彼の思想は、日本国体に哲人政治の理想体現を見て、独自の興亜論を唱えた鹿子木員信の思想から影響を受けていた。また、亜細亜の精神的、宗教的価値を称揚した岡倉天心の思想にも通ずる。以下に掲げる『新亜細亜の誕生』の一章「新亜細亜文化の建設」は、そうした村田の思想を最も良く示している。
〈人類文化の揺籃と世界宗教の淵源とを尋ぬる時、そは我が亜細亜を措いて外にない。かの世界最古の文化と呼ばるゝメソポタミヤ乃至古代印度の文化等、欧羅巴文明に先立つこと数千年の往昔に於て、亜細亜には既に卓越せる文化が存在して居り、又世界の三大宗教たる仏教、キリスト教、回教の発祥地も亦実に亜細亜に属する。而して暴戻なる近代資本主義的欧羅巴の征服するところとなつた亜細亜は、今に於てたとへ昔日の栄光を見出すべくもないとは云へ、而も亜細亜独自の高貴な姿に於て、今猶其光芒の搖曳するものあるを看取すること出来るので、我が亜細亜こそ凡そ精神的なる意味に於ての一切の高貴と偉大の源泉であり、釈迦、キリスト、マホメット等の宗教的天才は実に亜細亜の上代に於て此世に出現し、又印度、波斯等の多種多様なる民譚も東洋精神の衷なる魂の力を物語つて居るもので、民話に於ても亦亜細亜は世界の母である。
洵に亜細亜の特徴は其精神的なる齢に存し、世界に於ける人類の魂の道場乃至大自然の殿堂は、実に我が亜細亜の中に在るのであつて、其宗教的直観乃至哲学的叡智は、欧羅巴の物質的意欲乃至機械的理論に対して高貴荘厳の姿を示して居り、雄渾ヒマラヤは実に是れ亜細亜の象徴そのものであると云つてよい。されば古来亜細亜の偉大なる運動は、多くは其源を宗教運動に発足し、自然と人間との霊的交流は亜細亜に於て最も其高さと深さを極め、欧羅巴の自我と功利を説くに対して亜細亜は自然と霊魂への帰一を唱へ、かのウパニシャッド哲学は、森林の生活こそは真の人間生活の根元であると論じて居るが、又詩人タゴールは『人間よ、大自然の声に聴け!』と歌つて居る。
而して真理は一切に共通のものであるべきに拘らす、亜細亜と欧羅巴とは、元始以来一切の起伏の中に於て、相異れる二様相を有して居るが、而も一面翻つて虚心坦懐此等を検討し見る時、亜細原高古の伝統たる其精神的文化は洵に世界に誇るに足るものあるが、而も其精神主義に固執して科学の探求を怠つたことは、一面社会進化の法則に背馳し殊にも近代産業革命に於て、欧羅巴資本主義の乗ずるところとなつたことの事実は之を否定することが出来ない。此点欧羅巴文化は、之を亜細亜の高貴荘厳の姿に比して、其精神的価値に於て固より較ぶべくもないとは云へ、一面近代欧羅巴の訓へたる現実尊重の思想と機械文明の採用は、荀も人間として社会進化の理法に支配さるゝ限り、之を認めなければならぬところで、往昔メソポタミヤ、印度等に栄えた亜細亜最古の文化が、希臘を経て欧羅巴に亘り、それが彼等の現実的才能によつて、近代白人国家隆昌の源を焉すに至つたことを考へたならば、思ひ半ばに過ぐるものあるであらう。
試みに此二者を比較すれば、亜細亜は先づ其根本に於て精神的なるに対し欧羅巴は物質的であり、亜細亜の直観的なるに対し欧羅巴は分析的であり、亜細亜の宗教的なるに対し欧羅巴は現実的であり、亜細亜の保守的なるに対し欧羅巴は進歩的であると云ひ得る。もとより此等は両大陸に亘る大体の傾向に就いて云ふものであるが、亜細亜には宗数的乃至哲学的に優れたる一面があると同時に、人類の本能たる欲望を制限或は否定するの結果、経済生活乃至自然科学への関心を稀薄にし、従って機械の発明乃至能率の研究なく、又過去の伝統を重んずるの余り、其残滓に固執して溌刺たる民族性の進展を阻む等、其処には幾多の是正せられねばならぬものがある。併しながら又此等の欠点は利害相半ばし、亜細亜は其精神的乃至保守的傾向あつたによつて、一面過去の輝かしき伝統を誇り得たと同時に、其長き歴史に於ける一切の起伏の中に今猶其光耀を偲ばしむるものあるので、此等は一概に云ふことは出来ないけれども究極するところ、今や新らしき亜細亜が世界史的使命を帯びて登高の一路を辿り行かむとする時、亜細亜の向ふべき指標は之を最も堅確に把持するところなければなもない。即ち之を一言にし尽せば、亜細亜は過去の歴史的光耀を復古せしむる意味に於ても、亜細亜の本質たる精神的特徴は之を飽くまで護持長養して後昆に伝ふると同時に、而も之に伴ふ精神主義的偏向、換言すれば無批判に過去の伝統に沈湎して、民族的気魄を喪失せしむる停滞性を放擲するところなければならない。而してそれには先づ亜細亜の歴史的事賞と未来の登展的志向との間に、最も聴明にして周到なる独創を以てせねばならぬので、過去一切の伝統の中から、其本質的なるもの乃至は永遠的なるものを抽出したる上、亜細亜的叡智乃至情熱は之を飽まで生かすと共に、欧羅巴の近代科学性を探り入れ、以て旧来の亜細亜が陥つた社会進化の理法に背くの弊から脱却するところなければならない。
而も此等は云ふに易くして行ふに難いことのやうであるが、之れまで我が日本の進んで来た道は明かに此事の可能を実証して居るので、日本は古きを失ふなくしてよく新らしきを摂取し、伝統を経とし進取を緯とし、殊にも明治維新に於て、王政復古と同時にあらゆる近代的革新を断行して今日の隆昌国家を来した。されば今後の亜細亜の新らしき文化は、それはもとより単なる西欧文化の模倣でもなければ、又徒らなる過去伝統の残滓に固執するものでもなく、亜細亜の持つ本質的なるものゝ上に、更に進んであらゆる世界のよきものを摂取することであつて、それは此難事を敢て身を以て焉し遂げた日本今日の文化の溌剌さに対し、シュペングラー博士の所謂西欧文明の窮迫や、旧来の亜細亜文化の停滞性を比較し来る時、おのづからにして会得せらるゝものあるであらう〉
新亜細亜文化の建設を夢見た村田とは、どのような人物だったのだろうか。以下、『あきた』に掲載された「碑の周辺(第17回)」に基づいて紹介しておく。
村田は、明治十八年三月十八日に秋田県平鹿郡平鹿町浅舞で生まれた。父・範光は、若いころ平田鉄胤と交流し、篤胤の国学思想に造詣が深く、県会議員や町長をつとめた人物である。
村田は、横手中学を経て、明治三十七年、早稲田の文科に進む。かねてより私淑していた尾上紫舟の門下である前田夕暮の白日社に入って、歌人の修業を積んだ。大正四年、東京の東雲堂より第一歌集『原始へ』を出版、翌五年には、第二歌集『若き日の思い出より』を刊行している。
一方、評論集として『土を流るる永遠の愛』(大正十五年)、『如是我観』(昭十五年)などを刊行している。ここで注目したいのは、村田のインドへの情熱である。ガンジーを崇拝していた彼は、いつかインドに渡り、カンジーのように最下層階級の解放に余生を捧げたいという希望を抱いていたのである。