「合原窓南」カテゴリーアーカイブ

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南③─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。

●「以大事小者楽天者也、以小事大者畏天者也」
 〈当時米柳両藩の境界を流れたる矢部川(当時御境川と称す)の水害防禦の為互に堤防を固め、彼一層高く築き出せば我亦更に高く築き出して、競争絶ゆる期無かりしかば、国老有馬河内先生の意見を問ひしに、先生『以大事小者楽天者也、以小事大者畏天者也』(大を以て小に事(つか)うる者は、天を楽しむ者なり。小を以て大に事うる者は、天を畏るる者なり)と孟軻は論ぜられしを以て篤と賢考ありたしと対へられければ米藩即ち築堤を停止せしに柳藩亦其工事を中止し、双方の争論日ならずして消尽したりといふ。
 明治三十六年十一月、八女郡教育会が同郡の先賢祭を営み『先賢育英之一班』と題せる書冊を刊行するや、筑後の儒宗として劈頭第一に窓南先生の事蹟を掲げ、我郡中初めて咿晤(いご)の声を挙げたるは実に先生の力なりといへり。
 先生没歿後一百八十三年、即ち大正九年の秋十月、安武村の有志者相謀り、福岡県教育会三瀦郡教育支会及び筑後史談会の後援を得て先生の遠忌祭を行ひ、且其遺著古語仮字講義一篇を印刷して之を公にし、一は永く先生の学徳を景仰せしめ、一は以て世道人心を振作せしめんとせり、先生在天の霊亦自ら慰むる所あるべきなり。
 塾址 八女郡上妻村大字馬場字北屋敷八百八番地に在り、今は田二反余歩となれり、先生歿後所有者転々して、目下は同所安達貞雄氏の所有となり、昭和十一年七月八女郡上妻村教育会に於て標木を建設して不朽に伝へんとせり。」

[続く]

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南②─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米の崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。

●「廉潔実に感ずべきなり」
〈先生易簀(えきさく)の後門人等力を戮(あわ)せ金を醵して塚壙(ちょうこう)を営み、且永く追遠の誠を致さんが為祭祀田九畝同畠八畝を附して歳次の弔祭怠らざりしが、再来物換り星移りて百数十年、住吉村光白に於ける田一反一畝二十歩及び同村字石迥なる畑七畝十八歩の祭田は何時しか福山氏の管する所となり、明治十八年二月転じて田畑共に船津仙吉兄弟の私有に帰し、畑地は同四十五年二月更に宅地百二十二坪と同百五十坪とに分裂して地目変換せらるゝに至り、されど其土地今尚合原どん(合原殿の義)の屋敷と称せ
られ、墓守福山氏は毎年八月二十一日隣保の人を招きて先生の追弔供養を為せりといふ。
 先生初め立石氏を娶る早く歿す一女あり又夭す、継室長岡氏一男を生む名は藤太郎景修と称し父の任を以て月俸を受け中士に列せしが先ちて歿せり。先生著す所四書資講、太極図説資講、初学筮要(ぜいよう)、読書録類纂、易本義頭書、鬼神魂塊二弁、古語仮字講義、久留米城之記其他詩文遺稿等あり。
 先生資性恭謙よく人と感化す、其致仕して馬場村に退隠せしより以後俸米は之を庭内に積みて一も消費せざりきといふ、盖し公職なくして禄を受け之を私するに忍びず、蓄へて以て窮民を恤み或は善行者を賞し、若くは村邑公共事業の資に供せしならん、其廉潔実に感ずべきなり。〉

[続く]

久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南①─恒屋一誠編『合原窓南先生伝』

 
 以下、恒屋一誠編『合原窓南先生伝』(昭和18年12月)に基づき、久留米に崎門正統派の学問を伝えた合原窓南の思想と行動を振り返る。
●法衣を脱し浅見絅斎門に入る
〈合原藤蔵名は餘修初め権八と称す、三潴郡住古村の人なり、本姓は草野氏山本郡(今三井郡)発心の城主草野右衛門督鎮永の後裔にして、父を道秋と云ひ医を業とす、母は牛原氏寛文三年三瀦郡往吉村に生る、先生幼にして穎悟大に読書を好む、年十一出家して僧と為り十七歳にして説法明弁なり、後京都及び江戸に遊び傍ら儒教を学び、壮年に及んで自ら其非を悟り、翻然として法衣を脱し髪を蓄へ浅見安正(浅見絅斎)の門に入り道を信ずること愈篤く、行を砺くこと盆々精く、特に性理易学に長じ其名京師に震ふ、宝永六年久留米藩主有馬則維公召して儒官とし一藩士太夫の子弟を教授せしむ、生徒の従学する者頗る多し、米藩宋学の盛なる蓋し先生を以て先唱とすべし。
 正徳三年御条目御事目の制定せらるゝや先生其議に参与し同法令発布の際には湯川丙次(号東軒)と共に之が説明の任に当れり、斯くて在官十余年、享保八年の秋病を以て上妻郡(今八女郡)馬場村(今の上妻村大字馬場)に隠遁して窓南と号す、時に年六十一、是に於て国老以下諸士相追随して往いて道を問ふ者日夜絶えず。
 先生上妻の僻村に在りて士民と教育すること十一年門人数百人に及ぶ、享保十八年八月藩侯有馬頼徸(よりゆき)復公再び先生を登用して侍講とし稟米二十九地を給し秩竹間格に班す、又其老を優待し轎(きょう)に乗りて出勤し且庁に在りて帽を冠り寒を禦ぐことを許さる、時に年七十二、元文二月八月二十日病んで歿す享年七十又五、住吉村東南原山先塋の次に葬る、碑面題して「合原窓南之墓」と曰ふ遺命に従ふなり。〉(一~二頁)
*なお、同書において、「合原」は「あいはら」ではなく「ごうばる」のルビが振られている。

[続く]