針─佐藤堅司『日本武学史』より

 佐藤堅司は『日本武学史』において、日本兵法の永久的大指針について次のように記している。
 〈私は日本兵法の特質考察の重点を『日本書紀』神武天皇巻(『神武紀』)」に置きたいと思ふ。『日本書紀』は皇国万代の綱紀を闡明した最初の正史であるが、同時に日本兵書(『武書』と呼ぶのが適切である)の最古のものである。少なくともそれは最も古い武学資料を包蔵する史書である。私は山鹿素行の『中朝事実』武徳章と玉木正英の『橘家神軍伝』と跡部良顕の『神道軍伝』とが『日本書紀』の抜粋並びにこれに対する武学的解説であつたのを知り、夙くそれらに対して大なる関心をもつてゐたのである。然るに私はさらに大関子爵家秘蔵の『止戈枢要』といふ厖大なる編纂兵書を拝見した時、そのなかの圧巻と思はれる『六史兵髄』が『日本書紀』を根本とした六国史の兵髄であり、貴重な武学資料であることを知り、抜粋大関増業に対して深甚な敬意を表する気持になつた。従つて私が『神武紀』を選んだ理由は、同記における 神武天皇の兵法の特質を最もよく確認することが出来ると信じたからである。
 私は『神武紀』を武学史研究者としての新たな観点において熟読した結果、神武天皇の陸海平等戦略と神策と神仁の戦法と攻撃戦法とが日本兵法の永久的大指針であつた事実を発見して、日本必勝の理法と日本が世界無双の兵法国である事実とを確認することができた〉

「肇国の大精神を世界に顕現実践することが皇戦の目的だ」

高嶋辰彦は、昭和十三年十二月に著した『皇戦 皇道総力戦世界維新理念』(戦争文化研究所)で、次のように皇戦の目的を説いている。
「(支那)事変を体験するに伴ひ逐次認識を明にせる事項の一つは、我が国の戦争即ち皇戦の目的は、我が國體の保護宣揚、即ち我が国ごころを内外に宣べ行ふこと、更に換言すれば我が肇国の大精神を世界に顕現実践して、建国以来の真生命を達成するに在るといふことである。国防に関する一般通年たる人民、国土、資源等を外敵に対して護るとか、その危険を未然に防ぐため、予め脅威を取り除くとか、乃至は自ら力を養ふために国防力要素の不足を獲得するとかいふが如き在来の考へ方では、不知不識の間に皇戦の本義を没却するが如き重大過誤に陥る処が多いのである。……こゝで特に大切なことは、此の国ごころは決して外に対して宣揚するだけではなく、国内に対して同様の作用を必要とするといふことである。国内即ち日本全国民が先づ世界に実践の模範を示し得るだけの国ごころの体得者、実践者とならなければ、対外宣揚の資格と力とがない……」