二、神からの贈り物と奉還思想
 「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体を裏付けるものは、わが国特有の所有の観念である。皇道経済論は、万物は全て天御中主神から発したとする宇宙観に根ざしている。皇道思想家として名高い今泉定助は、「斯く宇宙万有は、同一の中心根本より出でたる分派末梢であつて、中心根本と分派末梢とは、不断の発顕、還元により一体に帰するものである。之を字宙万有同根一体の原理と云ふのである」と説いている。
 「草も木もみな大君のおんものであり、上御一人からお預かりしたもの」(岡本広作)、「天皇から与えられた生命と財産、真正の意味においての御預かり物とするのが正しい所有」(田辺宗英)、「本当の所有者は 天皇にてあらせられ、万民は只之れを其の本質に従つて、夫々の使命を完ふせしむべき要重なる責任を負ふて、処分を委託せられてゐるに過ぎないのである」(田村謙治郎)──というように、皇道経済論者たちは万物を神からの預かりものと考えていたのである。
 念のためつけ加えれば、「領はく(うしはく)」ではなく、「知らす(しらす)」を統治の理想とするわが国では、天皇の「所有」と表現されても、領土と人民を君主の所有物と考える「家産国家(Patrimonialstaat)」の「所有」とは本質的に異なる。
 皇道経済論者たちは、一部の勢力が神からの預かりものである富を独占することは、断じて許されないと考える。遡れば、孝徳天皇が示された大化の改新の詔は、「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する」と定めていた。その後も、桓武天皇が延暦三(七八四)年に私営田を規制するなど、大化の改新以来の目標を実現しようという努力が続けられた。
 わが国への資本主義経済の導入は、わが国特有の所有の観念を覆す重大な契機となった。明治政府は、明治五年に田畑永代売買禁止令を解き、明治六年の地租改正で土地にも個人の所有権が存在する事を認めた。
 皇道経済論者たちの試みは、奉還の名のもとに、神の所有を回復しようとする試みでもあった。その源流の一人が、近代の古神道霊学の源流となった本田親徳である。本田は、亀の甲羅を焼き、ひび割れの形から神意を占う「亀卜」に精通していたが、その知識は大国隆正門家の大畑春国から学んだものであった。
 本田の弟子で、いわゆる征韓論争で西郷南洲とともに下野した副島種臣の考え方は、大化改新に遡る土地公有論であり、「一家に在ては一家の親和、一村に在ては一村の親和、一国に在ては一国の親和、其親和を結合してこそ日本社会と謂ふべき」だとするものであった[i]
 もう一つの源流として、言霊学の大成者として知られる大石凝真素美に連なる思想家群の存在に注目しておきたい。大石凝の師山本秀道は、文政十(一八二七)年に美濃国不破郡宮代村で生まれた。山本家は代々修験道の行者だったが、明治維新後の神仏分離令によって神仏習合の色合いが強い修験道は変容を迫られ、山本家の宗教的基盤も修験道から神道へと移った[ii]
 明治十七年十二月、山本は「我が所有の地所はじめ金銀財貨の類残らず大君へささげ奉ってくれ」と郡役所を通じて、県令に申し出た。これに対して、役所側は狂人のたわ言として、取り合わず放置した。その二年後の明治十九年四月、山本家が火事になり、貴重な古文書等が失われてしまった。ところが、秀道はなんら頓着することなく、この火事を「物を私有仕り候故の天遣」と受け止めていたという[iii]
 一方、大石凝の弟子の水野満年は、和光同塵の皇謨を始めてから、外来文物利用の影響は国体的経済の本義を失い、ついに勢力のある者は土地、人民を私有とし、お互いに名利を争い、生活的競争をするに至ったと批判した。この弊害を根本的に除去すべく、国体本義に基づいて根本革正的経綸の行われたのが、大化の改新だとし、明治天皇によって、報本反始の大業が成就されたと見た。しかし、再び弱肉強食の弊政が顕在化しているとし、大正維新の経綸として、神聖なる国運発展の経済的国家経綸を確立すべきと説いた[iv]
