「金ケ江清太郎」カテゴリーアーカイブ

金ケ江清太郎が見たフィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士③

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述。
 〈日本人であるわたしでさえも、終戦を転機に、百八十度転換した母国の激しい変貌にはすっかり戸惑ってしまったくらいだから、忠君愛国の心酔者だったデュラン氏が、愕きそして失望したのも、無理からぬことだったろう。
 デュラン氏は、名状しがたい気持で宿舎に戻り、このことを夫人に話したくだりを語りながら、
「ミスター金ケ江、妻に対して、こんなに面目を失墜したことはなかったよ。僕の話を聞きながら笑っている妻の顔を、面目ないというのか、気まりが悪いというのか、まともには見られなかったよ」
 と、こぼしたことがあった。
 それでもデュラン氏の日本びいきは変ることなく、その後もたびたび来日して、日本商社となにか共同事業を計画しているようだった。そのうちの一つに、氏の郷里がマニラ麻の生産地であるところから、麻を輸出して優秀な日本の技術によって加工する、新しい製品の開発に努力していたが、糖尿病が持病だったデュラン氏は、数年前に、事業の成功を見ずして他界したのである。ヒリッピンでは戦前、戦役を通じて異色の人物だった。
 わたしの長男清彦が関西学院を卒業の時、卒論にとりあげたのが、このビヨ・デュラン氏の日比同盟論であったことも、わたしにとっては氏とのゆかりの一つである。
 日本へも来日したことのあるファニタ夫人は、デュラン氏の亡きあと、アルバイ州の選挙区の人たちに推されて、下院議員に連続当選しているそうだが、これを見ても、デュラン氏がいかに人びとに人望があったか、想像されるのである。人間の真の価値というものは、その人の死後に決まるものだ、とよく言われるが、このデュラン氏などは、生前よりむしろ死後において、その価値が再認識された一人ではあるまいか〉

金ケ江清太郎が見たフィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士②

 フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述。
 〈…終戦後は、対日協力者としてモンテンルパ刑務所に監禁されていたが、この人について今も忘れられない、一つの思い出がある。
 それは、モンテンルパから釈放された氏が、郷里から出馬して下院議員となり、戦後問もなく二番目の新夫人を同伴、来日したことがある。その時は、まだヒリッピン大使館がなくて、ヒリッピン代表部の代表だったメレンショ氏の公邸で会ったことがある。デュラン氏はわたしの顔を見るなり、驚いた声でこう叫んだものだ。
 「ミスター金ケ江、武士道の国ニッポンは、いったいどこへ消えてしまったのかね?!」
 君主国日本に憧れていたデュラン氏の脳裡にあった、忠君愛国のイメージは、敗戦の虚脱のなかで混迷している日本の姿に接して、はかなくも、音をたてて崩れ去ったものらしかった。その驚きと失望のうちに語るデュラン氏の述懐は、次のようなものであった。
 同氏は、かねてから新夫人に向かって、日本ほど素晴らしい国はない、と口をきわめて礼讃し、わがことのように自慢していたという。
 「日本の善良な国民は、天皇陛下をうやまうこと神のごとく、たとえば乗っている電車が、天皇のおいでになる皇居の前を通る時は、乗客はみんな起立して、皇居に向かってさい敬礼するし、また日曜日には、ヒリッピン人が教会へお詣りするように、市民たちは朝早くから皇居前の二重橋という所へ行き、そこに跪ずいて両陛下を遥拝し、老いも若きも忠誠を誓うのだよ。こんな国民は世界広しといえども、この日本よりほかにはないんだ。なんと素晴らしい国民じゃないか」
 ちょうどその日が日曜日だったので、デュラン氏は夫人を呼んで、
 「お前は、三宅坂の教会に行って、ミサのお詣りをしてくるがいい。わたしは、これから二重橋へ行って、両陛下を遥拝してくるから」
 そう言って一緒に宿舎を出たデュラン氏が、二重橋まで来てみると、脆ずいて遥拝している敬虔な日本人の姿は一人もなく、そのあたりを若い男女が手をつないで、楽しそうに散歩している意外な光景が限に映り、まるで、マニラのルネタ公園にでも立っているような思いがしたデュラン氏は、思わず眉をひそめて、
 「ここが日本の二重橋か……」
 と、思わず口走しったというのである〉(続く)

金ケ江清太郎が見たフィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士①

  フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述を数回に分けて紹介する。
 金ケ江氏は明治27(1894)年に長崎県無佐世保市に生まれ、明治42年に16歳で単身マニラに渡航した。昭和10年にナショナル・ゴム工業を創立、戦後は信交商事を設立した。
 〈……これから紹介する人たちは、ヒリッピン側でもいわゆる《親日家》として有名な人であった。
 まず第一に挙げたいのは、ピヨ・デュラン氏である。氏は、はじめ友人のマルエル・リム氏と共同で法律事務所を開いていた有能な弁護士だった。横浜正金銀行、日本鉱業のほか日本人関係の顧問弁護士をしていて、在留邦人との知己も多く、のちにはヒリッピン大学のプロフェッサアーとなり、さらに郷里アルバイ州から立候補して下院議員になった、明るい性格の人であった。
 デュラン氏が、どうして大の日本びいきになり、日比同盟論まで提唱するようになったか、その詳しい動機や経緯は聞きおよんでいないが、アメリカの統治下にあった当時のヒリッピンで、堂々と日比同盟論を主張する氏の勇気と信念には、わたしも感服したものだった。
 デュラン氏が学者としての立場から、あらゆる関係の文書を渉猟し、研究を重ねてゆくうちに日本の歴史と国体を知り、そして日本民族に心を惹かれ、ことに氏の魂を強くうったものが、日本古来の武士道の精神であったらしい。
 ヒリッピンのように言葉も習慣も、そして文化も宗教も異なる群小の多民族が雑居している国で、国家としての歴史もまた、民族としての伝統もなく、まして植民地として永く外国の圧制下に苦しんできた国柄であってみれば、連綿たる歴史と伝統と文化を待った国家と国民に対して、深い憧憬を抱き、ことに明治維新後、近代国家として発展してきた隣邦・日本に、心から尊敬の念を寄せていたとしても、不思議なことではあるまい。しかも主君に仕えた武士たちの、烈々たる自己犠牲の忠誠心と、義を第一とする五常の道は、おそらくデュラン氏には驚異であったに違いない。
 ともあれデュラン氏の日比同盟論は、ヒリッピン人のなかにも多くの共感を呼び、ようやくナショナリズムに目覚めてきた人にちには、人気があったものである。戦時中渡航して来た日本の軍人や右翼関係の人の共鳴と支持を得て、それらの人たちと交わり、ことにアジア協会マニラ支部長望月音五郎氏などは氏を担ぎあげて、利用していたようであった〉(続く)