支那事変以降、高嶋辰彦は東洋兵学の重要性を説くようになった。東洋兵学に対する高嶋の思いは戦後も持続した。例えば彼は、昭和三十(一九五五)年七月に「アジア政策における日本の体験と日米相互安全保障の将来」(『月刊自衛』)を著し、東洋では統率即ち人の掌握と統御指導とが兵学の第一義だと説いた。
彼は、ジンギスカンが親兵一万人の姓名を記憶していたという伝説を紹介し、兵の掌握は下士官級、でき得れば兵まで貰かれていなければならないと説いた。その上で高嶋は精神指導、心理掌握のための教育の重要性を指摘した。
さらに高嶋は、戦場や駐留地附近の現地住民の心を味方とすることが必要だと説き、朝鮮戦争に参加した際の中共軍の例を挙げる。高嶋によると、中共軍の「抗美援朝教育」は、現地住民を味方とするために徹底的な教育を行った。
そして高嶋は、東洋においては、敵に向う前に敵地の住民、敵軍の将兵、敵将の側近までみ、できる限り味方にするように工作し、敵将が孤立し、崩壌する寸前に、敵住民に歓迎されながら進軍して行くのが名将の術とさえ言われていると述べ、次のように書いている。
「これらの点でソ連や、中共の戦略、手法はアジア、東洋兵学の真髄をつかんでいる点がある」
本来、日本でもこうした兵学が維持されていたが、明治以降の兵学は多くを西欧に学んだため、現地住民、敵地住民、敵将兵を味方とする様な兵学は後退してしまった。
さらに高嶋は、西欧兵学はアジアにおける地上戦や、駐留勤務に困難を来す盲点が存するのではないかと指摘する。この高嶋の指摘は、アジア各地での反米機運の効用、ベトナム戦争でのアメリカの敗北というその後の歴史を予見しているかのようである。