興亜の夢を信じたインド独立運動家─ビハリ・ボース

以下は、『アジア英雄伝』に収録した、ビハリ・ボースの評伝です。

一五歳にしてインド独立を志す
インドの志士ビハリ・ボースは、日本の興亜陣営と結んでインド独立運動に挺身しただけでなく、アジアの志士たちの連携の中核として活躍した。彼には普遍的思想に基づいたアジアの道義的統一という明確なビジョンがあったのである。
ビハリ・ボースは、一八八六年三月一五日、インドの西ベンガル州ブルドワン郡で生まれた。彼がインド独立運動に目覚めたのは、一五歳の頃、一八五七年のインド大反乱について書いたデピプロサンナ・ローイ・チョウドリーの『サラット・チャンドラ』を読んでからである。イギリスへの敵愾心を強め、インド独立の必要性を痛感するようになった。彼は、「自由の雄叫びが自己の胸中にあることを意識した」と回想している(1)。
一九〇六年には、インド北部のデラドゥーンにある森林研究所化学部門の実験補助員に就いた。ここで彼は、爆弾製造のための酸を確保できる機会に恵まれた。また、余暇を利用して全インドを歩き回り、同志と連絡をとって、革命の血に燃える青年たちを鼓舞していた。
ボースは、一九一一年に、独立運動の指導者の一人モーティー・ラール・ローイと出会う。この出会いによって、ローイの師の哲学者オーロビンド・ゴーシュの思想を学ぶようになったことは、彼の思想形成に重要な意味を持っている。ボースは、真理の把握を追求するインドの伝統思想に目覚めたのである。
さて、彼の活動拠点デラドゥーンは、ベンガルとパンジャブの革命運動家の集合地点であった。こうした背景で、ボースは、両地域の民族運動家の橋渡し役を演じるようになる。一九一二年にはベナレスを訪れてネットワークを広げ、翌年にはベンガル、パンジャブ、ウッタール・プラデーシュ州の革命運動の大同団結がほぼ成立するに至った(2)。
さらに、この革命運動家の連携に、ガダル党員が合流してきた。ガダル党とは、アメリカ西海岸に留学したインド人や亡命したインド人が中心になって二〇世紀初頭に結成した、インド独立運動を支持する団体で、サンフランシスコに本部が置かれていた。独立運動家のヘーランバ・ラール・グプタもガダル党の一員であった。
さて、運動家のネットワークを整えたボースは、ローイやグプタらともに、直接行動を企てる。一九一二年にコルカタに代わりデリーがインドの新首都となり、同年一二月二三日、ハーディング卿が汽車でデリーに到着した。駅からは飾りつけの象に乗り、新総督府に向けて走り出した。そのときである。ボースは、総督めがけて爆弾を投げつけた。総督は負傷、後ろに座っていた将校二人は重傷を負った。
ボースは変装して逃げ回った。だが、一九一四年に入り、ボースが鞄を預けていた同志のアボットが逮捕され、ボースがデリー事件の首魁であることがばれてしまった。ボースらは、一九一五年一月には、ラホール叛乱事件を計画していた。だが、未遂のまま、大弾圧を受け、四〇〇〇人が逮捕され、首謀者の多数が処刑された。

