儒学の「天人合一」と山崎闇斎の「天人唯一」の違いはどこにあるのか。
近藤啓吾先生は、『山崎闇斎の研究』において次のように書いている。
〈「天人唯一」が宋学で重んじた天人合一の語より出るものであることは明らかである。そして伏義が仰いで天文を観、俯して地理を察て易象を作つた(繋辞伝上)といふのであるから、『易』が天人相応の理によつて構成されたものであることはいふまでもなく、周濂渓の『太極図説』といひ張横渠の『西銘』といひ、ともにこの『易』の理に本づいて天人合一を説くものであつた。闇斎が『闢異』を著はし、『周子書』を編纂し、『西銘』を表章刊行してゐるのも、この天人合一の理に、人のよりて立つ根本かあるを信じ、その理を明らかにしようとしたものである。しかし漢土に於いては、天は所詮、思惟によつて生れたものであり、「乾は父と称し坤は母と称す、予が茲の藐焉、乃い混然として中に処す」(『西銘』。闇斎の加訓による)といつても、それは天人合一をその観念上に体認することであつても、天と人と血統の上に接続するところなきことは自明のことである。朱子学に深く沈潜しながら、最後の依拠を確信することができぬ辛苦と焦心が、闇斎のうちにあつたことは疑ひ得ない。
しかるに眼を『神代巻』に転ずれば、そこに展開されてゐる高天原の世界は、神の世界ではあるが漢土の天と異なり、まさしくわが血脈上の父祖の世界である。血脈に中断なきところ、神代は即現代に継承せられ具現せられてゐるのである。これは歴史と信仰とを統合し一体ならしめるものといつてよい。闇斎はわが国のこの事実を「天人唯一」の語をもって表現したのである〉(316頁)