 学習院院長、宮内省図書頭、宮中顧問官などを歴任した山口鋭之助もまた、大石凝の古神道の影響を受けた人物である。『世界驀進の皇道経済』(昭和十三年)を著した山口は、本田親徳と同様、大国隆正の思想の継承者でもあった[v]。山口は、「マルクス等がロンドンに共産主義同盟を作り始めたのは一八四八年即ち我が弘化四年で、大国隆正が本教本学を唱え出した天保五年に後れること十三年である。本教本学は日本式共産主義とも云うべきものである。併し本教本学は上生下責任観念に立脚し、マルクス・レーニンの共産主義は下克上権利観念に立脚して居るのであるから、両者は対蹠的に反対である」と書いている[vi]
 山口は、鎌倉時代の執権北条時頼の家臣、青砥藤綱の逸話を引いて、万物が「天下の大宝」であることを強調した。藤綱は、夜間出勤の途中、川に銭十文を落してしまった。そのとき彼は、五十文払って松明を用意し、何時間もかけて十文の銭を拾い出したという。人々は利に合わないと嘲笑ったが、藤綱には、どんなにわずかであっても落した十文は自分個人のものではなく、「天下の大宝」だとの感覚があったのである。
 山口の流れをくみ、昭和維新運動にも挺身した永井了吉は、昭和八年に『皇道経済概論』を著している。彼は、皇政を復活させ、皇地と皇民を徹底せよと主張し、皇地を徹底させるためには、土地と一切の生産機関の私占を禁じて、これを奉還すべきとし、皇民を徹底させるためには、私の利益のために天皇の赤子を駆使する(搾取する)ことを禁じ、これを奉還すべきと唱えていた[vii]
 資本主義の発展に伴い、大正時代になると格差の拡大が深刻化した。こうした中で、大石凝真素美とも交流があった出口王仁三郎は大正維新を掲げ、「元来総ての財産は、上御一人の御物であつて、一箇人の私有するを許されない事は、これ祖宗の御遺訓と、開祖帰神の神諭に炳々として垂示し給ふ所である」と説いた。大正八年には、山口鋭之助の影響を受けた遠藤無水(友四郎)が『財産奉還論』を著し、土地も資本も、その他一切の財物資力は、一つとして国民の自由権に属すべきものではなく、悉く皇室の顕現に在ると主張した。また、遠藤とともに尊王急進党などで活動した長沢九一郎は、昭和七年に『生産権奉還』を刊行、明治二年に長薩土肥四藩が朝廷に呈出した「版籍奉還の上奏」に記された「臣等居る処は即ち天子の土、臣等牧する所は即ち天子の民なり、安んぞ私有すべけんや」の精神を徹底すべきだと説いた。遠藤、長沢らは、昭和十一年九月に、昭和維新原理の究明体得、日本の興隆進展に奉仕貢献すべきことを目的として、「本学会」を組織したが、このとき、その総裁に就いたのが山口であった。
 昭和維新運動の主張には、奉還思想に基づく富の偏在に対する批判が存在していた。その発想は、物質的次元の平等だけを重視し強権的に目的を達成しようとする共産主義とは根本的に異なるものである。唯物主義という点においては、資本主義も共産主義も同根であり、皇道経済論の奉還思想は、「君臣相親みて上下相愛」する国民共同体と不可分な、神の所有の観念に基づくものであった。その発想は、他の宗教の奉還思想とも通ずる。例えば、イスラム経済論を唱えたムハンマド・バーキルッ=サドルは、「富とはアッラーの富であり、アッラーこそは真の所有者である。人間は地上における彼の代理人であり、大地とそこにある富、資源の管理者にすぎない」と主張している[viii]。仏教においても、あらゆるものは、宇宙の命そのものであり、宇宙からの、あるいは仏からの預かり物だと考える[ix]



[i]丸山幹治『副島種臣伯』大日社、昭和十一年、三二五、三二六頁。
[ii] 梅村貞子「精神障害者収容施設山本救護所の歴史」『郷土研究岐阜』昭和五十一年十二月、一三~一七頁。
[iii]『大石凝真素美全集 解説篇』大石凝真素美全集刊行会、昭和五十六年、八一頁。
[iv]水野満年『現人神と日本』霊響社、昭和五年、八〇頁。
[v]永井了吉『混沌』調和の研究会、昭和五十年、三四七頁。
[vi]山口鋭之助『世界驀進の皇道経済』本学会、昭和十三年、三八頁。
[vii]内務省警保局編『国家主義運動の概要』原書房、昭和四十九年、一〇八~一〇九頁。
[viii] ムハンマド・バーキルッ=サドル著、黒田寿郎訳『イスラーム経済論』未知谷、平成五年。
[ix]井上信一「仏教経済学への道」『仏教経済研究』平成十年、四一頁。
坪内隆彦