日本への亡命
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ボースがインドにとどまることは、いよいよ危険になった。彼は、詩聖タゴールが日本を訪問するというニュースを見つけ、タゴールの訪日準備のために日本を訪れる親戚を装って日本に脱出しようと企てる。大正四(一九一五)年五月一二日、彼はP・M・タゴールと名乗り、グプタとともに日本に脱出した。
日本に逃れたボースは、革命家として、また亡命者として同じ境遇にあった孫文を麻布雲南坂近くの仮寓に訪れた。孫文は、まずボースを宮崎滔天に紹介、滔天はボースを頭山満に引き合わせた(3)。こうして、内田良平、大川周明、葛生能久、佃信夫ら興亜陣営との交流を深めていく。特に、葛生とは肝胆相照らして兄弟の義を結んだという(4)。
これらの興亜論者、孫文、ボースは、日華印同志の提携によって、アジア復興を実現することを固く誓い合った。それからまもなく、ボースは、孫文から手紙により金二万円借用の申し込みを受けている。ボースはこの要請を承諾して二万円を孫文に貸した。その後、孫文は、一万円だけを返したまま、一九二五年三月に他界してしまい、手紙はそのままボースの手許に残った(5)。これについては後述する。
一九一五年一一月二七日、ボースとグプタが実質的に準備をとりしきる形で、在京インド人会主催の大正天皇即位祝賀会が催された。在日インド人学生、横浜のインド人貿易商、大川の人選による日本人が参集した。会場には、イギリス国旗は一本もなく、イギリス国歌すら演奏されなかった。招待されたイギリス大使はこれに激怒したという。
イギリス大使館は、翌日日本外務省に、ボースとグプタの日本からの退去を要求してきた。日本政府は、やむなく二人に「五日以内に日本を退去せよ」との命令を出した。グプタとボースは、新聞界の有力者、黒岩周六、石川半山らに会い、退去命令の不法を訴えた。その結果、翌日の新聞各紙は、事件を報じ、政府の対応を批判した。
国民党の犬養毅、政友会の床次竹二郎、岡崎邦輔らは、命令撤回を石井菊次郎外相に勧告した。葛生能久らも、石井外相に反省を促した(6)。だが、命令を撤回させるにはいたらなかった。もはや、打つ手なしという状況に追い込まれた。
そのとき、新宿中村屋の店主、相馬愛蔵、黒光夫妻は新聞でインド人退去問題の記事を読み、心をいためていた。退去期限の前日の一二月一日、常連客だった中村弼が中村屋を訪れた。中村弼は、日露戦争開戦前に対露強硬論を唱えた「七博士」の一人、中村進午の兄で、二六新報(当時は『二六新聞』)の編集長を務めた人物である。話題がインド人退去問題になり、中村が打開の道がないことを告げると、愛蔵は「却って私のようなもののところなら、どうにかかくまえるのじゃないでしょうか」と洩らした。中村は即座にそれを佃信夫に伝え、頭山と愛蔵の会見が実現、急遽、ボースを中村屋のアトリエにかくまうことが決まった。
退去命令期限の一二月二日夜、彼らはボースを頭山邸に挨拶に行かせた。刑事も、頭山邸に踏みこむわけにはいかない。ボースらの靴が玄関に並んでいたので、退出する際に拘束するつもりで待機していた。だが、いくら待ってもボースらは出てこない。頭山の邸宅と「七博士」の一人、寺尾享の屋敷は隣り合っていて、中で繋がっていたのである。ボースらは寺尾の屋敷の裏口から暗やみにまぎれて脱出、愛蔵の手引きで車に乗り中村屋に逃げ込んだのである。まもなく、グプタは中村屋を失踪して大川周明宅にかくまわれた後、アメリカに逃げた。ボースは、当局の厳重な捜査をかわし、中村屋のアトリエに隠れていた。
翌一九一六年二月、東洋汽船の天洋丸が香港にむけて航行中、イギリス軍艦が突然発砲して停船を命じ、不法の臨検を行った。そして、戦時禁制品を調べるという名目で、七名のインド人乗客を拉致した。この事件が起こるや、興亜の志士たちはイギリス大使館に抗議文をつきつけ、外務省にイギリスに強硬姿勢をとるよう要求した。佃信夫は、石井外相に面会し、外務省の態度を難詰した、この結果、石井外相は政務局長小池張造とともに、頭山満、寺尾享と会談することになった。この会談で、頭山の意見が通り、外務省はインド人亡命者に対する退去命令を撤回、ボースを保護することにした。
これを機に、同年四月、ボースは中村屋を出て麻布新龍土町(現在の乃木坂付近)に移った。このとき、頭山の呼びかけで、ボース逃亡を手伝った志士たちが一堂に会した。この席で、ボースは日本語で挨拶をした。その適切さと流暢さに皆は驚いた。彼は、中村屋のアトリエでの四カ月間に、日本語習得に必死に取り組んでいたのである。小学読本一から一二の各ページは、赤インクの書き込みでいっぱいになっていた(7)。やがて、彼は日本語で立派に講演できるまでになっていく。
中村屋の名物として知られるカリー・ライスも、ボースの一件によって誕生した。当時、日本で食べられていたカレーは、本来のカレーとは程遠かったため、これを嘆いたボースが「純インド風カリー・ライス」を紹介したのだった。

