興亜思想と世界皇化
 興亜論者たちは、日本の理想を国際社会へ適用する上で、大きな障害となっていた植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようと試みた。例えばアジアに志した荒尾精は、すでに明治二八(一八九五)年三月に、『対清弁妄』で次のように書いている。
 「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。 皇祖 皇宗の宏猷大謨を大成するの外に出でず。顧ふに皇道の天下に行はれざるや久し。海外列国、概ね虎呑狼食を以て唯一の計策と為し、射利貪欲を以て最大の目的と為し、其奔競争奪の状況は、恰も群犬の腐肉を争ふが如し。是時に当り、上に天授神聖の真君を戴き、下に忠勇尚武の良民を帥ひ、有罪を討して無辜を救ひ、廃邦を興して絶世を継ぎ、天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」
 また、頭山満は「日本は魂立国の国じや。君民一如、皇道楽土の国柄だ。日本の天皇道位尊く又洪大無辺なものはない。日本の天皇道は只に日本国を収め大和民族を統べ給ふのみならず、実に全世界を救ひ大宇宙を統ぶるものだ。而かも日就きの普きが如く、偏視なく所謂一視同仁じや。孔子の曰ふ祭政一致、宇宙一貫の道理も、釈迦の欣求浄土も、クリストの愛も、畢竟するに天皇道の一部ぢや」と述べていた。
 大東亜戦争は、興亜論者にとっては世界皇化の好機ととらえられた。今泉は、昭和一七(一九四二)年一月二日から四日間連続で「大東亜戦大詔渙発記念放送」に出演、全国民に向かって、聖戦の意義を「世界皇化」の立場から説明した。ここで、今泉は、「ウシハク」の政治(土地人民を自分のものとして支配する、権力による支配、覇道的支配)でなく、「シラス」の政治(民族、国民の一切をよく御知りになるということで、その統治は国土国民を親が子に対するように、慈愛の極をもって包容同化し、各処を得しめ給う統治、つまり天皇の御統治)を目指せと力説している。
 そして、今泉は、日本の外交はこの「シラス」の精神に基づくべきだと主張した。彼は、「天津日嗣の天皇の世界統一とは、武力や財力や政治、宗教などを以て攻略したり、征服したりする意味ではない。武力、財力、政治、宗教などの統一は、外形の統一であって、よし一度は統一しても、決して永続すべきものでない」と述べ、「彼より我が徳を慕ひ風を望み、我が威厳を仰ひで助成を乞ひ、我の擁護を求めて統一を望み、我に心服し、我に同化し来るものを統一主宰する」ことが重要だとした。今泉は、こうした精神に基づく外交が、本来の「八紘為宇」(八紘一宇)だと述べている。つまり、「ウシハク」の政治を乗り越えることは、国際政治を律する西洋近代の覇道的原理自体を変革していくことを意味していたのである。
 皇道思想に支えられていた興亜論者たち、神武創業の理想を国内で体現するとともに、それをアジアに拡げるという発想を持っていた。虐げられたアジア人を助けたいという日本の興亜論者たちの心情は、日本の理想の世界への適用という理想に向かい、まず植民地支配、人種差別を世界からなくし、すべての民族が独立し、対等の関係に立てるように世界を変革しようという思想と結びついていた。
 興亜論者のバックボーンが皇道思想や仏教の中の普遍性であったように、筆者が『アジア英雄伝』で取り上げた志士たちの多くもまた、普遍的な宗教思想に支えられていたことを忘れてはならない。東学による李容九、ヒンドゥー思想によるゴーシュ、土着的カトリックによるボニファシオ、カオダイ教によるクゥン・デ、仏教によるダルマパーラ、イスラームによるイクバール、愛の宗教によるプラタップなど、いずれもそうである。
 だからこそ、アジアの志士たちと日本の興亜陣営の協力は、単に自国の独立の回復にとどまらず、アジア全体の道義的統一を目指し、国際政治を律する原理を「ウシハク」から「シラス」に変えることを目標とするものだったのである。

