「……茲に相胥りて惟神顕修会を起し、広く天下同憂の士と相提携し、身心を清浄にして神前に跪坐し、神明に冥合し、以て皇国遠大の雄飛を庶幾せんとす。/吾人の念願は身を修むるに在り、魂を磨くに在り、惟神の路を践行し且之を弘宣するに在り」
惟神顕修会には、千家尊建、田尻隼人、澤田五郎、大森曹玄ら「聖日本学会」の同志のほか、雑賀博愛、鹿子木員信、草鹿龍之介らが参加し、顧問には、靖国神社宮司の賀茂百樹と、白川家第三十代の雅寿王の曾孫にあたる第33代白川資長子爵が就いた。
注目すべきは、満川が教学・研究とともに、古来から実修され、伝承されてきた行法を模範とした「調息靖魂」の行を精修密錬すると宣言し、白川子爵の指導によって修行へと没入していったことである。だが、昭和11年5月3日、突然脳溢血で倒れ、12日に死去する。享年48歳であった。
ジャーナリストとして出発し、大学などで教鞭をとった満川は、理性の人であり、どちらかと言えば学者肌の人間だったように見える。しかし、修行に没入した最晩年の行動は、彼が意思の人であったことを示してはいないか。「興亜のためにまず日本を変える。日本を変えるために、自らを根本的に変える」。それが、国体の把握を目指した修行への没入に込められた満川の思いだったのだろう。