君山学派の真価

●孝経尊重の精神─君山学派の真価
尾張藩初代藩主・徳川義直(敬公)は、亡くなる直前の慶安三(一六五〇)年五月に『初学文宗』を撰した。そこで強調されたのが、「孝を以て人倫の第一義」とすることであった。
孝を重視した敬公の姿勢を受け、独自の学問樹立を目指したのが松平君山(くんざん)(一六九七~一七八三年)である。『徳川義直公と尾張学』は、「君山から初まつて連綿と孝経第一尊重の意を伝へてきたところ、学会の美事であるが、また尾張教学の面目を語るものといへよう」と記している。
君山の学問は、岡田新川(しんせん)らの門人を経て脈々と継承され、幕末の徳川慶勝の活躍を支える勤皇志士たちが輩出した。「尾張学概説」を著した鬼頭素朗は「君山の此精神は後世永く裨益して維新の原動力となり、此学派より、日比野秋江・田宮如雲(じょうん)・国枝松宇(しょうう)・阿部伯孝(みちたか)・丹羽花南(かなん)・田中不二麿・長谷川敬(けい)・千賀信立(せんがのぶたつ)等の志士を多く出して居る」と書いている。
君山は、元禄十(一六九七)年、尾張藩家臣・千村作左衛門秀信の子として生まれた。母は、初代藩主の敬公の師・堀杏庵(きょうあん)の孫である。君山は、幼い頃から母の薫陶を受けて育ち、十七歳頃から盛んに漢詩を作り始めている。
宝永六(一七〇九)年、同藩家臣・松平九兵衛久忠の娘婿として松平家に入った。享保二(一七一七)年には、六代藩主・徳川継友(つぐとも)に拝謁を許されている。寛保二(一七四二)年に著した『年中行事故実考』などが高く評価され、翌寛保三年に藩の書物奉行に任じられた。
延享四(一七四七)年、私撰地誌『岐阜志略』を著し、宝暦二年には八代藩主・宗勝の命を受けて千村伯済らと共に編纂した『張州府志』三十巻を完成させた。『張州府志』は尾張で初めての官撰地誌で、以降の地誌の模範となった。明和七(一七七〇)年には漢詩集『幣帚集』を刊行している。
君山は博覧強記と呼ばれるにふさわしく、様々な学問に通じていたが、医薬の分野でも功績を残している。彼が安永五(一七七六)年に著したのが『本草正譌(ほんぞうせいか)』である。同書は、その後尾張藩で発展した本草学のさきがけを成した。
君山は、朱子学・陽明学・古学・折衷学のいずれにも属さなかった。彼が儒学を受容したのは、わが国の「神皇の道」を強化するためにほかならない。鬼頭素朗は、次のように書いている。
〈君山は常に門弟に、「我は日本人なり。曾て聖教を学び文字に通暁するは我国の為にこれを為し、他邦の為に之を為さず」と教へて居る。君山の国家観が窺はれるのみでなく、彼の精神が那辺にあつたかが想像される。元来君山は儒学を採用せるものゝ、わが国の神皇の道の羽翼たらしめる為であつた。たゞの漢学ではなく、わが国の史実、法制、典故に即した学だつたことは明白である。これ等の学派の人々の著述もその通りであつた。即ち漢文漢籍を主としたがそれは手段であつて、その目的はわが国家の学であつたことが明白である〉
君山の門下からは、岡田新川をはじめ、優れた学者が出た。その新川の門を叩いたのが、後述する河村秀根の二男・河村益根である。そして、君山門下を特徴づけるものこそ、孝経尊重の精神だったのである。
孝経は、孔子の言動を曽子の門人が記したものとされている。秦の始皇帝による焚書坑儒の煽りを受け、一時その所在が不明となったが、前漢に入り、二種類の系統の本が再発見された。その字体から、古文・今文と呼ばれた。後に古文には孔安国による、今文には鄭玄による注釈が付けられた。古文は二十二章、今文は十八章から構成され、各章末尾に詩経・書経の文句が引かれている。朱子は各章末尾の詩経・書経からの引用を後世の追加と見て、削っている。
君山はこの孝経を教えの基本とした。『徳川義直公と尾張学』には、「常に孝経を以て治家の本となし、弟子に授けるにはまづ孝経を以てしたといふことであり、孝経直解の著もある」と書いている。一方、鬼頭もまた次のように記している。
「彼(益根)の漢学の師岡田新川にしても亦その師松平君山にしても、孝経に意を注ぎ、而も実行に移して、何々学派と判然と区別することは出来ないにしても明治維新の原動力となり、殆んどこの思想の影響によつて、我が尾張に於ては勤皇の志士を多く輩出して居るのは豈に偶然ならんや」

