中東を支配しようとする欧米の野望─日本文化中央聯盟『回教と其の勢力』

 
 欧米の中東支配の野望は、戦前から一貫している。イスラーム世界の諸勢力を離間させる分断統治(ディバイド・アンド・ルール)という手法も変ってはいない。
 我々日本人はそのことを認識してきたはずである。例えば、昭和16年に日本文化中央聯盟がまとめた『回教と其の勢力 : 附・イラクの国情とアラビア民族の反英抗争』は、イギリスの対イスラーム世界の本質をズバリ衝いている。(以下引用、やや長文。仮名遣いを改めた)
 「イラクは……オスマン・トルコ帝国の一州として長い間その覊絆(きはん)の下に苦しんで来たのであったが、前大戦の勃発と共に、たちまちにイギリスに占領されてしまったのである。それはイギリスがこの地方の豊富な石油資源に目をつけたことともう一つ、インドに対する陸上通路の確保という二つの目的からである。かくて英軍に占領せられたこの地方は、以来全くその支配下に置かれることとなったのであったが、これに対して、大戦中英軍と協力してトルコ勢力を駆逐したアラビア人達の間には、だんだんに不満が起って来た。彼等はいづれも民族的独立を叫んで止まなかったが、1920年4月に、国際連盟の最高会議に於て、この地方に対するイギリスの委任統治が決定するや、今までの忿懣が一時に爆発して各地に反英運動が勃発するに至ったのである。

 この運動は同年6月2日に至ってついにモスルの西方テル・アフアールに於けるアラビア人の大叛乱となり、英軍の指揮官2名を始め多くの英人が殺傷された。
 次いで7月2日にも、各地にアラビア人の叛乱が起り、英軍の懸命な鎮圧にもかかわらず、叛軍の勢はだんだんに強くなって、容易に鎮まるとも見えなかった。そうして3ヶ月を経た10月4日に至って、漸く英軍はヒツトを奪還することができ、更に13日にカルバラを占領することができたのであった。またサマワの英軍守備隊は、その月の14日に、6週間目にしてようやくアラビア人の囲みを破ることができ、クフアの守備隊は19日に、3ヶ月目で辛うじてその包囲から脱出するという有様であった。
 この苦い経駿によって、英政府はついにイラクに対し、近き将来独立を与えるという大きな声明を発するに至ったのである。その結果ようやくにしてアラビア人の全国的独立叛乱は、同年の年末になってほぼ鎮静を見ることができたのであった。さて、英政府は、翌1921年の4月にこのアラビア人独立運動の指導者であったサイド・タリブ・パシァを叛乱煽動罪の名を以て国外に追放し、ついで8月23日ヘジャズ王フセインの第三王子フェイサルを国民投票の96%を得たと称してイラクの国王に即位せしめた。これ全く反英運動緩和の目的に他ならない。
 かくして、イギリス政府は、自分の手で封じた国王によってこの国を自家薬籠中の属国たらしめんとしたのであったが、そのからくりは無残にも功を奏しなかった。──というのは、このフェイサル王というのは資性英邁にしてイギリスの魂胆をよく看破し、その手に乗らなかったからである。それどころか、彼が国王に推し立てられたことによって、反って彼を中心としたアラビア民族統合独立運動が、火に油を注いだごとく燃え上る結果となってしまった。
 この形勢を見てイギリスの打った手は、今までよりも一層深刻なものであった。彼はイラク北部から北東部の地方に割拠するクルド人、及びアッシリア人という少数民族と、イラク国民との間の離間策を考え出した。つまり、彼等の人種的・宗数的な闘争を激発し、それによって反英運動を緩和しよう、としたのである。この策略は美事に的中し、成功した。その後、イギリスは1930年6月30日にイラクとの間に新同盟条約を結び、イラクが委任統治を離れて完全なる独立国たることを表面には認めた。さりながら、政治的・経済的のイギリスの支配は相変らず強く、殊に石油をめぐるイギリスの投資は、経済的に完全にイラク国民を拘束支配したのである。
 これに対するイラク国民の反英気分は熾烈を極めた。そしてこの東方民族の民族的怨恨と、反英示威運動は、ついに熄む時なく今日に引きつづいて来た。
 一方、これに対するイギリスの魔の手も、陰険深刻に、しかも執拗につづけられて来た。1933年9月9日、スイスに於いて突然にフェイサル王が客死した。その裏面にはイギリスの手が動いたと伝えられて居る。またその後、参謀総長バクル・シドキィ将軍が暗殺された事件──この事件の裏には、同将軍を背景とする急進派の内閣を倒さんがための、イギリス勢力とイラク保守派との協同暗躍があったという風説も、これまた隠れない事実である。
 このように、独立以来内閣の組織にも幾転変があったが、それが親英派の手に落ることはあってもこれに対して国民主義急進分子の間には常に反英運動がくり返され、汎アラビア主義の旗がかかげられて来たのであった。
 かくてこの国は、イブン・サウドの指導するサウジ・アラビア王国と共に、1000万人以上に上るアラビア人の統合独立運動の中心地となったのである」

坪内隆彦