妻俊子の死
麻布新龍土町への移転記念の会合に、相馬黒光は手伝いをさせるために娘の俊子を連れていった。このとき以来、ボースから黒光への頼みごとは、俊子を通じてすることが増えた。その後まもなく、犬養毅が見舞いに訪れることになった際、ボースは黒光に接待の手伝いをお願いした。このときも、黒光は俊子とともに来ていた。
麻布新龍土町に移ってからも、イギリス大使館は、横浜山下町の東洋探明社という秘密探偵社を使用して、執拗にボースを探し続けた。ボースと外界との連絡役は、葛生能久が務めていたが、ボースが捕まらないよう、常にそばに寄り添う人が必要とされていた。
ボースと俊子とは、互いに惹かれていたのであろう。頭山は黒光に対して、俊子をボースの嫁にどうか、と縁談をもち掛けたのである。俊子は英語ができるし、口も堅く、容易に動じない性格、きっと、ボースを助けることができる。だが、俊子がボースと結婚して平穏に暮らせるとも思えない。黒光は悩んだ末、俊子にそのことを告げ、返事を急がず、じっくり考えるよう言った。二週間後、俊子は黒光に「行かせてください」と回答した。黒光が「お前、よく考えたのですか」と問いただすと、俊子は「よく考えました」と答えた。なおも「だけどお前、命がけですよ」という黒光に、俊子は「知っております、お父さんお母さんの心待ちよく分かっています。私やっていただきます」と言い切った(8)。
こうして一九一八年七月九日、頭山邸で結婚式が行われた。だが、披露宴もなく、新婚旅行もなく、世間的なコースは一切省かれ、結婚式の当日から、イギリスの監視の眼から逃れる生活が始まった。しかも、隠れ家に相応しい場所として、通常の人が避ける、光に恵まれない暗い家を転々としなければならない。落ち着いた頃には、すでにその場所は危険になっている。すぐにまた引越しである。引越しする度に、表札の名前も変えた。このような過酷な生活が続いたが、俊子は挫折することなくボースを助けた。俊子は、一九二〇年八月には長男を生み、頭山が正秀と命名した。
一九二二年になって、ついにイギリス政府はボース探索を諦めた。ようやく安心して生活できる日が訪れたのである。同年末、長女哲子が誕生し、翌年七月、ボースが日本国籍を取得した。「ボース家」を新たに立ち上げることとなり、犬養の発案により「防須」という字が当たられた。そして、一九二四年、ボース一家は渋谷に新築した家に移り住んだ。ボースは次のように回想している。
「結婚以来、長い間、俊子にも日陰の生活、追われる惨めな生活をさせたので、これからこそ、彼女をより一層物質的にも幸福にしてやるため、ささやかな土地を求めて、質素ではあったが、日光のふりそそぐような家を建て、はじめて、一家に春がめぐって来たような健康な生活に入ることができた」(9)
だが、そんな矢先、俊子はようやく得た安心感と、長い無理な生活がたたったのか、風邪をこじらせて肺炎になってしまった。そのまま回復することなく、一九二五年三月四日、彼女は世を去った。二八歳の若さであった。善光寺で営んだ俊子の葬儀で、大導師、渡辺海旭は、次のような香語を唱えた(10)。

一家日印共艱難 (一家日印のために艱難を共にす)
雄志常存琴瑟歓 (雄志常に存し琴瑟和して歓びあり)
二十八年貞烈跡 (二十八年これ貞烈の足跡)
春風吹夢白梅寒 (春風吹きて夢となり白梅寒し)

