平野國臣は、文久3(1863)年に著した『制蛮礎策』において、次のように興亜論を展開していた。 「今夫れ宇内に未だ耶蘇を奉ぜざるは我と清とのみ。帝祚世革の相同じからざる有と雖も、地勢連隣風気粗を類す。髪眼異ならず。古来通信し固り道を同うするの国なれば、則ち相為に事を謀りて可なり」
国家安全保障の観点から日本国…
令和6年の郵政民営化法の抜本…
昭和十八(一九四三)年になる…
■支那が真支那を、日本が真日本…
■西本白川と大川周明 東洋文…
大川周明らは、大正十四(一九…