●君山門下の岡田新川・恩田蕙楼・磯谷滄洲
君山の門下のうち、岡田新川は「詩」で、恩田蕙楼(おんだけいろう)は「学」で、磯谷滄洲(いそがいそうしゅう)は「文」で知られた。
新川が作った詩は、二万余首に上る。彼は、元文二(一七三七)年に生まれ、幼い頃から君山に師事した。天明年間(一七八一~一七八九年)に、藩校明倫堂の教授に就任、また同時期、藩の歴史編纂所・継述館の総裁にも就いた。寛政四(一七九二)年には、明倫堂の督学に就任している。その後、自ら督学の職を辞し、明倫堂教授の立場で教え続けた。寛政十一年三月に死去している。
新川は、君山と同様に孝経を第一として弟子を指導した。彼が、孝経を自ら刊行したきっかけは、唐代の功臣・魏徵(ぎちょう)らが編纂した古代政治文献撰集『群書治要(ぐんしょちよう)』の刊行だった。
『群書治要』は、中国では早くに失われてしまったが、わが国にのみ残っていた。元和二(一六一六)年正月、徳川家康は『群書治要』の銅活字を補鑄して開版するよう、林道春、僧崇伝らに命じた。しかし、家康は竣工を見ずして、同年四月に薨去。翌五月に版行事業は完成した。ただ、刷り上った書物は紀州家に保存されていたが、広く流布されることはなく、八代将軍吉宗がその一部を幕府へ収めた。
そして天明七(一七八七)年、尾張藩九代藩主・宗睦が家康の遺志をつぎ、幕府から借り受けて、細井平洲に統督させて開板したのである。鬼頭素朗は、これを「尾張学芸史上不朽の業績」と評価している。
この書の存在は、清国にも知られて、四庫未収書目にも採録された。新川は、寛政六(一七九四)年、『群書治要』から『鄭註孝経』を取り出して、別に刊行したのである。

一方、「学」で知られた、君山門下の恩田蕙楼は、新川の弟であり、寛保三(一七四三)年三月に生まれている。藩主近侍などを経て、享和二(一八〇二)年、継述館総裁兼明倫堂教授に就任している。蕙楼は、『尾張略志』、『史記考』など多数の著作を残した。
そして、「文」で知られた滄洲は、元文二(一七三七)年生まれ。君山に師事し、明和元(一七六四)年、朝鮮使節の南秋月と詩を唱和し、藩主宗睦に賞されて留書頭に任ぜられた。著作に『尾張国志』などがある。

●幕末の志士への影響
岡田新川門下として注目されるのが、河村秀根である。彼の父・河村秀根は、前回紹介した天野信景門下で、十一歳にして七代藩主・宗春の嫡子国丸の小姓として召し出され、江戸に勤務した。三年後、国丸の早世により、宗春の表側小姓となった。
秀根は当初、卜部神道を学んだが、やがてそれに疑問を抱き、有職故実家多田義俊に師事し、さらに吉見幸和の門に入った。そして、『日本書紀撰者考』『撰類聚国史考』『日本書紀撰者弁』『神学弁』『首書神祗令集解』などを書き上げた。彼は、神道、有職故実、和歌等に関する知識を総合して「紀典学」という学問を組織した。
益根は、この父の学風を継ぎ、その遺業として『書記集解』を完成させている。また、寛政六(一七九四)年には、光格天皇まで百二十代の天皇について、諱や諡、院号その他の尊号や、系譜や改元、没年、山陵などについてまとめた『帝号通覧』を刊行している。
新川に師事した益根は、孝経尊重の姿勢を鮮明にし、その随筆「偶談」冒頭では、「人の行実は孝悌の道より外なし、此道にかけたる人は万事一も成がたし」と書いている。
しかも益根は、師の新川に先立つこと三年、寛政三(一七九一)年、『群書治要』から『鄭註孝経』を取り出して刊行している。盆根の『鄭註孝経』は当時それ程有名でなかったが、後に水戸の弘道館で会沢正志斎、藤田東湖らに師事した内藤恥叟(ちそう)によって見出されて有名になった。
一方、新川門下から出た人物として重視すべきは奥田鶯谷(おうこく)である。鶯谷は、宝暦十(一七六〇)年五月に美濃不破郡笠毛村で生まれた。文化元(一八〇四)年に明倫堂教授に就き、その後右筆組頭を務めた。そして、鶯谷に学んだのが、幕末の徳川慶勝の活躍を支える田宮如雲である。
そして、如雲の同門として活躍したのが、国枝松宇である。松宇は、寛政八(一七九六)年四月に生れた。少年時代の文化五(一八〇八)年には、「母に孝である」ことを賞され、銭三貫文を官から与えられている。彼は、赤穂義士を欽慕し、その遺聞を収集し、『義人録補正』二巻を著した。彼は、如雲らと尊攘運動で連携するとともに、丹羽花南や田中夢山らの勤皇志士を育てた。

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