信仰に支えられたボースの政治活動
イギリス政府がボース探索を諦める直前の一九二一年六月、悲劇的な事件が発生していた。イギリス大使館のムジュムダル参事官が、東京外国語学校で教鞭をとっていたハリハルナート・ツラル・アタールに対してスパイとして日本の情報、特に外交、軍事情報をとるよう執拗に迫った結果、アタールが服毒自殺したのである。残された遺言には、「ムジュムダルよ、インドは必ず我が血のために復讐するであろう」とあった。
この事件は日本の興亜論者たちに衝撃を与え、「アタール氏追悼印度問題講演会」が開催された。この場こそ、ボースが表舞台に出る最初の機会となったのである。ボースは、逃亡生活の犠牲となった俊子のためにも、さらにインド独立運動に邁進しようと誓ったに違いない。
日本語を流暢に話せるようになったボースは、興亜陣営の満川亀太郎、渥美勝(11)、中谷武世らともに全国に遊説に出かけて、アジア解放を訴えた。
彼の激烈な政治運動は、宗教的な教えに支えられていた。ボースは、マハーバーラタの一章バガヴィット・ギーターに含まれている教えを信奉し、その写しをいつも身から離さなかった。彼にとって重要だったのは、良心に基づく行動だけであり、その結果ではなかった(12)。
彼は、人間存在の本質を宗教的「神性」の中に見ていたのである。だから、「神性」を欠いた人間は「人間の形は備えていても、人間と認めることはできない」とし、アジア人を抑圧・虐待する欧米人は、真の意味で人間として存在していないと非難していた(13)。
神性の追求、真理の体現こそが、ボースの究極的な目標だった。だからこそ、彼は日本の興亜論者たちと同様に、アジア諸国の解放という政治的目標にとどまらず、西洋近代の物質偏重を是正し、東洋の伝統思想の復興による文明の転換を願っていた。彼は、一九三五年には、国際精神文化大学を設立し、世界各国から精神文化学生と研究者を招聘し、世界各国の精神文化を研究し、それを総合して大なる世界文化を産み出し、人類幸福のために尽力すべきだと唱えている(14)。
彼は、ヒンドゥーの伝統を信奉しつつ、日本の伝統を尊重した。毎朝、早起きしてヒンドゥー経典を誦して礼拝し、それから明治神宮の方角に向かって礼拝するのを日課としていた。毎年元旦には、まず明治神宮に参拝し、頭山邸や相馬邸に新年の挨拶に出向いた(15)。
ボースは、興亜論者たちの正義の行動を支えている皇道の普遍性を信じていたに違いない。元光機関長の山本敏は、ボースの皇室崇拝は決して当時の時流に迎合したり、形だけ真似したものではなく、自らの信念に基づくものだった振り返る(16)。
また、ボースは平和維持のためにも、宗教間の協調が重要だと認識し、宗教間の相対的な差異に固執するのではなく、絶対レベルの超越的真理の存在を認識した上で行動すべきことを訴えた(17)。
皇道に普遍性を見出していたからこそ、日本政府の対支政策を厳しく批判することもあった。ボースは、興亜論者と日本政府の姿勢とを峻別していたのではなかろうか。それは、満州国を文字通りの王道楽土にすることを願っていた笠木良明との親交にも示されている。笠木が刊行していた『大亜細亜』に、ボースは頻繁に原稿を寄せていたのである。