国家経営の論理と志士たちの悲劇
 だが、志士たちにとって悲劇だったのは、日本政府の目標が、興亜陣営の崇高な目標と必ずしも一致していなかったことである。
 神武創業への復帰を目指した明治維新の精神は、国家独立とそのための近代化という、国家経営の論理が優先する中で、次第に形骸化していったように見える。
 だからこそ、西欧列強との協調を重視した日本政府は、列強に阿り、アジアの志士たちを冷たく扱っていた。例えば、日仏協商を結んだ日本政府は、フランスの意向に沿ってクォン・デらベトナムの志士を国外追放した。このとき、クゥン・デらの失望はどれほど大きかったろうか。チャン・ドンフー(陳東風)は日本政府の姿勢に抗議して自決している。
 こうした態度をとる日本政府に抗い、志士たちを助けたのが、頭山満をはじめとする興亜論者であった。もちろん、政治指導者の中でも、アジアの志士たちに対する立場は一様ではなかった。日本政府の外交方針も、微妙な部分を含んでいた。山室信一氏は、次のように指摘している。
 「日本人アジア主義者にとっては、財政的問題とともに日本政府の措置に反対してどこまで合法的援助活動を行うのかといった決断に迫られることとなり、日本政府にとっては他国政府の要請を拒否できないまでも盲従していたのではアジア地域内の親日的感情や国内世論の支持を損なうことになる。また、日本がアジア各地に政治的にしろ経済的にしろ進出していくことを想定すれば、反欧米派の勢力を扶植する必要こそあれ、抑圧することは得策ではない。しかし、公然と政府が独立・革命運動に援助を与えることもできない」、「こうしたアジア主義者の側と政府の側との双方のディレンマを解消するひとつの方策は、政府が在野のアジア主義者やその団体に財政的援助を与えるとともに、ある程度の違法活動を黙認することであった」
 やがて、国際連盟脱退後、日本政府は列強に対する外交姿勢を改め、興亜外交に舵を切ったが、そこでも国家経営の論理が優先されていた。対米開戦後には、言葉の上では「アジア解放」というスローガンが前面に出てきたが、そこでもやはり、占領地域の統治、資源の確保など戦争遂行の論理が最優先されていた。
 興亜論者の理想を信じていたアジアの志士たちは、それに戸惑いを隠すことができなかった。興亜論者と交流を続けたプラタップは、参謀本部から邪魔者扱いされ、東京から離れて小平への隠遁を強いられている。クルバンガリーもまた、最終的には日本政府・軍と微妙な関係に陥った。
 ラモスも同様である。参謀副長の西村敏雄少将や松延幹夫参謀少佐、犬塚惟重海軍大佐など、軍の一部は、ラモスとそれに連なる旧ガナップ党員の役割に期待したが、エリート層登用路線を主張する村田省蔵大使や軍政監部の総務部長兼参謀の宇都宮直賢大佐は、ラモスを敬遠した。
 ハッタにとっては、興亜の理想を体現した占領統治を目指していた第一六軍を率いた今村均大将とその補佐役の高嶋辰彦大佐は信頼すべき相手だったが、インドネシア独立を迫るハッタの率直な言動は、日本軍内部で問題となり、ハッタ暗殺計画が立てられたほどである。鈴木敬司少将と南機関員と固い友情で結ばれていたアウン・サンも、最終局面で日本軍に敵対して蜂起せざるを得なかった。
 もちろん、犬塚大佐、今村大将や南機関員だけではなく、第一四軍宣伝班の望月重信中尉のように、フィリピン人を「甘やかしている」と批判してきた軍上層部に対して、自分は大御心を実践しているのだと、できる限りの抵抗を示した人物もいる。日本政府・軍の内部すべてが、興亜の理想を失っていたわけではない。
 こうした興亜の理想を維持した日本人の存在とあわせて、アジアの志士たちの苦悩をも直視することが、本当の興亜の理想を理解することになるのではなかろうか。
 私たち日本人は、アジアの志士たちの命がけの戦いの意味を踏まえた上で、これからのアジアの在り方を考える必要があるのではなかろうか。

坪内隆彦