易学相伝の根本とは─「潔静精微」

 『易』はその本文である経と、その註解・解説である十翼(彖伝・象伝・繋辞伝・文言伝・説卦伝・序卦伝・雑卦伝の総称)とが別になっているのが本来の姿だった。
 ところが、漢の費直が経を十翼によって解する立場から、彖伝・象伝・文言伝を抽いてこれを分ち、経の当該卦の後に移してしまった。
 本来、経と十翼とは、成立の時代が異なる。しかも、経と十翼はそれぞれ『易』に対する態度が異なる。両者を綜合調節するのは本来不可能なのである。
 ところが、費直の易「今易」が主流となっていき、もともとの易である「古易」は滅んでしまったのである。しかも、易を解釈に解釈する人が生きていた時代の思想風潮までもが流入していった。
 これを歎き、『易』を古易の姿に復するとともに、卜筮の書という本来の性格を取り戻そうとしたのが、朱子だった。彼は、「古易」姿に復し、卜筮の書としての視点から新たな註を加えて、『周易本義』を著した。

 ところが、南宋の董楷は、『易』を義理の書として読む程伊川の説を主とし、朱子の『周易本義』を従としたために、程伊川の説が重く見られるようになってしまった。そして明代になって『易経大全』が編まれると、董楷の考え方が定着してしまった。
 わが国では、『易経大全』をそのまま受容していたが、そうした安易な態度を否定し、朱子の『周易本義』への復帰を説いたのが、山崎闇斎であった。闇斎は、延賓三年に、朱子の易註『易経本義』を刊行した。
 近藤啓吾先生は、「易学と山崎闇斎」(『山崎闇斎の研究』)において、闇斎の高弟浅見絅斎が『易学啓蒙序講義』において、「潔静精微」の四字を朱易の真粋とし、易道の本原としていることに注目し、「潔静精微」とはいかなることであるかを説いた以下の絅斎の言を引いている。
 「潔と云は、さつぱりと水をかけて物の微塵毛頭けがれもほこりもない、さつぱりちやんとして、さゝらけもないなりを云。静と云は、どうやらまだ音響きが残りたりがたつくのと云は打つかぬ、まだ上のこと。ちやんとすんだはと云やうな、そゞろそばいたこともけもじやいもない、ちんとなりたやうななりを云。(中略)精微は、理が深(い)の至てのと云ことはない、云はく様のない塵も灰もつかぬ、さあ細と云と兎の毛のさきのさきのみへもせぬなりのげんとしたあの様な意で、精微と云を合点せよ。(中略)水は流るゝ、潔静精微。火は燃る、潔静精微。東は日が出る、潔静精微。それを手で指で東をちがへまいとうぢつくと、手から東が出ると云ものゆへ、そでない。それゆへ塵がつくと云は潔静精微で云言ぞ。夫れ易は伏義の作意ではない。伏義の手から天地が出て天地やら伏義やらしれぬ。占者も天地と共に談合するまでなし。天地なりに占が出て、手から著なりに天地なりが出る。どうしたもので有ふぞ。ちがいはせまいか。それでは手から東が出るゆへ、鬼神の心と我心と二になるぞ。我やら天地やら、我も陰陽、天地も陰陽、こゝに一点毛頭、にぶつきらしいことがあれば、何ほど理がくわしうても、とんと易でない。此大格が易学相伝の肝文也」(カタカナをひらがな、一部漢字に改めた)
 この絅斎の講義について、近藤先生は〈以上から見ると、「潔静精微」とは、至誠の極、私見も作意も全く消えて天地と一体となつた境界をいふものであらう。己れと天地とが一体であるから、占して得た象も天地の心をそのままに示してゐるはずである。そしてこのことを、絅斎は易学相伝の根本であるとしてゐるのである〉

坪内隆彦