アジア解放の夢
昭和一六(一九四一)年一二月に日本は対米英開戦に踏み切り、一九四二月には東條首相がインド独立援助を声明するに至った。これに感激したボースは、その翌日インド同胞に向かって、「現下、米英のアジア侵入打破と、大東亜共栄圏建設とを目的とする大日本の聖戦は、正にこれ、われ等に絶好の機会を与えている。この天佑に乗じて、インドは英国に対して、過去の凡てを清算すべし」と呼びかけた。
翌一八日、ボースは、A・M・ナイルらの同志とともに頭山邸を訪れている。このとき、頭山は風邪気味で伏せていたが、ボース来訪を聞くや、紋付袴に着替え、起き上がって迎えた。ボースが「先生、おかげで長い間の望みが遂げられる時が参りました」というと、頭山は「長い月日だった。インドの独立運動も、夢のようなものだと思っていたが、今は眼の前に現れたのだ。わしも八八だが、おまえたちの運動のいいところを見せてもらってから、死にたいものじゃ」と語った(18)。
同年三月二〇日には、頭山、佃信夫、葛生能久、大川周明らの発起により、上野精養軒でボース氏激励会が開催された。この答辞において、ボースは「印度さえ解放されれば、亜細亜全体は解放される。其の時に亜細亜が再び過去の様に新しい文化文明を生み出して、全世界を平和に導き、全人類を幸福にすることが出来ると思うのである。是が即ち大東亜戦争の目的であると云うことを私は信じて疑わないのである」と語っている。
その二カ月後、バンコクで大会があり、インド独立連盟が設立され、ボースが総裁に就いた。だが、海外で活動していたインド人運動家たちは、ボースが日本の傀儡だと誤解した。インド国民軍創設を主導したモハン・シン大尉は日本軍と対立するに至り、ボースはその板挟みとなってしまった。こうしたストレスに加え、猛暑の中での激務によって、ボースは糖尿病を悪化させただけでなく、肺結核に感染して、一気にやせ衰えていく。チャンドラ・ボースへのバトン・タッチを宣言した後、なおもインド独立連盟の名誉顧問として活動を続けたが、医者の指示によりペナンに移動して療養、一九四三年九月東京に戻った。わずか一年の間に、彼は三〇キロ近く痩せてしまった。
一九四四年二月、ボースは喀血、病状はさらに悪化していった。同年九月には看護婦をつけなければならない状態に陥った。一〇月五日、頭山満が逝去した。周囲は、この事実をボースに知らせるべきか否か頭を悩ませた。葛生能久は絶対に知らせるべきではないと主張したが、佃信夫は、それくらいのことで参るボースではあるまいと主張し、事実を語ることにした。
だが、ボースは頭山の逝去を聞くと、「そうか」と一言つぶやき、口をつぐんだ。暫くして目をとじた。涙が頬に垂れた。その直後からボースの気力は急速に衰えた。長女の哲子も、「一度復興成ったアジアに(頭山)先生をお連れして見て廻ることを念願として居たのに、それも叶わなくなったのですから、それまでは病気に負けまいとしていたのに、遂に病気に負けてしまい、生きる気力を失ったように思われました」と回想する(19)。
ボースにとっては、日中関係の悪化は最も悲しい事態であった。日中両国がアジア的意識に目覚め、主敵が欧米列強だと認識すべきだという立場でボースは一貫していた。日米開戦後、彼は蒋介石に面会して、孫文に二万を貸した際の手紙をもって、孫文との関係を明らかにし、日中の現状は孫文の志に反するものであることを説明し、すみやかに日本との妥協を行うよう勧告しようと決意していた。ひたすら回復を待ち、日中和解のために最後の力を振り絞ろうとしていた。同年末、ボースは苦しげな気息のもと、葛生に次のように語った。
「現在私の最も憂えているところは、日華両国間の戦争である。私はこれに関し、是非とも実行したいことがあるが、今はできそうもなくなった。これが、私のこの上もない残念事である。ついては私が万一の場合は、せめて、貴下の手により、何とかして、私の所念を蒋介石氏に通ずる方法をとってもらいたい」(20)
そして、枕もとの鞄の中から孫文の手紙を取り出し、それを葛生に渡した。アジアの前途を憂えてやまないボースの熱情に心打たれた葛生は、ボースの没後、水野梅暁、頭山泉と協力して、蒋介石に孫文の手紙と彼の遺言を伝えることを試みている。
ボースは、最後の最後まで哲子が読む新聞の内容とラジオのニュースに耳を傾けていた。一九四五年一月二〇日、ボースは脳溢血を起こし、半身不随の状態となった。愛蔵らがかけつけると、もつれる舌で、「子供を頼む」と言い残し、一月二一日午前二時、静かに息を引き取った。ただちに勲二等旭日小綬章が授けられた。インドが独立するのは、その二年半後のことである。

1 相馬黒光・安雄『アジアのめざめ』東西文明社、一九五三年、一五頁。
2 長崎暢子「ラーシュ・ビハーリー・ボース考」『日本軍政とアジアの民族運動』アジア経済研究所、一九八三年、一三九~一四三頁。
3 『アジアのめざめ』二九、三〇頁。
4 中山忠直『ボースとリカルテ』一九四二年、四九頁。
5 『アジアのめざめ』一三八頁。
6 前掲書三二頁。
7 前掲書三七頁。
8 相馬黒光「ラス・ビハリ・ボース覚書」『アジア主義』筑摩書房、一九六三年、一九三頁。
9 ビハリ・ボース述『独立の闘争』昭和書房、一九四二年、一五三頁。
10 相沢源七『相馬黒光と中村屋サロン』宝文堂、一九八二年、一一七頁。
11 拙稿「日本文明の先駆者⑤ 渥美勝」『月刊日本』二〇〇八年四月号、七六~八三頁
12 A・M・ナイル著、河合伸訳『知られざるインド独立闘争』風涛社、一九八三年、八六、八七頁。
13 中島岳志『中村屋のボース』白水社、二〇〇五年、一六六、一六七頁。
14 『日本及日本人』一九三五年二月一一日。
15 『アジアのめざめ』三三二、三三三頁。
16 前掲書三〇三頁。
17 前掲書一九四頁。
18 『アジアのめざめ』八〇頁。
19 前掲書三一三頁。
20 前掲書一三九頁。

坪内隆彦