イスラーム先駆者

中国人ムスリムと田中逸平
田中逸平の名は、大正13年にイスラームの聖地マッカ(メッカ)への巡礼を敢行し、さらに死の直前に2回目の巡礼を果たしたことで知られる。田中の思想と行動の重要性は、興亜論発展の一環としてイスラームの真髄を理解しようとした点にある。
田中は、明治15年2月2日に現在の東京都・下小金井市で生れた。幼くして漢文の素養を磨き、明治33年台湾協会学校(拓殖大学の前身)に第1期生として入学している。明治35年に学業を終えた田中は北京へ遊学する。
田中逸平著『イスラム巡礼白雲遊記』
中国思想の研究を経て、彼はイスラームへと傾斜していく。ついに彼は大正13年、山東省・済南の清真南大寺で正式にイスラームの受戒を授かり、マッカへと向い、大巡礼を果したのである。この巡礼の現地レポートともいうべき『白雲遊記』が、日本人のイスラーム理解に果した役割は極めて大きい。
大正15年、田中は大東文化学院講師に就き、東洋思想に基づく道義の重要性を説いた。田中にとって興亜論とは、アジア諸国の同盟を作ることでもなく、白人に対抗することでもない。それは「天下に最善の義を行うこと」にほかならない。彼は「我が亜細亜諸民族は、古来聖人命を受け、大道を明らかにし、教を立て、之を布けるの地なり。冠して大亜細亜主義という」とも書いている。
解題見出し
田中逸平と拓殖大学 大道・万教帰一・興亜 古神道の行 イスラーム入信への道 イスラームと古神道 儒教とイスラームの調和 田中逸平と大本教 念仏修行と禊教 日本の仏教受容 富士山論 五教帰一の境地 田中逸平の皇道 今求められている宗教融和

古神道とイスラームの融合一致

同時に、彼にとって日本主義とは、アジア主義を合理的に推進するための立場であり、日本が独自の思想を基礎に大道を明らかにすることにほかならなかった。彼の主張は偏狭な国家主義、国権主義とは無縁だった。
彼は、あらゆる宗教の普遍性を認め、古神道が仏教、儒教、道教、キリスト教とも帰一していると考えていた。海野弘氏が2005年9月に刊行した『陰謀と幻想の大アジア』では、古神道とイスラームとの調和という田中のビジョンが、比較的詳しく紹介されている。また、田中逸平研究会編『ユ-ラシア東西文明に影響したイスラ-ム』(自由社)も田中の思想を取り上げている。
田中の立場は、全ての宗教は普遍性において同一のものであると主張したヒンドゥー教の聖者ヴィヴェカーナンダの思想にも通ずる。これが、彼の興亜論が人類全体に貢献できる普遍的思想だった何よりの証拠ともいいうる。
そして彼は、アジアの西の聖都マッカに赴き、古神道とイスラームの融合一致を推進することが、あらゆる宗教の帰一を実証することだと信じた。彼は、それを伊勢神宮というアジアの東の聖都を持つ日本に生まれた者の使命だとも考えていた。
昭和9年3月、彼は病をおして2回目のマッカ巡礼を果したが、帰国後病気を悪化させ、その年9月15日に亡くなった。田中は、類まれな思想家であると同時に、最後まで行動の人でもあった。
田中の葬儀は、アブデュルレシト・イブラヒームによって日本初のイスラーム式で執り行われた。
田中逸平の葬儀
坪内隆彦