尾張藩初代藩主・徳川義直の「王命に依って催さるる事」を後世に残そうとした四代藩主・徳川吉通の命により『円覚院様御伝十五ヶ条』を編んだのが、近松茂矩である。
名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第一巻(文教編)』(名古屋市教育委員会、昭和三十五年)の解説で、名古屋大学教授の佐々木隆美氏は近松について、以下のように書いている。
「…近松茂矩は、その先は近江出身、永く美濃国山県郡に住し、祖父茂英の時、尾藩に仕えて代官となり、美濃郡奉行用水奉行等を歴任、父茂清も材木奉行御馬廻等を勤めている。茂矩は長子で、彦之進と称し、正徳二年末十六歳で以て通番(所謂表小姓)となつたが、時に藩主吉通は廿四歳であり、嗣子五郎太は僅か二歳である。翌年江戸に下り、五月側小姓となつて元服したが、七月には早くも吉通の死去に遭い、彼が側近に侍した期間は結局僅かに六十余日に過ぎない。而もこの主の知遇に対しての感激が彼の生涯の方向を決定した事は前述の通りである。更に十月十八日には五郎太も死去している。かくて彼はその九月下旬から兵学自叙を書き始め、その年の末御馬廻の閑職に転じて尾張に帰り、以来故主の意を体して兵学に精進する外、神道・和歌・俳諧・茶道等、多彩な才能を発揮している。
正徳五年十九歳の若さで以て一派をたて、全流錬兵伝(後に一全流と改名)と称し、初めて錬兵堂に門を開いて教授を行ない、享保八年藩主の尋ねに応じて提出した武芸指南の年数並に門人の書上げについてみると、既に桀出した門人四十五名の多きに達している。彼が長沼流の兵学を苦心の末悉く皆伝された由来も、前述の如く故主の素志によるものであるが、その修行の経過も差出された長沼流留のうちに詳述されている。
かくの如く当時一流の兵学者としての彼は、他面吉見幸和の高足としてその許しを得た神道学者であり、敬神の念の厚い信仰者でもあつた事は、伊勢神宮や熱田神宮への崇敬事実からも知られる。更には和歌を京都の観景窓長雄に、俳諧を支考後に里紅に学び、其他茶の道にも入つているが、恐らく之等は所謂文化的教養としてのものであつたろう。たゞ俳諧は比較的その交遊範囲も広く作句も一応の出来栄えの様である。要するに風流人としての半面を多分に所有していた訳である。享保の末の「当世誰か身の上」(筆者不詳)の跋に彼は三々良の名で「世はたゞ色に遊ぶべし、色に荒む事なかれ」云々等の粋な言辞を述べている。蓋し彼の青壮年時代は、恰も名古屋の都市文化爛熟の宗春の時代である事を思うならば、容易に首肯できる。その交遊に遊女あり俳優ありで、各所の宿坊に粋を仄見せた事実は随筆を通じても伺い知られる。
著書も頗る多く而も多方面に亘り、御伝十五ヶ条を始めとして、尾藩君臣の言行故事旧聞を録した「昔咄」十三巻や、「道知辺」「錬兵伝」等の武道関係のもの、「本朝正教伝」「稲荷社伝」以下の神道もの、「視聴漫筆」「茶窓閑話」等の随筆類から和歌俳諧のものまで七十数種に及んでいる。
安永七年二月十七日、八十二歳の長寿で歿している。(墓所 平和公園 旧は北押切の本願寺)」