忘却された経済学─皇道経済論は資本主義を超克できるか はじめに

はじめに
平成二十二年のクリスマスの日、漫画「タイガーマスク」の主人公の名義で、群馬県の児童相談所にランドセルが届けられた。これをきっかけに、全国で続々と施設などへランドセルや文房具などを贈る人々が現れた。この間、鳥取県琴浦町では大晦日から降り続いた雪によって、車千台が国道九号線に立ち往生した。このとき、付近の住民たちは「トイレ」という看板を作って家のトイレを開放したり、ありったけの米を炊き、おにぎりを作って配って回ったりしたという。
小泉政権時代に強まった新自由主義路線により、わが国の共同体は破壊され、互いに助け合って生きていくというわが国の美風が失われたと批判されてきたことを考えると、こうしたニュースはせめてもの救いと感じられる。
新自由主義路線は一旦頓挫したかに見えたが、いま環太平洋パートナーシップ協定(TPP)をめぐって、再び息を吹き返そうとしている。TPPは、決して第一次産業に限定された問題ではなく、アメリカの「年次改革要望書」による規制緩和要求と同様に、国民生活に直結する制度変更の危険性を孕んでいる。市場の拡大、経済効率、国際基準を旗印にして、再び規制緩和が叫ばれようとしている。しかし、こうした動きに対する警戒感が強まらないのは、わが国本来の経済観自体が過去の遺物として見失われているからではなかろうか。皇道経済論の発想を理解することは、わが国本来の経済観を再認識する契機となるだろう。

皇道経済論の源流の一人と位置づけられる二宮尊徳(一七八七年~一八五六年)は、財を預かった人間が、いかにそれを生かし、いかに用いるかに、天財の保管者で、天徳の代表者である人間の全責任が存在すると説き、天財を明日に譲り、明年に譲り、子孫に譲り、社会に譲るという「推譲」の重要性を主張した。最も必要としている人に譲ることが、ものの価値を最大限に活用するという発想である。「推譲」を支えるのが、「分相応につつましく」という「分度」の思想であり、人々が節約して余剰を生み出すことで推譲が成り立つ[i]
かつて、わが国には尊徳流の経済思想が脈々と引き継がれ、近代においても、独自の思想に基づいて、資本主義と社会主義を同時に克服しようという試みがあった。
西洋近代の思想は、人間中心主義、物質至上主義、要素還元主義等に象徴されるように、宇宙万物の一体性、連動性、調和という観念を見失ったのではないか。ホモ・エコノミクス(合理性に従い富の獲得と消費行動を行う存在)といった特殊な概念に基づいて、近代の経済学は構築されてきた。皇道経済は、こうした西洋近代の経済学の前提である価値観に対する根源的な批判を含んでいた。大阪工業大学准教授の上久保敏氏は、日本経済学(皇道経済学)には、今日なお通用する「経済学の危機」といった問題意識が含まれているという。
皇道経済論には、柄谷行人氏が『世界史の構造』で提示した「互酬原理の高次元での回復」という考え方と重なり合う部分もある。本稿では、主要な皇道経済論者を紹介しつつ、

(一)肇国の理想と家族的共同体
(二)神からの贈り物と奉還思想
(三)エコロジーに適合した消費の思想
(四)成長するための生産=「むすび」
(五)生きる力としての「みこと」意識
の論点からその主要な主張を整理しておきたい。
そこに示された考え方は、決して経済の分野にとどまるものではない。そもそも、経済学を他の分野と切り離したこと自体が近代経済学の失敗だったとの見方もある。そうした認識から、皇道経済論が持つ、社会的安定、人間の精神的充足といった価値にも注目したい。


[i] 片山巍「二宮尊徳の経済学考」『国士館大学政経論叢』昭和四十二年一月、二一一頁。

坪内隆彦

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  • 皇道経済学は経済学が経済のことしか考慮せずその社会的、人間的影響を無視した面を克服する意図があったように思います。坪内様の論文を参考に私のブログでも皇道経済学に触れております。webリンク欄に張り付けておりますのでご覧いただけましたら幸いです。